松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2010年9月19日(日)
説教題「神の名が刻まれた系図」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第3章23節〜38節

 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。

旧約聖書: 創世記 第5章1〜32節

 ルカによる福音書から御言葉を聴くのは三週間ぶりになります。三週間前、ルカによる福音書の説教が終わったときのこと。たしか日曜日の夜のことだったと思いますが、妻からこんなことを言われました。「ルカによる福音書の次の箇所の説教は大変そうだね」。そんなふうに言われて、妻に同情されてしまったわけです。なぜ大変と思えたのか、あまり詳しくはその理由まで聞かなかったのですが、おそらくはこういうことだと思います。この箇所は名前の羅列である。こんな箇所から一体どのようにして福音を語ればよいのか。大変だね、ということだったのだと思います。

 たしかに、本日与えられました箇所は、初めの部分を除きまして、あとは名前の羅列であります。合わせてお読みした旧約聖書の創世記の箇所もまた、基本的には名前の羅列でありました。したがいまして、本日の聖書朗読の大部分が、人の名前を読み上げるということになりました。私はいつも司式をしていますが、こう見えてもいつも緊張します。一番緊張するのは、聖書朗読のときです。そして今日はいつにもまして緊張いたしました。何度も練習をして、今日の礼拝に臨みました。

 そんな聖書の箇所であるわけですけれども、私たちはこの箇所から福音を聴きとらなければなりません。人の名前の羅列からどう福音を聴きとればよいのでしょうか。聖書朗読をお聴きになって、皆さまはどうお感じになられたでしょうか。ここに記されている何人かの名前は聞いたことがあるかもしれません。しかし大部分の名前は、初めて耳にしたのではないかと思います。

 私もこの説教において、一人一人の名前を解説することはいたしません。そのための準備もしていません。事実、聖書の解説をしてくれる注解書を開いても、この人の名前はよく分からない、これは誰だかわからない、ということが書いてあるくらいです。

 ついでに申しますと、マタイによる福音書の冒頭、つまり新約聖書の一番始めということになりますが、ここにも主イエスの系図が記されています。この系図と比較されることもしばしばあります。しかも名前があまり一致していません。特に、主イエスとイスラエルの偉大な王様であったダビデの間が、ほとんど一致していない。これはおそらく別ルートの系図を辿ったからだろうと言われていますが、そんなことを探っても、学問研究にはなるかもしれませんが、神の言葉としての説教になるわけではありません。

 そういうことが、この説教の目的ではないのです。この福音書を記したルカもまた、そんな目的のためにこの系図を記したのではないでしょう。人の細かい名前をよりも、なぜルカがこの箇所にこの系図を記したのか、それを読みとることが、福音を聴くための手掛かりになるのではないかと思うのです。そうしたときに、福音が自ずと明らかになってくるでしょう。

 人の名前が羅列されていく前に、まずルカは主イエスの年齢について言及いたします。「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。」(二三節)。三十歳という年齢を、皆さまはどのように感じられるでしょうか。教会の中を見渡してみますと、三十歳という年齢は若い方になります。かなり若い方と言った方がよいかもしれません。しかし当時の三十歳は、今の三十歳とまるで違うものでありました。

 聖書が書かれた当時の社会的な背景を教えてくれる本を読みますと、当時は長生きするのが大変でありました。三分の一の子どもが六歳になるまでに死亡したのだそうです。十代半ばまでで六〇パーセントが、二〇代半ばまでで七五パーセントが、そして四〇代半ばまでで九〇パーセントが亡くなってしまうのだそうです。平均年齢となると、一体何歳になるのか分かりません。

 けれどもこう考えてみますと、主イエスの三〇歳という年齢は、かなりの年長者であると言えます。主イエスとしばしば論争をした律法学者やファリサイ派の人たちは、当時、権力を持っていた人たちでしたから、そのくらいの年齢には達していたのかもしれません。しかし主イエスのもとに話を聴きに来たり、癒しを求めてやってきた人々は、主イエスにとってはほとんどが年少者であったのです。

 三〇という年齢は旧約聖書を詳細に読みますと、意味のある年齢であることが分かります。イスラエルの国の偉大な王様であったダビデ王が、王様になったのが三〇歳であります。また、イスラエルの人々にとって、神殿に仕えて様々な祭儀を執り行う祭司は、とても重要な仕事であります。この祭司になることができるのは、三〇歳以上であったとされています。ルカももしかしたら、王や祭司にふさわしい年齢であったと、わざわざ主イエスの年齢まで記しているのかもしれません。

 けれども、ルカの意図はそれだけではないと思います。ルカはまず父親であるヨセフを、系図の初めにその名を記すわけですけれども、このように記しています。「イエスはヨセフの子と思われていた。」(二三節)。主イエスとヨセフとの親子関係をそのように記すわけです。主イエスのおじいさんにあたるエリとヨセフの関係については、「ヨセフはエリの子」(二四節)というように、「思われていた」などとは記されません。

 なぜ、イエスはヨセフの子と思われていたなどと記されるのかと言いますと、これは言うまでもないでしょう。ルカによる福音書の第一章と第二章を読み進めてきた読者にとって、主イエスは本当にヨセフの子か、という疑問を抱いてしまうかもしれません。マリアが処女のときに、聖霊によって身籠ったと明確に書かれているからです。そうすると、ヨセフから先に系図をさかのぼっていくことができなくなってしまいます。

 しかしこの地上に主イエスがお生まれになるにあたって、神は母親としてはもちろんマリアを、父親としてはヨセフを選ばれたのです。そしてそれは、人々も認めるところでありました。主イエスは三〇歳になられていた。もう十分すぎるほどの大人。ヨセフの子として育ち、大人になっていったのです。ルカによる福音書の第四章に、人々のこのような言葉があります。

 「この人はヨセフの子ではないか。」(四・二二)。主イエスの口から出る言葉に、驚きのあまり人々はこのような言葉を口にしたのです。この言葉の意味するところは、主イエスがヨセフの子であると、完全に認知されていたということを表しています。三〇歳という年齢も、そのことを表していると言えるのです。

 そしてルカはいよいよ本格的な系図に入っていきます。次々の人の名前を挙げていきます。「ヨセフはエリの子」(二三節)という言葉に始まり、マタトの、レビの、メルキの、というように、人の名前を繋いで、系図を記していくわけです。

 一般的に言いまして、系図はどのような場合に意味を持つのでしょうか。一つ考えられるのは、アイデンティティーを保つためでしょう。アイデンティティーという言葉は、日本語にするのが難しい言葉ですが、辞書を引きますと「自己同一性」という意味であることが書かれています。要するにその人の存在証明ということです。

 たとえば、私が会社で働いていた頃、会社の社員にはIDカードが配布されました。そこに私の写真や社員番号が書かれているわけですが、会社の敷地内に入るときに、必ずIDカードを守衛さんに見せなければ入れてもらえませんでした。さらに私は会社内の研究所で働いておりましたので、研究所の建物の中に入るために、今度はIDカードを機械に通さなければなりませんでした。そのIDカードを持っていることが、私が会社の人であるという存在を証明してくれたわけです。外国旅行のときのパスポートも同じでしょう。自分が日本人であり、その最初のページに記された人物であることの証明をしてくれるのが、日本国のパスポートです。

 系図はこのアイデンティティーを保つための役割があります。たとえば家の系図が作られるとする。自分の名前がその系図の中にあれば、自分はその家の人間であることが証明されます。ある男女が結婚をする。そうするとその男女が線で結ばれることになります。しかしその男女は独立しているわけではなく、それぞれの家族の線がありました。その二つの家族が、男女の結婚によって、さらに結ばれていくわけです。一つの家族と言いますか、親族になるわけです。系図はそれを確認するために、非常に役立つものであります。

 本日お読みした旧約聖書の箇所も系図でありました。アダムからノアに至るまでの系図です。「これはアダムの系図の書である。」(創五・一)とあります。系図という言葉、実は創世記ではとても重要な言葉でありまして、系図というだけでなく、由来とか、物語とも訳せる言葉です。七日間で天地が造られた話の最後のところに、「これが天地創造の由来である。」(創二・四)と書かれています。

 この由来という言葉は系図と同じ言葉です。さらに、「これはノアの物語である。」(創六・九)とノアの話の最初のところに記されています。ここでの物語という言葉も、系図と同じ言葉です。つまり、系図という言葉は、由来とか物語と同じ意味の言葉であるのです。

 たしかに系図を記す意味も、由来をはっきりさせたいからということもありますし、その系図内の物語、出来事があるわけです。主イエスの系図を記したルカもまた、そこに目的を見出していたのだと思いま す。主イエスの系図を記すことにより、主イエスの由来をはっきりとさせる。さらには主イエスに至るまでの物語をはっきりさせる。このことが、ルカが系図を記した目的だったのではないかと思うのです。

 主イエスのこの系図は、主イエスのアイデンティティーをはっきりとさせるものです。主イエスがダビデに由来する、アブラハムに由来する。旧約聖書の重要人物に由来するということは、たしかに大切なことだったでしょう。さらにルカはそれだけに留めません。最初の人間であるアダムにまで遡っていく。そしてついには神に至るとまで言うのです。主イエスのアイデンティティーをそのように表現するのです。

 ここまで説教をお聴きになった皆さまの中に、今日の話は主イエスのアイデンティティーの話しであって、あまり私たちには直接関係がないと思われる方もおられるかもしれません。しかし実はそうではなくて、その逆なのです。

 私たち教会に集まる者は、救い主である主イエスを信じています。もしこれが違う救い主を信じていることになったとしたら、困ることになるわけです。こう考えますと、主イエスが誰なのかということを、まずはっきりさせないといけないのです。同じ神を信じていないと、教会では大変困ったことになってしまうのです。主イエスの存在がはっきりしないと、私たちの存在もはっきりしなくなるということが起こってしまう。

 つまり、主イエスのアイデンティティーがはっきりすることが、私たちのアイデンティティーにもつながるのです。

 先週の月曜日から火曜日にかけて、東海教区の伝道協議会という集まりがありました。私と長老の三名の合計四名が、ここに参加をいたしました。テーマは「教会法と教会形成」であります。教会法とは、文字通り教会の法のことでありますけれども、具体的に言いますと、日本基督教団にも、この松本東教会にも規則があります。これらの規則に則って、私たちは教会を形成しているのであります。

 教会の規則と聞きますと、どうお感じになれるでしょうか。本当にそのようなものが必要なのか、神さまを信じて礼拝していれば、規則などなくてもよいではないか。愛さえさればよいではないかと思われる方もおられるかもしれません。しかしこの規則があるからこそ、私たちのアイデンティティーがはっきりしてくるのでありますし、私たちのアイデンティティーがはっきりしてくると、教会をしっかりと形成することができるのであります。

 私たちのアイデンティティーにかかわる具体的な話をいたしますと、洗礼を受けておられる方は、教会では「信徒」と呼ばれます。教会の規則にはこう書かれています。「信徒とは、教会または伝道所に所属し、その会員名簿に登録された者とする」(教規第一三四条)。信徒はその教会の会員名簿に登録されているわけですが、さらに信徒はこのように分けられます。「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない」(教規第一三五条)。さらに陪餐会員とは何かということが、こう書かれています。「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマを領した者」(教規第一三六条)。

 少し込み入った話になったと思われるかもしれません。しかし今読み上げました規則は、当たり前のことを規則にしたにすぎません。陪餐会員とは、聖餐に与ることができる者ですけれども、その陪餐会員になるためには、信仰を告白して洗礼を受けなければならない。その陪餐会員が、その教会の会員名簿に登録される。教会の名簿は天の国の名簿に等しい。そのようにして、救いが確かなものになるのであります。

 これらの規則から、私たちのアイデンティティーがはっきりとしてきます。まず私たちは信仰を告白したわけです。この教会に属する者にとっては、日本基督教団の信仰告白になりますけれども、これを信じ、受け入れ、告白している。この信仰告白の中に、当然、主イエスが誰かということが記されています。主イエスのアイデンティティーが示されている。誰を信じているのかがはっきりしている。

 だから、信仰を告白して、洗礼を受け、信徒となった者、陪餐会員となった者は、あなたと私は同じですね、同じ神さまを信じているのですね、ということになる。私たちのアイデンティティーもそこではっきりしてくるわけです。

 先週の木曜日、教会員であった方がご実家に帰られました。これからは同じ日本基督教団の別の教会で、教会生活を送られることになります。九月の長老会において、その方の転出を承認いたしました。その後、私は一枚の書類を転会先の教会に郵送いたしました。転入会にかかわる書類です。そしておそらく十月の初めのことになると思いますが、向こうの教会の役員会で転入が承認されれば、正式に教会の陪餐会員になります。これですべての手続きが終了です。

 この手順はもちろん教会の規則に則った手順になりますが、同じ日本基督教団ですと、これだけで話は済むのです。礼拝の中での転入会式の必要もありません。どうしてかと言いますと、あなたはもう日本基督教団の信仰告白を受け入れていますね、陪餐会員として教会生活を送っていますね、そうでしたら結構です、私たちと同じアイデンティティーですね、ということになるのです。

 今年の七月には、もう何年も前にご実家の方に戻られて、この教会の不在会員であった方の転出を長老会で承認いたしました。カトリック教会への転出であります。この場合は少しだけ複雑になります。この方と、手紙や電話で何度かやりとりしたのですが、カトリックへ転会するにあたって、しっかりと確認されたことは、あなたは父と子と聖霊の名による三位一体の神の名で、洗礼を受けていますね、ということだったようです。

 かつてカトリック教会は、プロテスタント教会の洗礼を認めないこともありまして、この場合は洗礼を受け直さねばならなかったわけですが、少しずつ融和も進んでいるのでしょうか。この方の場合も、洗礼を受け直す必要がなかったようです。もちろん、日本基督教団の信仰告白とは少し違う、カトリック教会の信仰を告白することを求められたと思います。堅信式が行われて、正式なメンバーになったようであります。そのようにして、アイデンティティーを確認していったわけです。

 二人の方を例に挙げました。キリスト者としての私たちのアイデンティティーを問うときに、私たちが信じている神が一体どういうお方なのか、神のアイデンティティーを問うことを避けては通れません。そして本日私たちに与えられた箇所に記されている系図においても、主イエスのアイデンティティーが明らかにされています。

 主イエスはダビデに由来し、アブラハムにも由来するばかりでない。人間の出発点であるアダム、そして神にまで由来する。したがいまして、ここに記されている系図のスケールは壮大なものであります。全人類の系図と言ってもよいほどです。

 アダムと言いますと、最初の人間でありますけれども、人間の罪と切り離すことができない存在であります。取って食べるなと命じられた木から取って食べてしまった。そのことによって罪が入り込んでしまった。すべての人間は、このアダムの罪を引き継いでしまっている。これを原罪と呼びます。この原罪によって、私たちは罪から逃れ得ないことになってしまいましたけれども、キリストはアダムの子孫になって下さった。アダムの子孫としてこの地上にお生まれ下さったのであります。アダム以来、すべての罪を赦すために来て下さった。

 ルカによる福音書の系図から、主イエスのアイデンティティーに関する様々なことが示されていると思いますけれども、決定的なことは、アダム以来の罪の問題を解決するためであります。罪の根っこを根こそぎ取り払うために、主は来られた。人間の罪が表れている系図の中に、主イエスの名がはっきりと刻まれたのであります。

 私たちはこの系図に記された主イエスを救い主であると信じています。このお方のアイデンティティーがはっきりするときに、私たちのアイデンティティーもはっきりとする。私たちは何者なのか、それは主イエスを救い主であると信じているキリスト者であると、はっきり言うことができるのであります。これこそ、私たちの最大のアイデンティティーであります。