松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年8月29日(日)
説教題「生まれ変わる喜び」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第3章21節〜22節

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

旧約聖書: 詩編 第2編


レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
キリストの洗礼(The Baptism of Christ)/ヴェロッキオ工房(Andrea del Verrocchio)

キリストの洗礼(The Baptism of Christ)/ヴェロッキオ工房(Andrea del Verrocchio)
ウフィツィ美術館 蔵(Galleria degli Uffizi)(フィレンツェ/イタリア)

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 ルカによる福音書から、私たちは御言葉を聴き続けています。四月より、ルカによる福音書の第一章の初めから、少しずつ区切って御言葉を聴いてまいりました。いよいよ、主イエスが本格的に登場されるところまでやってきました。もちろん、主イエスがお生まれになったときや、少年時代の主イエスの話も、今までにありました。しかしいよいよ主イエスが大人になられて、本格的な歩みが始まる。それにあたって、洗礼を授けられる。サタンから誘惑を受けられる。そして、神の国を宣べ伝える歩みが始まっていくのであります。

 ルカによる福音書の説教を続けてきまして、私もいろいろと思うことがあります。これは当たり前のことかもしれませんが、ルカによる福音書には、ルカによる福音書ならではの特徴があるということです。それぞれの福音書には、それぞれの性格がある。ルカによる福音書では、この箇所に至るまで、かなり洗礼者ヨハネにスポットライトを当てて、ルカは福音書を記してきました。主イエスがお生まれになったときのことのみならず、洗礼者ヨハネが生まれたときのことも記します。

 そして第三章は、二〇節に至るまで、洗礼者ヨハネが人々に洗礼を宣べ伝えていることが詳細に記されています。ここまでヨハネのことが詳しく記されている福音書は、他にはありません。しかしヨハネに当てられていたスポットライトは、だんだんと消えていきます。ヨハネは牢に閉じ込められてしまう。

 そのことが二〇節に書かれています。明らかにこれは時間的に言えば、もっと後の出来事です。主イエスはヨハネから洗礼を受けられるからです。時間的には明らかな矛盾であります。しかしルカが、わざわざ時間的な順序をひっくり返したのは、ヨハネに当てられていたスポットライトを、主イエスに当てたかったからであります。ここからはいよいよ主イエスが本格的に登場される。ルカの福音書を書いていく手法はこうであります。

 本日、私たちに与えられました箇所は、主イエスが洗礼を受けられる場面です。これはルカによる福音書だけでなく、マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にもあります。このような箇所を、並行記事と言います。しかしこのような並行記事があるからといって、その内容までも、まったく同じとは限りません。むしろ並行記事がある場合は、それぞれの福音書の特徴がよく表れていると言えます。それぞれの特徴をもとにして、その出来事が記されるのです。

 並行記事がある場合に、説教準備にあたって私がいたしますことは、それぞれの箇所を比較するということです。最近は便利なものがありまして、並行記事が同時に印刷されている本があります。それを開けば、こっちの福音書にはこの言葉があるけれども、そっちにはない、ということなどが一目瞭然となります。

 本日の聖書箇所でルカによる福音書だけにしかない言葉は、「祈っておられると」(二一節)という言葉です。主イエスが洗礼を受けられたことは、どの福音書にも記されているわけですけれども、祈っておられたということは、ルカによる福音書だけにしかありません。このような祈る姿が描かれていることも、ルカによる福音書の大きな特徴であります。ルカによる福音書では、しばしば主イエスは祈っておられる。どんな言葉で祈っておられるのか、それは記されないことが多いですけれども、とにかく祈っていることが、ところどころ記されます。

 主イエスが十二人の弟子を選ばれるにあたって、祈ってから選んでいます。あるときには、一人で山に登られて祈る。別のときには、主イエスの祈っている姿を見た弟子たちが、「わたしたちにも祈りを教えてください」(一一・一)と言います。それに応えて、主イエスが主の祈りを教えられます。十字架の前夜にも、祈られています。本日の聖書箇所、洗礼を受けられるときもそうですけれども、主イエスがたびたび祈られている姿を、ルカは記すのです。これも、ルカによる福音書の大きな特徴の一つであります。

 主イエスの祈りの姿が描かれていますと、気になるのは、主イエスが何を祈っておられたのかということです。弟子たちに主の祈りを教えたときには、主イエスもご自分の祈りだった主の祈りを教えたのではないかと、想像することができます。今回の場合、洗礼を受けられた主イエスは何を祈られていたのでしょうか。聖書にはその内容まで記されておりませんので、これも想像する以外にありません。

 まず、主イエスが洗礼を受けられたときの状況を考えてみることにしましょう。二一節には、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」とあります。主イエスはこのとき、民衆の中の一人として、洗礼をお受けになられました。しかし一体いつから主イエスは民衆の中におられたのでしょうか。

 第三章の初めのところから振り返ってみると、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」(三・三)を宣べ伝えています。人々に言葉を語りかけ、洗礼を奨めるわけです。ヨハネのもとには大勢の人たちが集まってきました。群衆、徴税人、兵士。それぞれの人に対して、具体的な悔い改めを求めます。そして自分よりも優れた方が後から来られるとヨハネは言います。そのお方こそ、主イエス・キリストであります。

 話の流れとしては、今言った通りですが、一体主イエスはいつから登場していたのでしょうか。二〇節と二一節は区切られているように見えますけれども、同じ日の出来事です。群衆、徴税人、兵士が悔い改めをしている中に、主イエスがおられたかもしれません。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。」(一六節)とヨハネが民衆に言った、その中に、実は主イエスがおられたかもしれないのです。

 主イエスは、洗礼を受ける民衆のただ中にいらしたのであります。罪を悔い改めて、洗礼を受ける民衆と一緒に、洗礼をお受けになりました。主イエスは神の子でありますから、当然、罪がありません。罪の赦しに至る、悔い改めの洗礼など受ける必要がないのではないかと思われるかもしれません。しかしそれにもかかわらず、主イエスは罪人と共に、洗礼を受けられた。主イエスが洗礼を受けられたこのときに、何を祈っておられたのか、おのずと明らかになるでしょう。罪人のために、執り成しの祈りをしていたのではないか。そう考えることができるのです。

 先週、私は教会員の方と二人で祈るひとときが与えられました。二人だけでありましたから、個人的なことを祈ることができます。その方は、こう祈られました。「わたしの母はまだあなたのことを知らない。知らないゆえに、あんなことをしてしまう。どうか母のその罪を赦してください」、そう祈られました。親しい者の罪を執り成す祈りであります。私たちにもこのような祈りをすることができる。

 同じように、主イエスも執り成しの祈りをされました。十字架につけられたときもそうです。これはめずらしく、ルカによる福音書だけに記されている祈りです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(二三・三四)。周りの罪人のために、執り成してくださる。主イエスはこのようなお方です。本日の聖書箇所には、祈りの内容までは記されていませんけれども、主イエスは一緒に洗礼を受けられていた民衆の罪の執り成しを、祈ってくださったのです。

 洗礼を受けられた主イエスは、いよいよこれから本格的な歩みを開始されます。その歩みの最初に、私たちの罪のために、執り成しの祈りをしてくださった。私たちはこの事実をしっかりと受け止めたいと思います。洗礼者ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ」(八節)と言います。私たちは自分を吟味します。悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるだろうか。

 しかしそのとき、私たちは主イエスがこの私のために祈っていてくださることを忘れることはできません。そして主イエスは、この私のために十字架にお架かりになる。その十字架の上でも、私たちのために、執り成しの祈りをしてくださる。私たちは、主イエスが祈って下さる祈りに支えられているのであります。

 二一節に戻りますと、主イエスの祈りの結果、天が開けるということが起こりました。聖霊が鳩のように目に見える姿で降ってくるということも起こる。ある人が、このことを、主イエスの祈りが聞かれた結果だと言いました。主イエスが祈った、その祈りが、父なる神によって聞かれて、天が開くということが起こったと言うのです。なかなか面白い考えであると思います。たしかにその通りかもしれません。ヨハネの力では、天が開けるということなど起こらなかったのです。

 先週の説教で語ったことですけれども、ヨハネが授けた洗礼と主イエスの洗礼は違いが生じています。ヨハネは「水」で洗礼を授けました。これに対し、主イエスの洗礼は「聖霊と火」による洗礼です。この「聖霊と火」による洗礼は、ペンテコステの日以降、人々に授けられることになります。主イエスが天に昇られ、弟子たちが残される。その弟子たちに「炎のような舌」が現れる。弟子たちは説教を語る。その説教を聴いていた人々が、悔い改めて洗礼を受ける。賜物として聖霊を受ける。これがペンテコステの出来事であり、このときの洗礼が「聖霊と火」による洗礼であります。

 しかし、主イエスがここで受けられた洗礼は、ヨハネからの「水」による洗礼でありながらも、それに留まらなかったのであります。祈っていると、天が開け、聖霊が降った。「聖霊と火」によるまことの洗礼を、このとき初めて、主イエスが受けることになったのです。その意味で、主イエスはまことの洗礼の初穂です。初穂とは、最初の実りのことです。その後に、続々と実りが続きます。主イエスは実りの初穂であり、その後に私たちも続くことになりました。私たちが今、受ける洗礼もまことの洗礼であります。そのまことの洗礼を初めて受けられた方が主イエスです。私たちが主イエスの後に続くことができるようにしてくださったのです。

 最後に記されているのは、天からの声であります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(二二節)。この言葉は、本日お読みした旧約聖書の言葉に似ていたと思われたかもしれません。詩編第二編七節の言葉です。「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。」(詩編二・七)。この詩編第二編は、王の即位の歌であると言われています。

 実際に、イスラエルの国には、大勢の王様が登場いたしました。そしてその王の善し悪しによって、国が栄えたり衰えたりしていきます。主の目にかなう正しいことを行うのか、それとも主の目に悪とされることを行うのか、それが国の繁栄にかかわり、存亡にかかわることになりました。人々はまことの王を求め、この詩編第二編を歌ったのだと思います。

 そのまことの王が即位をされる。主イエスの洗礼が、王の即位と結び合わされることになりました。しばしば誤解されることですけれども、主イエスが洗礼を受け、聖霊が降った、このとき初めて主イエスが神の子になったと誤解されることがあります。洗礼を受け、聖霊が降るまでは、ただの人であり、このとき初めて神の子になったという考えです。もちろんそうではありません。主イエスはまことの神であり、かつ、まことの人でありました。そのことは、ルカによる福音書の初めから、ルカが丁寧に誤解のないように記してきたことであります。

 では、王の即位と主イエスの洗礼がどう結びつくのか。これはむしろ、主イエスがこれからいよいよ本格的に歩み始める、それにあたって、神から与えられた使命を、確かなものにするためでありましょう。罪人のただ中におられ、洗礼を受けられた。さあ、これからいよいよ、私たちの罪を赦すため、その使命に出かけて行く。そのときに天から響いてきた声なのであります。

 ルカによる福音書のこの箇所の後に記されていることは、私たちの罪のために、主イエスが何をしてくださったのかということです。ルカによる福音書の大きな特徴となっているのが、神の国から失われた罪人の回復ということです。ある人が、ルカによる福音書のピークは、第十五章にあると言っています。もちろん主イエスが十字架にお架かりになって、復活をされたということがピークであり、クライマックスなのではありますが、第十五章にもピークがあると言う。

 第十五章には三つの譬え話があります。百匹の羊を飼っていた人が、一匹の羊を見失ってしまう。九九匹を残してでも、見失った一匹を探し出すという話です。同じような譬え話が、銀貨によっても語られます。十枚の銀貨のうち、一枚を無くしてしまった。そしてそれを念入りに捜して見つけるという話です。そして三番目の話しは、放蕩息子の譬え話です。父から財産を分けてもらい、父から離れて放蕩の限りを尽くす。しかし我に返って父のもとに戻ってくる話です。

 いずれの話にも共通しているのは、見失ったと思われたものが返ってくるという点です。しかしそれだけではなくて、見つかったときの喜びが、とても強調されています。喜んだのは、もちろん迷子になった羊や放蕩の限りを尽くした息子もそうでしょうが、何よりも強調されているのは、羊飼いの喜びであり、父の喜びです。天に喜びがあると言うのです。

 本日、私たちに与えられた箇所にあります天からの声、この声にも喜びが表されています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(二二節)。この言葉を、元の言葉に忠実に訳すと、こうなります。「あなたは、わたしが喜びとする、わたしの愛する子である」。あなたは私の愛する子であるとともに、あなたは私の喜びであると言うのです。洗礼を受けたときに天から響いてくる声とはこの声であります。

 悔い改める罪人が洗礼を受ける。そのことは、見失われた一匹の羊が羊飼いのもとに返ってくることであり、放蕩の限りを尽くした息子が父のもとに返ることなのです。洗礼とは、神のもとに返ってくる喜びです。私たちの喜びでもあります。しかしそれだけではない。神が喜んでくださる。私たち一人一人が洗礼を受けたとき、神が喜んでくださるのであります。天には大きな喜びがあるのであります。

 本日の説教の説教題を「生まれ変わる喜び」といたしました。これも私たちの喜びだけではありません。神の喜びになります。神のもとを離れていた罪人が、神のもとに戻る。失われていた人が回復する。その人が洗礼を受けて生まれ変わる。これ以上の喜びはありません。私たちが洗礼を受けて、天にも地にも喜びがあるようにしてくださったのは、主イエスがまず、私たちに先立って洗礼を受けてくださったからであります。主イエスの執り成しの祈りに支えられているからであります。すべてに主イエスの支えがあるのであります。