松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年8月22日(日)
説教題「誰が本当の救い主なのか」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第3章15節〜20節

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

旧約聖書: イザヤ書 第11章1〜10節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
バプテスマのヨハネの説教(Sermon of John the Baptist)/レンブラント・ファン・レイン (Rembrandt Harmensz, van Rijn)

バプテスマのヨハネの説教(The Preaching of St John the Baptist)/バチッチオ -ジョヴァンニ・バッティスタ(BACICCIO-Giovanni Battista)
ルーヴル美術館 蔵(Musée du Louvre)
(パリ/フランス)

上記をクリックすると作品のある「Web Gallery of Art」のページにリンクします。

 私が神学校を卒業する直前に、いくつかの実践的な授業を受けました。これから伝道の最前線へ出ていくにあたって、必要になるであろうことを集中的に学んだのです。その中に、いわゆるカルト宗教に関する授業がありました。牧師になりますと、時にそのような知識が必要になる場合があります。実際にカルト宗教で困っている人の相談に乗るケースもあります。日本基督教団の中にも、そのような相談窓口があるのです。

 このようなカルト宗教は、古くからある宗教というわけではなく、比較的新しいものです。それでもほとんどのカルト宗教は、もともとある何らかの宗教を土台にしていることが多い。キリスト教が土台とされることもあります。一概には言うことはできないかもしれませんが、むしろ、そういうカルト宗教が多いと思います。聖書に記されていることを、聖書から外れるように方向に発展させて、自分たち独自の教えを作り上げていきます。

 そしてたいていの場合は、こういう教えになります。「わたしが救い主だ」。あるいはこうなります。聖書の中には主イエスが再び来られることが記されている。「その時が来た。わたしがメシアだ」。そのカルト宗教の教祖と呼ばれる人物がメシアとなります。そのようにして、カルト宗教は信者を獲得していくことが多いと言えます。

 私たちも惑わされないようにしなければなりません。主イエスも聖書の中で、私たちに警告して言っています。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタイ二四・二三~二四)。

 また、こうも言われています。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」(ルカ二一・八)。私たちは主イエスが言われるように、誰が本当の救い主なのかということに、たえず注意を払い、惑わされないようにしなければならないのです。

 本日、私たちに与えられました聖書の箇所の中で、人々に洗礼を授けていたヨハネもまた、そのように思われていました。ヨハネが自分でそう言ったわけではありません。民衆から、もしかしたらこの人がメシアではないかと、心の中で思われていたのです。

 なぜ、ヨハネはそう思われたのでしょうか。本日の聖書箇所の直前になりますが、ヨハネは群衆、徴税人、兵士と対話をしています。いずれも「わたしたちはどうすればよいのですか」と問われて、ヨハネがその答えを与えます。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(一一節)。「規定以上のものは取り立てるな」(一三節)。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」(一四節)。

 いずれの言葉も力強い言葉です。群衆、徴税人、兵士の曲がったところをはっきりと指摘し、悔い改めを求める言葉です。これらの言葉の力強さのゆえに、メシアではないかと思われたのかもしれません。

 あるいは、群衆はもちろん、罪人の最たる者と思われていた徴税人までもが悔い改めている。人々が悔い改めていく様子を見て、もしかしたらこの人はメシアではないかと思われたのかもしれません。さらに考えられることは、ヨハネの切迫した言葉です。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(七節)。「斧は既に木の根元に置かれている」(九節)。このような言葉から「時が近づいた」、メシアがやってきたのだと思った人もいたかもしれません。ヨハネのこのような登場の仕方は、この人がメシアではないかと思わせるに十分なものであります。人々がそのように感じたのは、自然なことでありました。

 救い主は誰なのか、これは言うまでもなく、とても重要な問いです。聖書全体、特に福音書はその問いに答えようとしています。主イエスも言われます。「聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ五・三九)。イエスとは誰なのか、聖書はその答えを教えてくれます。イエスはキリスト、私たちの主、救い主、メシアであると、その答えを教えてくれるのであります。

 先々週のことになりますが、こどもの教会の夏期キャンプが行われました。二日目に、外でお菓子を食べていたときのこと。私の正面に、小学生の子が座っておりました。そしてその子がおもむろに私に尋ねたのです。「キリスト教と仏教は何が違うの?」。私は即答しました。「イエス様を信じるか信じないかだよ」。「それだけ!?」とその子は答えました。私はまた即答して、「それだけだよ」と答えました。

 もしかしたらその子は、もっと難しい答えや、長い答えを予想していたのかもしれません。ここの部分が違って、考え方もこんなに違ってと、そんな答えを予想していたのかもしれません。もちろん、そのように答えることも可能です。歴史が違う、地域が違う、教えの内容が違う、そのように挙げていけば、たくさん挙げることも可能でしょう。しかし、根本的な違いは「主イエスを信じるかどうか」ということであります。さらに具体的に言えば、「主イエスを救い主と信じるかどうか」、その違いが決定的な違いなのであります。

 主イエスを救い主、メシアと信じることが、私たちの信仰の急所であります。カルト宗教との違いも、仏教をはじめとする他の宗教との違いが、何よりも表れてくるのはその部分であります。救いはどこにあるのか、誰にあるのか。私たちにとっては主イエスです。このお方の他に救いはないのであります。それでは、なぜ主イエスが私たちの救い主なのか。主イエスと他の者との違いは何か。そのことを明確に言っているのが、本日与えられた箇所に記されている、ヨハネの言葉であります。

 ヨハネはこう言います。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(一六節)。ヨハネと主イエスのどこが違うのか。その違いが洗礼に表れてくると言っているのです。ヨハネの授けた洗礼は水による洗礼です。ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けました。ヨルダン川の水をもって、洗礼を授けました。

 今でも教派によっては、川での洗礼を大切にしているところがあります。洗礼式を教会の建物の中で行うのではなく、洗礼志願者を川にまで連れて行き、川の中で洗礼を授けるのです。川には流れがあるところがポイントです。全身を水の中に沈めますが、その水には流れがある。流れがあるということは、その流れによって、洗い流されるということになります。罪が洗い流される。ヨハネが授けていた洗礼も水による洗礼でありましたが、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」(三節)をヨハネは授けていたのでありました。この洗礼とは、罪の赦しを得させるためのものであり、悔い改めの洗礼であったのです。

 ヨハネが授けていた水による洗礼と異なり、主イエスが授ける洗礼とは、「聖霊と火」(一六節)による洗礼でありました。どこが違うのでしょうか。もちろんこの二つの洗礼は対立するものではありません。ただ、ヨハネの洗礼が完全な洗礼であるとまでは言えないでしょう。多くの聖書学者や説教者が指摘をしておりますのは、「聖霊と火」による洗礼とは、ペンテコステの日の洗礼のことだということです。

 ペンテコステとは、聖霊降臨日とも言います。主イエスの十字架と復活の出来事が起こり、さらに主イエスが昇天をされて、残された弟子たちがエルサレム神殿にいたときのこと。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録二・三~四)。これがペンテコステの日の出来事です。

 主イエスの弟子であったペトロが、立ちあがって説教を語ります。この説教が終わると、聴いていた者たちはペトロに問うのです。「わたしたちはどうしたらよいのですか」(使徒言行録二・三七)。するとペトロが答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録二・三八)。このとき以来、授けられたのが「聖霊と火」による洗礼であります。

 火による洗礼であることが、一七節の言葉によって、一つのイメージとして表れされているかもしれません。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(一七節)。脱穀場がきれいにされます。どのようにしてきれいにされるのかと言うと、麦が倉に入れられ、殻とは区別されます。選別がなされるのです。そして殻のほうは、消えることのない火で焼き払われるのであります。

 火で焼かれるとは、厳しいことであると感じられるかもしれません。神はこのような厳しいお方なのでしょうか。このことに関連して、私が思い起こすことがあります。私が教会学校の教師になりたてだった頃。高校生たちと話をしておりました。たしか神の審きに関する話だったと思います。神は必ず罪を審かれる、だから神は厳しい方だと私が言いましたら、横にいた牧師がすぐに私の言葉を訂正いたしました。「厳しいではなく、神は義しいお方だ」。

 「義しい」という字は、正方形の「正」の字を書いて正しいとも書けますが、「正義」の「義」の字を書いて「義しい」とも書けます。善悪の正しさはもちろんですが、神は曲がったことを嫌われるお方です。何よりも罪を嫌われます。罪があるままの状態を決してよしとはされません。したがって、罪の問題は解決されなければならない。罪のままで神の国に入ることはできません。麦に殻のついたままで、倉の中に入ることができなかったように、私たちも罪のままでは神の国には入ることができないのです。この意味で、神は義しいお方です。

 このことは、私たちにとって福音であります。よき知らせです。神は私たちを罪のままにはされておかれない。その問題を解決させてくださるのです。それが、脱穀場を隅々まできれいにされることであり、殻を消えることのない火で焼き払われることであり、何よりも、聖霊と火による洗礼であります。私たちの罪を赦して下さる洗礼であります。この洗礼が、ヨハネではない、他の誰でもない、主イエスのもとにあるのであります。だから主イエスこそが、私たちの救い主なのであります。

 本日、私たちに与えられました箇所は、洗礼者ヨハネから、だんだんと主イエスへスポットライトが移っていく箇所であります。このあと、すぐ主イエスが登場します。主イエスは「およそ三十歳」(二三節)でありました。人々の前に公に現れ、神の国を宣べ伝えていくことになります。このときからのことを、しばしば公の生涯と書いて、「公生涯」と言います。ルカによる福音書では、主イエスの公生涯の最初の出来事として、洗礼を受けています。もちろん、ヨハネから洗礼を受けるのでありますが、そこにヨハネの名前はありません。このときには、完全にスポットライトが主イエスに移っているのです。

 ルカによる福音書を今後も読み進めていく私たちは、ヨハネの名前にこのあと出会うことはあります。しかしヨハネは完全に表舞台からは姿を消しています。ヨハネの弟子が出てきて、ヨハネの言葉を間接的に伝えることもあります。そしていつの間にか、領主ヘロデに殺されてしまいます。もはやスポットライトが当たることはないのです。

 そのことがよく表されている言葉が、一九~二〇節の言葉です。「ところで、領主ヘロデは、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。」(一九~二〇節)。ヘロデが行った悪事とは、他の福音書を見ればすぐに分かることですが、自分の兄弟の妻を、自分の妻としてしまったことです。そのようなことは許されていませんでした。

 おそらくヨハネは権力者であろうと、躊躇することなく、ヘロデの罪を指摘したのでしょう。その結果、ヨハネは牢に閉じ込められた。やがて命を取られることになった。命が取られるのはこれからしばらく経ってからのことであります。しかしルカは、早々にそのことを記す。ヨハネから完全にスポットライトを救い主である主イエスに当てるためであります。

 ヨハネがしたことは「福音を告げ知らせた」(一八節)ことでありました。言い換えますと、救い主を紹介したことであります。たしかにヨハネは、水による洗礼を人々に授けましたし、罪を指摘して、悔い改めを奨めました。しかしヨハネがしたことは、救い主を紹介したということに尽きると思います。救い主はこのお方で、この方のもとに救いがあるということを、よき知らせとして伝えたのであります。

 医者の務めは病気を治すことです。病気を分析して、その病気を説明することが、主たる目的ではありません。あなたはこういう病気にかかっていて、この病気の原因はこういうことで、このあとどういう経過をたどってということを、詳細に説明する必要もあるかもしれませんが、説明をしただけでは目的を果たすことはできません。病人に病気を説明するだけでは、病人を救うことはできないのです。同じように、罪人に罪を指摘しただけでは、救われることはない。そこに救いはないのです。罪をなんとかしなければならない。だからヨハネはキリストを紹介した。キリストという、どんな病をも治すことがおできになる名医を紹介するのであります。

 毎週日曜日に語られる説教も、キリストを紹介することであります。このお方こそが私たちの救い主であると紹介することであります。もちろん、これは説教者だけではありません。キリストのことを知っておられる方なら、誰でもキリストのことを紹介することができます。このお方に救われている方ならば知っているはずです。「このお方の他に救いはない」ということを。

 私たちの救い主は、まことに罪を赦してイエス・キリストというお方です。このお方のもとには救いがある、希望がある、愛がある。今日もまたこのお方を紹介されました。紹介された私たちは、今度はこのお方をよく知っている者として、紹介することもできるのであります。