松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年7月18日(日)
説教題「安らかな死を迎えるには」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第2章22節〜40節

 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
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旧約聖書: 詩編 第4編







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
キリストの神殿奉献(The Presentation in the Temple)/レンブラント・ファン・レイン (Rembrandt Harmensz, van Rijn)

キリストの神殿奉献(The Presentation in the Temple)/レンブラント・ファン・レイン (Rembrandt Harmensz, van Rijn)
マウリッツハイス美術館 蔵
(オランダ/デン・ハーグ)

上記をクリックすると作品のある「salvastyle」のページにリンクします。

 松本東教会の前に、掲示板が設置されました。先週の日曜日に、来られた方は驚かれたかもしれません。ただの看板ではなく、掲示板であります。ガラス戸の中に、いろいろな案内を貼ることができるものです。この掲示板を設置するにあたって、もちろん長老会で、丁寧に議論をいたしました。もともと教会にあったのは、ただの看板です。牧師の名前や、集会の案内が書かれてある看板です。ただ単にこの看板に書かれている牧師の名前を変えるだけでよいか、それとも、多少はお金がかかるかもしれないけれども、掲示板を設置するか。そのことが長老会で話し合われました。結局、別のところで予定をしていた出費をしなくても済むということもあり、思いきって、掲示板を設置することにしました。

 教会が掲示板を掲げるというのはどういうことでしょうか。もちろん、伝道を願ってのことであります。教会の様々な案内を貼り、この教会がきちんと活動をして、生きているということをアピールします。そして、それだけではなくて、毎週の礼拝の説教題を掲げるようにしています。松本東教会の前の道路は、狭い道でありますけれども、よくよく観察していると、案外、人が通るものです。近所の人、散歩をしている人、女鳥羽公園にやってくる人、ただ単に通り抜けをしている人、若い大学生もたくさん通ります。教会の前を通る人たちに、教会の様々な案内だけではなくて、説教題にも目を留めてもらいたいと思っています。

 教会に行けば、何らかの話を聴ける、そのことは教会に来たことがない方でも分かっていると思います。もちろんその話とは聖書の話であるわけですけれども、具体的にはどのような話しなのか、教会に来たことのない方はほとんど分からないと思います。説教題を掲げるということは、どんな話がなされているのか、それを知らしめるということです。通り過ぎる人たちに、ああ、この教会では次の日曜日に、今、掲示板に掲げられているテーマの話を聴けるのか、と思っていただければ良い。もちろん、最終的には、説教題に惹かれて、この礼拝堂の中に入ってきていただければなおさら良いわけです。説教題という短い言葉で、伝道をしたいと思っているのです。

 今日、掲げられております説教題は、「安らかな死を迎えるには」という説教題であります。当然、今日の説教はこのような主題の話になるわけであります。そして、このような説教題を掲げているからには、安らかな死を迎えるための秘策のようなものを話さなければならないわけです。しかし、これを単なる人生訓として、宗教的な講和として話すわけにはいきません。そのような人間の知恵ではなくて、聖書を通して示された、神の知恵を語ることになるのです。それが説教であり、神の言葉であるのです。

 実際に、安らかな死を迎えた人物が、本日与えられました聖書箇所の中に記されています。シメオンとアンナという人物です。まずはシメオンでありますが、シメオンがどんな人物だったのかということが、二五~二六節に記されています。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(二五~二六節)。

 また、アンナのことも、三六~三七節に記されています。「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(三六~三七節)。

 アンナの場合は八四歳と年齢がきちんと記されております。今の時代では、八四歳という年齢は、驚くこともなくなりましたが、当時としてはかなりの高齢だったのでしょう。だからわざわざルカも、アンナの年齢のことを記したのだと思います。ではシメオンの年齢はいくつだったのか。これは聖書に記されておりませんので、想像しなければならないのですが、ほとんどの者は、シメオンのことを老人だと考えます。それも、かなりの歳をとっていたと考えます。シメオンが幼子である主イエスを腕に抱いている絵がよく描かれますけれども、たいてい、シメオンは白髪の老人であります。伝説によりますと、一一七歳とも言われます。

 シメオン老人説の根拠となりますのが、二六節の言葉です。「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(二六節)。もしシメオンが若いのであれば、わざわざこんなことを書かなくてもよかったと思います。しかしシメオンが相当な歳をとっていて、まだ死んでいないのは、メシアに会っていないからだと説明するわけです。普通に考えれば、シメオンは老人であるとするのが妥当でしょう。

 しかし、シメオンの年齢が記されていないというのも、とても意味深いことだと思います。もしシメオンが、一一七歳などと記されてあったら、アンナも八四歳ですし、これは歳を重ねた者だけに通用する話として、片づけられてしまうかもしれません。しかしそうではない。シメオンの年齢は不明。シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。」(二九節)と言っておりますが、歳を重ねた者だけがこの言葉を言えるのではない。そうではなくて、誰でもこの言葉を言うことができるのです。

 シメオンの務めは、待つことでありました。救い主がお出でになることを、ただひたすら待ち続けました。アンナもそうでした。アンナは女預言者であったと記されています。預言者とは、神の言葉を預かって、人々にその言葉を伝えるわけですけれども、その言葉とは、救いに関する預言だったと思います。三八節に「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(三八節)と記されていますが、アンナ自身も、救い主を待ち続けていたでしょう。

 この説教のために、何冊か英語の注解書を見ましたが、シメオンのことをwatchmanであるというように表現されていました。watchmanというのは、直訳すれば、見張りだとかガードマンという意味があります。救い主がやってくるのを見張っていた、それがシメオンの務めでありました。救い主を見出すまでは死なないと言われていた。シメオンは見張っていたわけです。救い主を今か今かと見張っていた。

 しかしシメオンは、救い主がいつ来るのかということを知らないばかりか、救い主がどんなお方であるかということすら知りませんでした。どのようにして、シメオンは幼子である主イエスを見出すことができたのでしょうか。マリアとヨセフは、主イエスを連れて、エルサレム神殿にやってきます。当時の習慣では、初めての子の場合、神殿にやってきて献げ物を献げることになっていました。本来ならば、子羊を献げることが定められていました。

 ただし、貧しくて子羊に手が届かない場合は、二四節に記されておりますように、山鳩や家鳩で構わないとされていました。マリアとヨセフは子羊を献ことができなかった。つまり貧しかったということになります。幼子に立派な服を着せることはできなかったでしょう。見栄えのしない、目立たない家族だったと思います。それなのに、シメオンはよく見張りの務めを果たすことができたと思います。

 シメオンが救い主に会うことができたのも、人間の目から見えれば、偶然であります。幼子である主イエスが神殿に来られたところに、たまたまシメオンも居合わせた。そんなことは偶然だった、と片づけられてしまいそうな出来事です。しかし聖書は、この偶然とも思える出来事を、「“霊”に導かれて」(二七節)と言います。「メシアに会うまで決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(二六節)シメオンであります。シメオンには、すでに聖霊の導きがありました。死なないというお告げも聖霊によるもの。偶然としか思えないようにして神殿にやってきて、見張りの務めを果たすことができたのも、聖霊の導きであったのです。

 このような神の導きにより、シメオンは安らかに去らせていただけることになりました。「去らせてくださいます」(二九節)という言葉を、見張りの務めからの解放と、単純に理解することはできません。たしかに、もう救い主を待たなくてもよくなったわけでありますが、「去らせてくださいます」という言葉に、シメオンの死が表れているとさえ考えることができます。文法的に言いますと、「去らせてくださいます」というのは現在形で書かれています。さらに「今こそ」(二九節)という言葉もあります。今やここで、シメオンは死ぬ準備ができた。さらには、シメオンはこの直後に神によって召されたのではないかと考える人さえできます。

 「メシアに会うまでは決して死なない」(二六節)、この言葉を直訳いたしますと、このようになります。「メシアを見るまでは、死を見ることはない」。シメオンは主イエスにお会いするまでは、メシアも死も、見ることはありませんでした。しかしメシアを見たならば、同時に、死をも見ることになったわけです。救いと死が、同時にシメオンの中に飛び込んできたのであります。だからこそ、シメオンはこのように言うことができたのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(二九~三〇節)。

 教会では、しばしば死について話し合うことがあります。八月に行われるノアの会がその良い例でしょう。死をごまかすことなく、死をまっすぐと見つめ、語り合うことが多い。世間の常識からすると、これは珍しいことではないかと思います。そんな話題はあまり好ましくないとされることも多いと思います。死の話しなどまっぴらごめんという人もいます。どうして教会の内外ではこんなにも異なるのか。それは、死をまっすぐに見つめることができるのは、救い主を見ることと深くかかわっているからです。死をまっすぐに見つめることができないのは、救い主を見ていないからであります。

 先週の月曜日のことになりますが、信州説教塾が行われました。説教塾という、全国的に展開されている説教の学びのグループがあり、信州説教塾は、信州地域での説教の学びとなります。朝から夕方まで、説教の学びを行うわけですけれども、午後の時間に、一人の方の説教を取りあげて、分析、批評をします。

 先週の月曜日に取りあげられました説教は、旧約聖書からの説教でありました。創世記にヤコブという人物が記されています。アブラハムの息子がイサク、イサクの息子がヤコブになるわけです。そのヤコブが「わたしはもう死んでもよい」というような言葉を、創世記の中で二度、言っていることを、説教の中で取りあげています。一度目は、かわいがっていた息子のヨセフが死んでしまったときに、もう死んでもよい、「わたしは嘆きながら陰府に降って行こう。」(創世記三七・三五)とヤコブは言いました。望みを失い、絶望のゆえに出てきた言葉です。

 実際に息子のヨセフは死んだわけではなくて、エジプトに奴隷として売られていたのですが、ヨセフはエジプトで頭角を表し、エジプトの食糧大臣にまで登りつめます。エジプトでは王であるファラオに次ぐ地位です。ヤコブは、ヨセフが生きていてエジプトにいることを知り、会いに行くわけです。愛する息子のヨセフと無事に再開を果たしたヤコブが、こういうのです。「わたしはもう死んでもよい。」(創世記四六・三〇)。今回はもちろん絶望してこう言ったのではありません。もうどうでもよいということではなくて、ヨセフと再開することができ、神から恵みをいただいた。祝福のうちに、そう言ったわけです。実際このあと、ヤコブは生き生きと神の祝福のうちに生きたのです。

 「安らかに去らせてくださいます」。教会に集う私たちは、しばしば、このような言葉を口にするのではないかと思います。私自身も、何度もこのような言葉を聞いてまいりました。説教を聴き終えて、「ああ、今日の説教はよかった。もしも神さまがお召しになるなら、もう死んでもよい」と言われた方を、何人も目にしたことがあります。かつて青年修養会に参加したときのこと。このような信仰問答が取りあげられました。「問:人生の主な目的はなんですか? 答:神を知ることです」。二十代の青年が、自分はもう洗礼を受けて、神を知った。もう人生の目的を果たした。だから、もしも神さまが召されるのであれば、自分はいつ召されても構わない、ということを言っておりました。

 今、挙げました者たちは、みんなキリスト者であります。どうして、教会に生きる者たちは、この言葉を言うことができるのでしょうか。それは、救い主を体験しているからです。救い主を体験することが、死をまっすぐに見つめる目を開かせるのであります。シメオンは救い主を目にしました。そればかりでなく、救い主である幼子を腕に抱きました。その腕には、救い主の確かな手ごたえがあったと思います。

 このように救い主を体験することを、使徒であるパウロは、ガラテヤ教会に宛てた手紙の中で、こう記しています。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(ガラテヤ三・一)。さらにパウロは続けます。「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに…」(ガラテヤ三・四)。ガラテヤ教会の人たちは、救い主である主イエス・キリストを直接、お会いしたわけではありません。しかしそれにもかかわらず、目の前に、救い主が十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか、と言われる。「あれほどの体験」をしたのであります。

 ルカによる福音書の最後のところで、このようなことが記されています。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」」(ルカ二四・四五~四六)。主イエスが私たちの心の目を開いてくださる。何のためにかと言うと、メシアが十字架で苦しみを受け、三日目に死者の中から復活されるのを、見るためにです。

 私たちはこの復活にあずかります。新しい命をいただきます。これが救いであります。救い主の十字架での死を見るとき、同時に、私たちの救いを見ることになる。私たちの心の目が開かれるのです。私たちはその救いを見るからこそ、死をまっすぐと見つめることができる。逆に、救いが見えないところでは、死をまっすぐと見つめられない。まことの慰めでない、なんらかの慰めで、死をごまかす以外に道はないのです。

 シメオンが言いました、「安らかに去らせてくださいます」という言葉。この言葉はシメオンだけが言える言葉ではありません。救い主に出会ったすべてのキリスト者が言うことができるのであります。キリスト者は、新しい命に生かされています。救い主を見ることによって、自分の命もはっきりしてきます。神さまに与えられた命を精一杯、生きることができるようになります。自分の命はもはや自分のものではなく、神さまの御手の中にある。シメオンのように、神がもし自分の命を召されるのであれば、「安らかに去らせてくださいます」と言えるようになるのであります。それまでは精一杯、新しい命に生きる。これが、安らかに死を迎えるための、唯一の方法なのです。