松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年7月11日(日)
説教題「神の出来事に驚こう」

説教者 本城仰太 伝道師

新約聖書: ルカによる福音書 第2章15節〜21節

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

旧約聖書: イザヤ書 第52章13〜15節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)

「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画
「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画

「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画
ベツレヘム近郊

 先月、納骨式が行われました。納骨式は短い礼拝であります。讃美歌を歌い、聖書を読み、短く説教をいたします。墓地という場所で、椅子はありませんので、長い式はできません。三〇分以内の短い式であります。その式の中で、納骨をいたします。実際にお骨をお墓の中に納めるのです。納骨式に出られたことのある方はご存じだと思いますが、お骨を納める際に、讃美歌を歌います。讃美の声に包まれて、納骨をすることになります。

 先月の納骨の際に歌いました讃美歌は、讃美歌第二編の一六七番であります。「われをもすくいし」という讃美歌です。昨日のゴスペル讃美の会でも歌いました。日本語よりも、英語の曲名の方が知られているかもしれません。Amazing Graceという讃美歌です。先月の納骨式が終わった後、ご家族の方と一緒に食事をいたしました。食事の席で、讃美歌の話題になりまして、私が讃美歌第二編の一六七番を知っているかどうか、尋ねたところ、「知らないけれども、聴いたことあるようで、歌いやすかった」という返事が返ってきました。「これはAmazing Graceという讃美歌ですよ」と言いますと、「ああ、それなら知っている」ということでありました。

 Amazing Grace。日本語に訳しますと、「驚くべき恵み」であります。ただの恵みではない、考えられないような驚くべき恵みだと言うのです。日本語の歌詞にもいろいろなものがあるようですけれども、私たちが普段用いている讃美歌ですと、一番はこのように歌います。「われをもすくいし/くしきめぐみ、まよいし身もいま/たちかえりぬ」。文語の言葉で歌われていますが、少し言葉を補いながら、分かりやすく言いますとこういうことになります。「こんな私をも救ってくださった、これは驚くべき恵みだ!迷っていたこの身も、神さまのもとに立ち返ることができた!」。

 Amazing Graceの作詞をしたのは、ジョン・ニュートンという人です。このジョン・ニュートンの母親は敬虔なキリスト者であったようですが、彼が幼い時に、母は亡くなったようです。やがて、彼は船乗りになりますが、しだいに奴隷貿易に手を染めるようになりました。多くの黒人を、船でアメリカへと運ぶことをするようになったのです。そのようなことをしている最中、彼の船が嵐に遭う。船が沈みそうになった。彼の命が危うくなった。そのとき、彼は必死に神に祈ったそうです。船は奇跡的に助かりました。その後、彼は船乗りをやめて、勉強に勉強を重ね、牧師になったのだそうです。そのようにして、このAmazing Graceが生まれました。

 「われをもすくいし、くしきめぐみ」。こんな私をも救ってくださった、驚くべき恵み。ジョン・ニュートンもそうでしたが、一人の罪人が神によって救われるということは、驚きであります。驚くべき恵みです。救いがこの人のところを訪れてくださった。その驚きと感謝をこめて、納骨の際にも讃美をすることができました。一人の人が救われる、これは私たちの力によるのではなく、ただ一方的な神の恵みであり、驚くべき事実なのであります。

 主イエス・キリストの誕生というのも、驚きに満ちていました。私たちの松本東教会では、四月より、ルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。救い主である主イエス・キリストお生まれになる、いわゆるクリスマスの出来事でありますが、この出来事もまた、驚きに満ち溢れています。聖書の中に、驚いている多くの者の姿が描かれています。

 本日、与えられました箇所にこう書かれていました。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」(一八節)。前回、私たちが御言葉を聴いた箇所になりますが、羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。そこに、主の天使が近づく。そして羊飼いたちに告げるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(一〇~一二節)。

 そして大勢の天使たちによる讃美の歌声を、羊飼いたちは耳にするのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(一四節)。羊飼いたちは立ちあがりました。そしてマリアとヨセフ、飼い葉桶の中に寝かせてある乳飲み子、主イエス・キリストを探し当てるのです。一連の出来事を、羊飼いたちはマリアとヨセフを含め、そこにいた者たちに話すのであります。冷静に、落ち着いてなど話せなかったでしょう。必死になって伝える。こんなことが起こって、今、目の前に、飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそが、私たちの救い主なのですよ、天使が私たちにそのように告げましたと、人々に話すのであります。

 「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」(一八節)。不思議と訳されていますけれども、別の聖書を見ますと「驚いた」と訳されています。この言葉は、ルカによる福音書のクリスマスの箇所に、何度か出てくる言葉です。クリスマスの出来事に人々は何度も驚くわけであります。たとえば、これは来週の箇所になりますけれども、マリアとヨセフの二人が驚く様子が記されています。シメオンという人物が、幼子である主イエスを腕に抱き、「この方こそ救い」というようなことを言います。その言葉に、二人は驚くわけです。そのほかにも、人々が驚く様子が次々と描かれています。クリスマスの出来事とは、驚きの連続であったのです。

 驚くというのは、どういうことでしょうか。私たちはどのようなときに驚くでしょうか。辞書を引いて、驚くという言葉を調べてみますと、こう書いてあります。「意外なことがあって心が騒ぐ。びっくりする。感嘆する」。この辞書が示しておりますように、私たちは意外なこと、想定外のことに直面しますと、驚くのであります。

 マリアとヨセフがシメオンの言葉に驚いておりますけれども、二人にとって、シメオンの言葉は意外なことだったでしょう。これまでにも、二人にとって、驚くべき出来事の連続でありました。天使ガブリエルがマリアのところに現れるという、いわゆる受胎告知があったり、羊飼いたちが突然やってきたり、いろいろな驚きがありました。自分たちに与えられたこの子どもは、ただならぬ子どもであると感じていたと思います。そうは言うものの、二人にとっては初めての子どもであります。この子の将来について、様々な願いや期待も込めていたかもしれません。

 しかしシメオンに告げられたのは、二人が思ってもみなかったことでありました。意外なことであり、そのことに驚いたのであります。奴隷貿易に手を染めた、ジョン・ニュートンもそうだったでしょう。自分のことを、罪人の最たる者と思っていたかもしれない。こんな自分が救われるはずがないと思っていたかもしれない。しかし、驚くべき恵みがあった。考えもしなかった、意外にも、自分が救われた。そのことに驚くのであります。

 救いの出来事に出会うということは、驚くということに深くかかわっています。驚きは救いの始めと言ってもよいかもしれません。驚きは、信仰の始めであり、その第一歩であります。羊飼いたちの話しを聴いた人々も、驚きに包まれました。その傍らには、マリアとヨセフもいたでしょう。皆が羊飼いたちの話しに耳を傾けていたのです。羊飼いたちの話を聴いた者たちは、様々な反応を示したと思います。羊飼いたちの話をそのまま受け入れて、信じる者もいたでしょう。もっと詳しく聴かせてくれ、もう一度聴かせてくれと、羊飼いたちに言う者もいたでしょう。反対に、羊飼いたちの話を信じるのではなくて、そんな馬鹿な、と言う者もいたかもしれない。信仰への第一歩は、本当に人それぞれであったろうと思います。

 羊飼いたちは一生懸命、一連の出来事を口にしたでしょうし、人々も様々な反応を口にしたと思います。クリスマスの場面と言いますと、とても静かな場面を思い浮かべる方も多いと思いますが、少なくともこのときばかりは、かなり賑やかでした。羊飼いや人々が、この救いの出来事、救い主について、語り合っている。その輪の中から、一歩、身を引いているのがマリアでありました。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(一九節)。

 羊飼いたちや人々とは対照的に、マリアは静かに口を閉ざしておりました。驚くべき出来事が次々と起こる。受胎告知に始まる、一連の驚くべき出来事が起こった。羊飼いたちが話してくれた、天使の言葉も、マリアにとっては驚きだったでしょう。しかし、マリアはこれらの出来事や語られた言葉を、心の中に納めて、これが一体何を意味しているのかと、思いめぐらしていたのであります。

 松本東教会では、第四の日曜日の午後に、聖書黙想をしています。聖書を黙想する。まず一人になって、与えられた聖書箇所をじっくりと読み、神が何を語っておられるのか、黙って耳を傾けます。あれこれと思い巡らすのです。マリアのここに描かれている姿は、黙想の原点となっている姿です。黙想とは何かということを説明するために、よくこの箇所が引用されることがあります。マリアは、驚くべき出来事を、黙って、静かに思い巡らしていた。黙想していたのです。一体この出来事は何のことなのか、一体この言葉は何を意味しているのかと、驚きながら、思い巡らし、黙想をしていた。沈黙をして、神の言葉に黙って耳を傾けていたのであります。

 本日は、ルカによる福音書と合わせて、旧約聖書のイザヤ書から御言葉をお読みいたしました。お読みしたのは、第五二章の終りの部分でありますが、第五二章から第五三章にかけて、「主の僕の苦難と死」という一つのまとまった箇所が記されています。文字通り、主の僕なる人物が、苦難と死に遭うわけですけれども、私たちキリスト者は、この主の僕を主イエス・キリストだと考えます。

 たとえば、第五三章の五~六節にかけて、こうあります。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザヤ五三・五~六)。私たちには罪があり、背きがあった。けれども、それらすべてを担って下さったのは、主の僕という一人の方であると言うのであります。救い主である主イエス・キリストの十字架と復活が、それに先立つ数百年前に預言されているのです。

 その主の僕、主イエス・キリストのお姿に、人々が驚いている様子が、本日与えられた箇所に記されています。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」(イザヤ五二・一三~一五)。救い主のお姿とは、十字架に架けられたお姿であります。そのお姿に、驚きのあまり口を閉ざしてします。思ってもみなかった、意外な救い主のお姿だったからでしょう。それは、いまだかつて、だれも物語らなかったことであり、一度も聞かされなかったことでありました。

 私たちの救い主は、驚くべきことに、十字架にお架かりになりました。これは本当に驚き以外の何でもないと思います。天を傾けて高いところから降ってきてくださり、ついには十字架にお架かりになった。それほどまでに、低いところまで降ってくださったのであります。聖書、特に福音書の中に描かれている救い主のお姿は、十字架にお架かりになった救い主を頂点にして、驚くべき姿の連続であります。復活された救い主のお姿も、驚くべきお姿だったでしょう。驚くべき奇跡を行う救い主、権威ある教えを語る救い主、そればかりだけではありません。当時では考えられないことでありましたが、罪人と一緒に食事を共にするということもありました。そのお姿も人々にとっては驚きの姿だったでしょう。

 そしてクリスマスのとき、主イエスがお生まれになるときもそうでありました。救い主が飼い葉桶の中でお生まれになった。人間が宿泊できるような場所ではなく、飼い葉桶の中に寝かされた救い主のお姿。飼い葉桶の中で、布にくるまってと書かれていますが、これはおむつのことであります。立派な服を着せてもらったわけではなく、綺麗な場所でお生まれになったのでもない。家畜のえさを入れる飼い葉桶の中に、おむつにくるまって、お生まれになったのが、私たちの救い主の驚くべきお姿であります。

 今年の四月一日に、洗足の木曜日の礼拝がありました。主イエスが十字架にお架かりになる前夜、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗って下さったのが、洗足の木曜日の出来事であります。その出来事を覚え、多くの方が教会に集まって下さいました。四月一日に与えられました聖書箇所は、まさに主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった出来事そのもの、ヨハネによる福音書第一三章の箇所でありました。

 主イエスが弟子たちの足を次々と洗われる。何人かの弟子たちの足を洗い終わった後に、ペトロの順番になります。今までは沈黙が支配しておりました。誰も驚きのあまり、口を開くことができなかったのです。ペトロが口を開き、こう言うのです。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」(ヨハネ一三・六)。先生である主イエスが、弟子の自分の足を洗ってくださるなんて、その驚きの言葉を、ペトロは口にするのです。「主よ、あなたが…」。

 ペトロのこの驚きの言葉を、私たちも口にすることになります。同じ言葉を、主イエスがお生まれになったクリスマスのときにも、十字架にお架かりになったときにも、言わざるを得ないでしょう。「主よ、あなたが、飼い葉桶の中に布にくるまってお生まれになられたのですか」。驚きをもって、そう言わざるを得ない。「主よ、あなたが、私の罪のため、十字架にお架かりになったのですか」。「主よ、あなたが…」、その言葉を、私たちは何度も何度も繰り返して言うことになります。Amazing Graceの作詞者でありますジョン・ニュートンがそうだったように、「主よ、あなたが私を救ってくださったのですか」、私たちもその驚きを口にすることになるのであります。

 羊飼いたちは、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て、一連の出来事を人々に知らせました。そして、讃美をしながら帰って行きました。羊飼いたちは、どんな言葉で讃美をしたのでしょうか。一つの美しい想像は、羊飼いたちも天使たちと同じ讃美をしたのではないかというものです。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(一四節)。天使たちの讃美の歌声を聴き、その歌を自分たちの讃美の歌にしたのであります。

 羊飼いたちにとっては、恐れもありましたでしょうが、一連の出来事は驚くべき出来事だったでしょう。しかし、福音書記者ルカは、最後に讃美の歌声が挙がったということを記すのであります。神が高きから低きに降ってきてくださった。これが私たちの救い主のお姿であります。救い主がおられる地には平和、平安がある。驚きを超えて、私たちを讃美へと導いて下さったのであります。