松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2010年6月13日(日)
説教題「神の憐れみの心」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第1章67節〜80節

 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

旧約聖書: マラキ書 第3章1〜3節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
洗礼者ヨハネの誕生(The Birth of John the Baptist)/ティントレット(Tintoretto)

イーゼンハイム祭壇画(Isenheimer Alter)/マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grunewald)
ウンターリンデン美術館 蔵
(フランス/コルマール)

上記をクリックすると作品のある「wikipedia」のページにリンクします。

 フランスのコルマールという町に、ウンターリンデン美術館という美術館があります。コルマールという町は、ドイツ国境に近いところにある町です。ウンターリンデンというのも、ドイツ語でありまして、菩提樹の木の下、という意味があります。そのウンターリンデン美術館に、とても有名な絵があります。「イーゼンハイム祭壇画」という絵であります。

 この絵は、一五世紀から一六世紀にかけて活動した、グリューネバルトというドイツ人の画家が描いたものです。絵といいましても、それは一枚だけの絵ではありませんで、何枚かのパネルを組み合わせたもので、開いたり閉じたりすることができるものです。そのパネルごとに、聖書のいろいろな場面の絵が描かれているのでありますが、何と言っても一番有名なのは、この祭壇画を閉じたときに、正面に描かれているキリストの十字架の絵であります。

 イエス・キリストの十字架の絵と言いますと、私たちがよく目にするのは、十字架につけられながらも、どこか神の栄光の表れた描かれ方をしているものです。たしかに聖書が私たちに伝えるのは、キリストの十字架の苦しみでもありますが、それ以上に、神の栄光がこの十字架に表れた、ということであります。多くの画家たちは、その十字架の栄光を表現しています。

 ところが、このグリューネバルトの描いたキリストの十字架の絵は、非常に生々しい描き方をしています。イエス・キリストのゆがんだ顔、硬直して反り返ってしまった手の指、手足から流れる血、青ざめた唇。思わず息をのむかのようなキリストのお姿であります。

 この十字架のもとに、四人の人物が描かれています。キリストの十字架を中心にいたしまして、左側に三人、右側に一人であります。左側に描かれているのは、主イエスの母であるマリア、そのマリアを支えているように立っている主イエスの弟子であるヨハネ、そして十字架の下にひざまずいて祈っているマグダラのマリア、この三人が左側に描かれています。この三人は、ヨハネによる福音書の十字架の場面に、きちんとその場にいたということが記されております。

 ところが、十字架の右側に描かれている人物は、実は十字架のときには、すでに殺されていた人物でありました。その名は、洗礼者のヨハネであります。本日、私たちに与えられた箇所は、洗礼者ヨハネの父であるザカリアが讃美歌を歌っています。これは、教会の伝統に従って言うならば、「ベネディクトゥス」と呼ばれる讃美歌であります。この讃美歌の最初の言葉は「ほめたたえよ」でありますが、ラテン語にしますと「ベネディクトゥス」という言葉で始まることから、「ベネディクトゥス」という讃美として知られています。これは洗礼者ヨハネが誕生したときに歌われた讃美歌であります。

 やがて、この洗礼者ヨハネが成人して、人々に洗礼を授け、主イエスにも洗礼を授けるのでありますが、領主であったヘロデにやがて殺されてしまいます。殺されてしまったのは、十字架の前のことであります。従いまして、十字架のときには、すでに洗礼者ヨハネはこの世にはいなかった。そのいなかったヨハネを、グリューネバルトは、主イエスの十字架の右側に描く。本来ならば、あり得ない出来事を、その絵の中に表現したのであります。

 この洗礼者ヨハネは、とても特徴のある描かれ方をしています。左手に聖書を持っている。そして特徴的なのは右手であります。右手で十字架につけられたキリストを指さしています。当然、指さしているのは人差し指になりますが、その指が、通常よりも長いと言われています。たしかにその絵を見ていると、洗礼者ヨハネの体の割には、手全体が大きく、人差し指も長く描かれている。洗礼者ヨハネの姿よりも、その手、その指の方が印象的です。その指をじっと見ておりますと、「キリストを見よ」と言われているかのようであります。

 洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストよりも少し前に生まれ、主イエスが来られるための道備えをしたということが、一般的には言われています。本日、私たちに与えられた箇所もまた、そのことが書かれていると言えます。先ほど、少し申し上げましたが、今日の箇所は、洗礼者ヨハネの父が讃美歌を歌っています。七六節以下のところには、こう記されています。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」(一・七六~七七)。

 主イエスに先立ち、道を整える。どういう仕方でそれを行うのかと言うと、民に罪の赦しによる救いを知らせる、ということが言われています。洗礼者ヨハネは、その救いを知らせるという存在にすぎません。洗礼者ヨハネ自身が、救い主になったのではない。あくまでも、ただそれを知らせただけであります。そのことこそ、グリューネバルトが洗礼者ヨハネを十字架の下に立たせ、キリストに向けて指を指させたことではないかと思います。「十字架のキリストを見よ」、洗礼者ヨハネの指はもちろん、彼の全生涯がそのことを表しているのであります。

 私たちは、洗礼者ヨハネの指によって、キリストを知ることができました。それまでは、どこを向いてよいか分からなかった私たちであります。救いを求めても、どこに救いがあるのか分からなかった。道に迷ってしまい、どこに進むべき道があるのか、分からなかった。そのときに、指が見えた。そっちだ。進むべき道はそっちである。そのことを、指によって示されたのであります。

 私は、この説教の準備のために、本日与えられた御言葉を黙想しながら、先週一週間を過ごしたわけでありますが、もう一つの聖書の言葉に耳を傾けながら、一週間を過ごしてきました。それは、ヨハネによる福音書第一四章六節の言葉であります。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」」(ヨハネ一四・六)。

 水曜日の夜に青年会がありました。青年会では、まず食事をするわけでありますが、食事が終わると、讃美をしてから、聖書黙想をします。黙想した箇所が、この箇所でありました。また、木曜日の朝に、教会員の訪問をいたしました。聖書の御言葉を読み、短く説教をしましたけれども、そのときに与えられた聖書の箇所もまた、この箇所であります。

 私はこの箇所を読みますと、山に登るイメージを抱きます。山の頂上に父なる神がおられる。その頂上に向けて、登山道がある。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ一四・六)と言われた主イエスであります。その道こそ、主イエスが切り開いてくださった道であり、主イエスが共に歩んで下さる道なのであります。

 しかしここでとても重要なのは、この道は唯一の道であり、一本の道であるということです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ一四・六)と言われているのです。

 私はかつて、富士山の山頂に、二度登ったことがあります。富士山山頂への登山道として、一般に知られているのは、四つの道であります。私はその四つのうち、二つの道から登ったということになります。いずれも、道は違いましたけれども、最後には同じ山頂にたどり着きました。しかし、主イエスが切り開いて下さった道は違います。唯一の道です。登山道は一つしかない。その道を主イエスと共に登らなければ、父なる神のもとに行くことができないのであります。

 私たちの周りには、いろいろな道が示されているかもしれません。時に私たちが歩むべき道が見えないということもあれば、複数の道が示されて、いったいどの道に行ったらよいのか、分からなくなることもあります。そんな私たちに示されたのが、指なのであります。そっちだ。その道だ。そちらを向いて歩きなさい。そうすれば、ほら、救い主が見えるでしょう。十字架に架けられた、私たちの救い主が見えるでしょう、ということになるのです。その指が、私たちの道しるべとなるのであります。

 私たちは、自分の力では、救いへの道を見つけることができませんでした。どうがんばっても、自分の力では山の頂上にたどり着くことができなかったのです。だからこそ、神のほうから、その道を切り開いて下さり、その道を示して下さいました。そのことが七八節と七九節に書かれています。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」(一・七八~七九)。高い所からの光が射しこんだ、暗闇の中にいた私たちを照らし、平和の道に導いて下さるということが言われています。

 ここで着目したいのは、「神の憐れみの心」であります。憐れむというのは、私たち誰もがすることであります。誰かのことを、ああ、あの人は可哀想だと思います。そのような心の思いを、憐れむと表現するかもしれませんが、神の憐れみの心は、もっと深いものであります。「憐れむ」と書かれている言葉は、単に可哀想だというような言葉ではなく、もっと強烈なものであります。体の中にある内臓とか、はらわたを表す言葉で「はらわたが痛い」という意味があるのです。ある聖書学者が、この箇所を「断腸の思いのゆえに」と訳しています。自分の体の中が痛くなるような思いにさせられるほど、神は私たちを憐れんで下さるのであります。その憐れみの心が、神を動かす。何もせずにはおれないのであります。

 実際に、神が何を私たちのためにしてくださったかと言いますと、神の独り子、主イエス・キリストを私たちのところに遣わして下さいました。それだけではなくて、救い主であるイエスのことを指し示す、洗礼者ヨハネをも遣わして下さいました。神は決して山の頂上にどっかりと腰を下ろして、何もなさらないというのではありません。さあ、自分の力で登って来なさいと言われるのでもなく、まして、登れるものなら登ってみなさいと言われるのでもありません。

 そうではなくて、私たちが登ることができるように、ご自分のもとに来ることができるように、その道を開いてくださり、その道を示して下さいました。すべては、神の憐れみの心によって、そのようなことがなされたのであります。

 洗礼者ヨハネの指が向けられている先には、この救いの道があります。私たちはこの指によって救いを知る。しかしそれだけではなくて、今度は私たち自身が、その指にならなければなりません。カール・バルトという二十世紀最大の神学者と呼ばれている人がいます。このバルトが、グリューネバルトの絵の中に描かれている洗礼者ヨハネを取りあげて、こう言っています。「キリスト者は、洗礼者ヨハネの指のような存在である」。バルト自身も、洗礼者ヨハネの指でありたいと思ったのでしょう。

 説教者である私も、キリストを指し示す指にならなければなりません。今、皆さまは私のほうを向いて、説教を聴いて下さっています。しかしそれは、キリストを指し示す指である私を見ているにすぎません。松本東教会が伝道を始めた最初期の頃、植村正久牧師という方が、ときどきこの教会に来て下さり、説教をして下さいました。植村正久先生が残された有名な言葉の中に、このような言葉があります。「説教とは、イエス・キリストを紹介することである」。この言葉の通り、説教がキリストを紹介するものであるならば、説教者は何よりも、キリストを指し示す指であらなければなりません。

 けれども、指になるのは、説教者だけではありません。皆さまお一人お一人が、キリストを指し示す指になることができます。救い主であるキリストを信じ、キリストと共に、キリストが示して下さった道を歩いている人は、すでにその道を知っているのです。洗礼者ヨハネのような人に、私たちもその道を教えてもらったのです。しかし今や、その道を知っていて、その道を歩んでいる。だからこそ、私たちもその道を示すことができる。キリストを指し示す指になることができるのです。指になるということが、まさに伝道をすることであります。

 グリューネバルトが描いた洗礼者ヨハネの指のところに、よく見ると、小さな文字が記してあります。これは聖書の言葉でありまして、洗礼者ヨハネが言った言葉であります。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ三・三〇)。あの方とは、洗礼者ヨハネが指し示している先におられる、十字架につけられたキリストであります。救いの道を切り開いて下さったキリストは栄なければならない。その一方で、洗礼者ヨハネは衰えなければならないと言う。強烈な言葉であると思われるかもしれません。キリストを指し示す指である私たちも、衰えなければならないのか。

 しかしこの衰えは、悲しい衰えではありません。洗礼者ヨハネが「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ三・三〇)と言っている直前に、「わたしは喜びで満たされている。」(ヨハネ三・二九)とも言っています。その喜びは、もはや自分の力で救いの道を探さなくてもよい、その喜びであります。救いの道を知っている喜びであります。

 私たちは、この道を示される前までは、もがいていました。自分が栄えるために、自分の道を求めて、もがいていたのであります。ところが、その道が示された。その道を知った。その道を歩むようになり、その道を歩む喜びを知った。この喜びをさらに多くの人に知ってもらうために、指となる。私たちはまことの喜びを知っている指なのであります。