松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2010年4月25日(日)
説教題「沈黙から聴こえてくる言葉」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第1章5節〜25節

 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
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旧約聖書: ヨブ記 第33章31〜33節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
預言者ゼカリア(1508-12)/ミケランジェロ・ブオナルローティ

預言者ゼカリア(1508-12)/ミケランジェロ・ブオナルローティ
システィーナ礼拝堂天井画 (Sistine Chapel)
ヴァチカン(Vatican)

 先週から、ルカによる福音書より、神の言葉を聴き始めました。これから少しずつ、ルカによる福音書から、御言葉を聴いて参りたいと思っております。おそらくこの福音書の最後まで辿り着くのは、二、三年先のことになろうと思います。それだけボリュームもありますし、内容もあるものです。いろいろなことが、様々な切り口で書かれている。

 しかし、先週も申し上げたことですが、この福音書を貫いている一つのメッセージがある。それは、冒頭の第1章1節での言葉です。「わたしたちの間で実現した事柄」、それがこの福音書を貫くメッセージであります。この福音書を通読していみるとすぐに分かるのは、主イエス・キリストの十字架と復活がクライマックスであるということです。物語のピークはここにあり、何よりも、福音書を記したルカが伝えたいことは、このことでありました。なぜか。それは、主イエス・キリストの十字架と復活が、私たちの救いの物語になったからです。

 福音書というのは、福音が記された書物です。福音という言葉を広辞苑などの辞書でひいてみると、「よろこばしいしらせ」とあります。福音書が告げているのは、何よりも喜びの知らせであります。それも、この物語を読む者たちにとっての喜びの知らせとなる。ある特定の人たちだけではない。自分には関係のない物語でもない。まして、二千年前にあった昔話でもない。そうではなくて、今を生きる私たちにとっての喜びの知らせとなる。

 それが福音であります。主イエス・キリストというお方が十字架にお架かりになり、復活をされた。いわば主イエスの物語です。その物語が、あなたの救いの物語になったのですよ、ということを告げているのが福音書なのであります。

 主イエスの物語のクライマックスが、十字架と復活にあるということは、今申し上げた通りであります。それでは、物語の最初はどこから始まるのか。皆さまが何かの物語を書き始めるときのことをお考えになると良いと思います。一体どこから書き始めるのか、これは大きな問題です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この四つの福音書が新約聖書に収められていますが、それぞれの始め方は様々です。決して同じところから始めていない。主イエスの物語でありますから、主イエスがお生まれになったときから始めてもよさそうなものです。

 ところがマルコとヨハネは、主イエスがお生まれになったクリスマスのことは記さない。主イエスが神の国を宣べ伝え始めるところから書き始めます。それも一つの考え方だと思います。では一体、ルカはどこから書き始めたのか。ルカはクリスマスよりも前から書き始めるのです。来週の聖書の箇所になりますけれども、いわゆる「受胎告知」という箇所があります。天使がマリアのところにやってきて、主イエスの誕生を告げるという話です。この話も、クリスマス前の話であります。

 今日、私たちに与えられています聖書の箇所は、それよりももっと前の話。5節の前のところに、小見出しが付けられております。これは聖書本文に記された言葉ではありませんで、この箇所にはだいたいこういうことが記されているという、いわば道しるべのような言葉です。今日、私たちに与えられた箇所には、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」とあります。

 洗礼者ヨハネに関しては、また改めて学ぶ機会があると思います。洗礼者とついておりますのは、人々に洗礼を授けていた人だから。それも主イエスに対しても、洗礼を授けた人であります。だから洗礼者ヨハネです。いわば主イエスが来られるための道備えをした人、準備をした人です。この洗礼者ヨハネから、福音書を記したルカは、物語を始めるのであります。いや、洗礼者ヨハネからというよりは、むしろ、その父親と母親の話、ザカリアとエリサベトから、ルカは物語を書き始めるのであります。

 どうしてでありましょうか。なぜ主イエスのお生まれになったクリスマスから始めないのか。それにはもちろん理由があった。ルカは救いの出来事がここから始まっていると考えたからです。ポイントとなるのは、ガブリエルという名前の天使です。19節にこのようにあります。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者」。天使の名前までが記されるのは、かなり珍しいことです。このガブリエルこそが、マリアに対して、「受胎告知」をした天使でありますが、ガブリエルの到来こそが、救いの始まりであると見ている。「神の前に立つ者」と言われているガブリエルが、神の言葉をたずさえて、救いを伝えにやってきたからであります。この出来事は、いわば救いの前触れ、救いの前夜と言ってもよいかもしれません。ルカはまずここから書き始めるのであります。

 今日の話の中心的な人物は、ザカリアとエリサベトという人物です。聖書朗読のときに、皆さまがお聴きになった通りの話であります。ザカリアという祭司がいた。神殿で祭儀を執り行う務めをしているのが祭司です。妻の名はエリサベト。私たちはしばしばエリザベスという外国での名前を耳にすると思いますが、このエリサベトから名前が取られたものです。二人とも正統的な祭司の家柄に属していたようであります。

 しかし有名な祭司というわけではなかった。どちらかと言うと無名の祭司でありました。ルカが記さなければ、その存在すら知られていないような祭司であったのです。この二人は、主の掟と定めをすべて守っていて、非の打ちどころがなかったと言われています。ところが、ザカリアとエリサベトには子どもがいなかった。しかもすでに二人とも年老いていたと言われています。

 そんなある日、ザカリアに大きな仕事が舞い込んできました。自分の組が当番であるときに、くじを引いたら、自分がその努めに当たったというのです。ザカリアは「アビヤ組」というグループに属していました。アビヤ組というグループ名は、旧約聖書にも出て来まして、24グループある中の第8番目のグループであります。24グループが一週間ごとに、順番にこの努めを担当していたようです。24週に一度、つまり半年に一回だけ回ってくる。

 しかも、一つのグループには、たくさんの祭司たちがいたようです。800人くらいいたのではと考える人もいます。そう考えますと、この憧れの努めに当選するのは、宝くじに当たるようなものだったのかもしれません。一生に一度あるかないかの努めだったのです。ザカリアは年老いていましたけれども、もしかしたら、いや、かなりの確率で、この努めが初めてだったと考えることができるしょう。ザカリアは緊張していたと思います。手が震えていたかもしれません。主の聖所と呼ばれる神殿の内側に入り、人々の見えないところで祭儀を行っていた。手順を間違えないように、慎重に、自分の務めを進めていたことでしょう。

 ところが、そこに思いもよらない出来事が起こる。ガブリエルが現れるのです。ザカリアが感じたのは、喜びどころか、不安と恐れでありました。なぜ不安と恐れを感じたのか。今まで見たこともない天使が突然、現れたからでもありましょうし、何よりもザカリアは一生に一度とも言える務めをしている最中でありました。そんな大仕事をしている誰もが、無難にその務めを終えたいと思うでしょう。ところが、予期せぬ出来事が起こった。

 ただでさえ、手順を間違わぬように、無難に仕事がこなせるように緊張していたところに、言わば邪魔が入る。私も礼拝の式を司る者として、いつも礼拝の順序を間違えないように緊張をします。もし間違えてしまったら、予期せぬ出来事が起こったらと考えるだけでぞっとします。ザカリアもそうだったでしょう。何も生涯で一番の大仕事のときに、こんな予期せぬ出来事が起こらなくてもよいではないか。まったくタイミングが良すぎる。ザカリアの頭の中は、真っ白になってしまったことでしょう。

 天使ガブリエルは、一方的にザカリアに告げます。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(13節)。ガブリエルの言葉は続きますが、ザカリアとエリサベトの間に、子どもが与えられると告げられたのです。二人にとっては、長年ずっと願ってきたことでありました。大喜びしてもよいはずです。ところが、ザカリアはそうではなかった。反論するのです。

 「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(18節)。ガブリエルは天使でありました。神の前に立つ者と自分ではっきり言っています。まさに神の言葉をたずさえてやってきた天使です。その天使に反論をした。ザカリアは、いわば神の言葉に対して、神ご自身に反論をしたのであります。

 ルカによる福音書と合わせて、本日は旧約聖書のヨブ記の言葉をお読みいたしました。ヨブ記という書物には、ヨブという人物について記されています。丁寧に話をするならば、いくら時間があっても足りないかもしれません。簡単に言いますと、こういう話です。ヨブという人がいた。この人は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」(ヨブ1:1)。ザカリアとエリサベトのように、信仰的な生活を送っていた人であります。

 ところが、このヨブのところにサタンがやってくる。家族や財産が皆、奪い取られてしまう。そんなときにも、「ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(ヨブ1:22)と言われている。そういう無垢なヨブでありましたが、だんだんと自分の正しさを主張するようになる。ヨブには三人の友がいました。この三人は、苦難に遭ったヨブを慰めようとやって来たのではありますが、ヨブと議論をすることになる。なぜこんなにも悲惨なことが起こったのか。ヨブは自分の正しさを主張していくのです。自分は何も悪いことはしていない、こんなことが起こるなんて理不尽だ、そう主張していくのであります。これは三人の友に対する反論でありましたが、そのような反論が神に向かっていく。自分を無罪にするために、いわば神を有罪にするのであります。神が悪い、と。

 本日、与えられました箇所は、ヨブ記の終わりのところの第33章であります。ここでは、もう三人の友は退きまして、エリフという新たな人が登場します。そのエリフの言葉であります。「ヨブよ、耳を傾けて/わたしの言うことを聞け。沈黙せよ、わたしに語らせよ。わたしに答えて言うことがあるなら、語れ。正しい主張を聞くのがわたしの望みだ。言うことがなければ、耳を傾けよ。沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。」(ヨブ33:31-33)。

 ヨブはもはやエリフには反論しない。黙るのであります。エリフに続いて語られる神の声に耳を傾けるのであります。相手の話を聴くためには、まず自分が黙らなければなりません。黙ること、沈黙することを、ここでヨブは学ぶのであります。

 私たちも、ときに黙る必要があります。カウンセリングで勉強することは、まず黙ることであります。いくら自分にカウンセリングの知識があっても、まずは黙って相手の話を聴かなければならない。たとえ良い解決策を思いついたとしても、黙って相手の話に耳を傾けなければならないものです。私も神学校で牧会カウンセリングという授業を受けました。教会という場所では、人の相談を受けることがある。いかにして、牧師という立場で相談に乗っていくかという授業です。様々な状況を想定して、カウンセリングのシミュレーションを何度もいたしました。

 しかしその授業の担当の先生はいつも言っていました。私たち人間にできることは、結局はその人の話を聴くことでしかない。そしてその人と共に、神に祈ることだけである。いつもその先生はそう言われていました。黙るということ、これはカウンセリングをする者だけではないでしょう。相談者もまたそうです。相談者にとっては、厳しい状況に置かれているかもしれない。どうしてこんな状況に追い込まれるのか、神に対して反論もしたくなる。しかし、やがては黙る必要がある。神が自分に何をなさりたいのか、黙ってその声を聴かなければならないときがやってくる。

 先週の月曜日、信州説教塾という集まりがありました。説教塾のことは、ご存知の方も多いのではないかと思います。牧師たちの説教の勉強会です。信州説教塾というのも、説教塾の中での数ある交わりの中の一つです。私が松本にやってきて、楽しみにしていた交わりの一つであります。

 先日の信州説教塾の席で、ある牧師がこのように言われました。「私は説教の原稿を作成するときに、語るべきことがはっきり見えてくるまでは、原稿は書かないことにしています」。私もよくその気持ちが分かります。原稿を書くということに関して、私は比較的遅い方であると言えると思います。牧師によっては、一週間も前から原稿ができているという人もいるくらいです。それはそれですごいな、と思いますけれども、私は私で、別に直前まで何も準備をしていないというわけではないのです。何よりも聖書を読む、黙想をする、聖書の解説をしている注解書や、説教集を読む。そのようにして、聖書の言葉に触れながら、語るべき言葉を探しているのです。いや、黙っていると言った方がよい。神がこの聖書の箇所から何を語れと言われているのか、黙って耳を傾けているのです。そうしていますと、ああ、これだ、ということが聴こえてくるようになる。その後で、原稿を書くようにしています。いわばこれも神に対して、口を閉ざして黙っていることであります。そして、神からの語りかけに耳をかたむけていることであります。

 天使ガブリエルに対して反論したザカリアも、結局は黙ることになりました。口がきけなくなり、話すことができなくなってしまったのです。それは息子であるヨハネが生まれるときまで続きました。ザカリアはどうしても口が開けなくなってしまった。手間取りながらも務めを終えて、神殿から出てきたときもそうです。口をきくことができずに、何が起こったのか、身振りで示すのが精一杯でありました。定められた務めの期間が終わるやいなや、すぐに家に帰っていったのです。

 ザカリアにとって、口がきけなくなったというのはどういうことだったのでしょう。ザカリアは祭司であります。人々の生活の中心にある神殿で仕事をしていました。一般人に比べれば、人前に出る機会も多かったでしょう。特に昔の人々は雄弁であることが求められました。自分の考えや主張をはっきりと口で言わなければなりません。印刷して文章を配付してそれを読んでもらうなんていうこともできないわけです。今までのように、祭司の務めをしっかりと果たすこともできなかったでしょう。自分の家で、ひっそりと暮らすことが多かったのではないか。

 そしてそれは、エリサベトにとっても同じことでした。「妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた」(24節)とあります。子どもを授かったことが信じられなかったのか、こんなにも高齢になってからの出産ということで、人々の目をひいてしまい、恥ずかしかったのか、その理由ははっきりとは記されていません。いずにしても、エリサベトはザカリアと二人で、ひっそりとしばらくの間、暮らしていたのでしょう。

 二人は何をして過ごしていたのか、ザカリアは話すことができません。身振りでやりとりすることもあったでしょうけれども、二人の間に会話はなかった。静かな時間であったろうと思います。それは沈黙の時間でした。何よりも、神から語りかけられる言葉に、二人で耳を傾ける時間であっただろうと思います。ザカリアは、天使ガブリエルの言葉を何度も思い起こしたでしょう。そして自分が口をきけなくなった状況について、神に反論することなく、思いめぐらしていただろうと思います。ザカリアにしても、エリサベトにしても、これから神が自分たちに何をなさるおつもりなのか、黙って神からの語りかけに耳を傾けていただろうと思うのです。

 二人の願いは子どもが与えられることでありました。今やその願いは叶えられようとしている。二人にとって、子どもさえ与えられれば、それだけで良かったのかもしれない。しかしそれ以上のことが起ころうとしている。自分たちが神の御業のために用いられようとしている。神は自分たちに今、何をなさろうとされているのか。ザカリアとエリサベトは、黙って神の声に、耳を傾けるときが与えられたのです。

 今日の説教の説教題を「沈黙から聴こえてくる言葉」といたしました。私たちは今、礼拝をするために集っています。何よりも、神の言葉である説教を聴くために、私たちは集っている。沈黙するために、教会に集まっていると言ってもよいかもしれません。この沈黙の中から聴こえてくる言葉があるはずです。あなたに、神が何をなさろうとされるのか。神の声に反論するのではありません。じっと耳を傾けるのです。そのとき、あなたの進むべき道が示されることでしょう。ザカリアとエリサベトのように。