松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年5月30日(日)
説教題「どんなときでも歌える歌」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第1章46節〜56節

 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

旧約聖書:サムエル記上 第2章1節〜10節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
マニフィカートの聖母 (Madonna del Magnificat) ボッティチェリ (Sandro Botticelli)

ウフィッツィ美術館 蔵
(イタリア/フィレンツェ)

クリックすると作品のある「WebMuseum, Paris」のページにリンクします。

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
マニフィカート(Magnificat)

クリックすると作品のある「西神戸混声合唱団MP3」のページにリンクします。

 かつて、教会学校の礼拝でこのような出来事がありました。私はその礼拝の司式者でありました。礼拝の間は、生徒たちと向かい合うことになります。生徒たちが椅子に座っているわけですが、その中に、二人の中学生が隣り合わせで座っておりました。その二人の様子は、対照的でありました。一人は満面の笑みを浮かべている。何か嬉しいことがあったのか、顔にまでその嬉しさがあふれていました。案の定、礼拝が終って、分級のときになりましたら、その嬉しい出来事を、本当に嬉しそうに、みんなに話していました。ところが、もう一人の中学生は、嬉しそうな顔をしていた中学生とは、まるで正反対でありました。礼拝で座っているときから、とても悲しそうな顔をしていた。何があったのかは分かりません。分級のときも、ほとんど何も話さずに、とても悲しそうな顔をしていたのです。

 私は礼拝の司式をしながら、その二人の様子を見ていて思いました。ああ、礼拝にはいろいろな思いを抱えて来ている人がいるのだ、と。中学生といえども、その心に様々な思いを抱いてやって来ているのです。今日、皆さまもそうであるかもしれません。しかしこの礼拝のとき、私は思った。礼拝というところは、どんな状況にあっても、同じ言葉で礼拝できるのだということに気付いたのです。

 この二人の中学生は、正反対であったかもしれません。しかし二人とも、同じ神の言葉を聴くことができた。同じ祈りの言葉に、アーメンということができた。主の祈りの言葉を、共に唱えることができた。そして、同じ讃美歌を共に歌うことができた。私は二人が、讃美歌を並んで歌っている様子を見ていて、そう思ったのです。どんな状況に置かれているのであれ、私たちは礼拝で同じ言葉を共有することができる。讃美歌もまさにそうであります。私たちの心の状況にかかわらず、誰もが同じ言葉で神を讃美できる。それが讃美歌の一つのすばらしいところであると思います。

 久々に、ルカによる福音書に戻ってまいりました。ルカによる福音書を読むのは、三週間ぶりということになります。三週間前は、マリアがエリサベトのところを訪問する物語でありました。受胎告知を受けたマリアが、親類のエリサベトを訪問します。それぞれが子どもを身ごもった。しかもそれは神の御業の表れでした。自分たちが神の御業のために用いられた、このことを二人は喜んでいるのです。

 その喜びを表しているのが、歌であります。本日、私たちに与えられました箇所は、「マリアの賛歌」という見出しが付けられていることからも分かりますように、一つの歌であり、讃美歌であります。喜びに満たされた者の口から、讃美の言葉ができたのであります。ここに記されております讃美歌は、「マニフィカート」と呼ばれている讃美歌であります。皆さまも「マニフィカート」という名前を聞いたことがあるかもしれませんし、歌ったことのある方もいるかもしれません。

 私も、どこの修養会だったか覚えていないのですが、かつてこの「マニフィカート」を歌ったことがあります。私たちはふだん、あまり用いませんが、讃美歌21に収められている。その譜面が印刷をされて、配られました。短い讃美歌であります。このような歌詞で歌います。「マニフィカート、マニフィカート、マニフィカート、アニマ、メア、ドミヌム」。何度かこの歌詞を繰り返して歌いました。その修養会のときは、讃美歌の歌詞について、特別な説明があったわけではなく、私は歌詞の意味などはさっぱり分からなかった。しかしその後、分かったことは、この讃美歌が「マリアの賛歌」であり、ルカによる福音書第一章四七節の言葉であるということです。「わたしの魂は主をあがめ」(四七節)、この言葉をラテン語で歌ったのが、「マニフィカート、アニマ、メア、ドミヌム」という言葉であります。

 ルカによる福音書には、たくさんの讃美歌が収められています。本日、私たちに与えられた箇所は、「マリアの賛歌」でありましたが、この後にもいくつかの讃美歌が続きます。たとえば、第一章六八節からは、エリサベトの夫であり、エルサレム神殿の祭司であったザカリアの歌が記されています。「ほめたたえよ」、で始まる讃美歌です。この讃美歌もラテン語の「ベネディクトゥス」という言葉で始まることから、「マニフィカート」と同様、「ベネディクトゥス」と呼ばれております。この讃美歌に関しては、改めて触れる機会があると思います。また、さらに讃美歌を挙げるならば、天使たちの讃美歌が第二章一四節に記されています。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(二・一四)。「いと高きところには栄光、神にあれ」、これもラテン語にしますと、「グロリア、イン、エクセルシス、デオ」となりまして、私たちがクリスマスによく歌っている讃美歌であります。

 このように、ルカによる福音書の冒頭には、実に多くの讃美歌が収められています。物語の出来事が次々と進んでいく中で、讃美歌が歌われる。ある出来事が起こる。すると神を讃美する讃美歌が歌われる。また別の出来事が起こる。すると、また別の讃美歌が歌われる。このようにして、間に讃美歌を挟みながら、ルカによる福音書の物語が進んでいくのであります。

 ここで大切になってくるのは、私たちはどの位置に立って、これらの讃美歌を歌うのかということであります。聖書に記されている言葉によれば、「マニフィカート」を歌ったのはもちろんマリアであります。「ベネディクトゥス」を歌ったのはザカリア、「グロリア、イン、エクセルシス、デオ」を歌ったのは天使たちであります。それでは、これらの讃美歌は、過去にマリアやザカリアや天使たちが歌ったにすぎないのであって、私たちに無関係なのか。もちろんそんなことはありません。

 この説教に先立って、讃美歌九五番を歌いました。この讃美歌は、本日の聖書箇所そのものであります。「わが心は/あまつ神を/とうとみ」。少し古い言葉でありますが、「わたしの魂は主をあがめ」ということです。私たちもすでにこの讃美歌を歌うことができたのであります。決してマリアだけの讃美歌ではない。私たちも、この讃美歌をマリアと共に、そしてそこに一緒にいたエリサベトと共に、歌うことができるのであります。今は悲しいことがあったから、神をあがめる讃美歌などは歌えません、ということではない。あの悲しい顔をしていた中学生のように、嬉しいことがあった人と共に歌うことができる讃美歌であります。どんなときでも、どんな人でも、「マリアの賛歌」に自分の心を合わせ、歌うことができるのであります。

 この「マリアの賛歌」の言葉を、一つ一つ丁寧に説いていくとしたら、何回も説教しなければならなくなります。それほど、この讃美歌の言葉は豊かであります。聖書学者たちも、この豊かさに着目し、讃美歌の言葉を分析しています。ある聖書学者は、この讃美歌の歌詞を一番と二番で分けることができると言います。また、別の聖書学者は、三番まで、三つに分けることができると言います。聖書学者たちのこのような区切り方は、讃美歌の歌詞である言葉を見ていき、ここで区切ると綺麗に分けることができると、考えることもありますし、歌詞の意味を考えて、一番、二番というように区切ることもあります。私たちは、あまりどこで区切るのかということに、こだわる必要はないと思います。

 しかしこの讃美歌全体を見渡してみて、はっきりと言えることが一つあります。この讃美歌には流れがある。それは、「わたし」という言葉で始まっているのが、「わたしたち」という言葉へ変化していっているという流れです。前半部分には、「わたし」という言葉がたくさん用いられています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(四七節)。「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」(四八節)。「力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから」(四九節)。「わたし」とは、もちろんマリアのことであります。前半部分の歌詞は、マリアの体験そのものと言ってもいいかもしれません。わたしマリアに、主がこのようなことをしてくださったということを歌にしている。

 ところが、後半部分からは、「わたし」という言葉が消えていきます。五〇節には「主を畏れる者」という言葉が出てきます。五二節には「身分の低い者」、五三節には「飢えた人」。そして五五節では「わたしたち」という言葉が用いられて、こう言われている。「わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(五五節)。「わたし」という特定の人を指す言葉が、「わたし」を含めたもっと多くの人に拡大されていくのであります。これがこの讃美歌の一つの大きな特徴であります。

 信仰の事柄も、同じことが言えると思います。私たちが信仰を持ち始めたのは、極めて個人的なことが、始まりであったかもしれません。自分にこんな出来事が起こった、それがきっかけとなって、神を求めるようになったということもあるでしょう。しかし、最初は極めて個人的であったのが、いつの間にか、信仰の友が与えられていた。そのことに気付く。そうしますと、信仰の歩みもまた、拡大されていくのであります。自分一人で神を信じて歩むのではない。同じ神を信じている友と一緒になって、信仰の歩みを進めていくことができるのであります。

 マリア自身もそうでありました。まず、自分のところに、天使ガブリエルがやってくる。受胎告知がなされる。ここまでは、マリアと神の間の関係だけかもしれません。しかしその後、急いでエリサベトのところを訪問する。エリサベトもマリアと同じようなことがその身に起こっていました。マリアは一人だけの信仰者ではなかった。エリサベトと共に、信仰の歩みをすることができた。その幸いが、この「マリアの賛歌」に表れている。「わたし」という言葉が、「わたしたち」という言葉へ拡大されていることから、そのことが分かるのです。

 それでは、私たちがこの讃美歌に加わるためには、あと何が必要でしょうか。マリアとエリサベトの二人が、心を合わせて讃美歌を歌っていることは分かります。この二人のところに、さらに私たちが心を合わせて加わるためには、あと何が満たされればよいでしょうか。

 後半部分の歌詞に着目したいと思います。「身分の低い者」(五二節)、「飢えた人」(五三節)という言葉が出てきました。マリアは自分のことを、四八節のところで、「身分の低い、この主のはしためにも」と言っておりますように、自分のことを身分の低い者と思っていたことは明らかであります。その身分の低い者が高く挙げられ、反対に権力ある者が低くされる。その逆転現象が、「マリアの賛歌」の後半部分の大きなテーマになっています。飢える人が良い物で満たされる、反対に富める者が空腹のままで追い返されるのであります。

 それでは私たちはいったいどちらなのか。私たちは権力ある者なのか、それともマリアのように身分の低い者なのか。飢えた人なのか、それとも富める者なのか。五三節の言葉に着目したいと思います。私たちは「飢えた人」であるのか。日本という国は、食べる者が豊かにある国の一つと言うことができるでしょう。その経済力にものをいわせて、世界中から食べ物を集めています。日本にいながら世界中の国の料理を食べることができると言う人もいますが、それは経済力のない国から、食べ物を取りあげているにすぎません。食べ物を集めている国があるかと思えば、食べ物を取られている国もある。世界には富める国もあれば、貧しい国もある。富める者がいれば、飢えた人もいる。このような基準で言えば、私たちは「飢えた人」ではなく、「富める者」と言ったほうが良いかもしれません。

 しかし五三節の言葉によくよく目を向けてみると、ここでは単に食べることができるのか、できないのかという話にとどまらないということが、すぐに分かります。「飢えた人を良い物で満たし」と書かれている。「良い物」ではなくて、「パン」だとか「食べ物」という言葉が入っていれば、すっきりするかもしれません。「飢えた人をパンで満たし」と書かれていれば、ああこれは食べることに関して言われているのだと、はっきり分かりますが、そうではないのです。食べ物以上のことが、ここで言われている。

 五三節の後半に、もっとよくそれが表れています。「富める者を空腹のまま追い返されます」。「富める者」ではなくて、「満腹の者」と書かれていれば、これもすっきりしたかもしれない。明らかに、ここで言われているのは、単にお腹を満たすことができるだとか、満たすことができないということにとどまらないのです。もっと深いことが言われているのです。

 ある説教者が、この五三節を取りあげて、「飢えた人」のことを、このように言っています。飢えた人とは、自分自身では何もできないと思っている人のことである、と。反対に、「富める者」とは、自分自身の力で何でもできると思っている人のことである、と。この説教者はそのように言うのであります。神に寄り頼む者であるか、逆に神など要らない、自分自身で何でもできると思っているのか、「飢えた人」と「富める者」の違いは、そこにあるのです。

 私たちも、「富める者」になることがあります。自分の力で何でもできると思いあがってしまう。しかし結局のところ、自分自身では何もできなかったということを思い知らされてしまう。自分は無力だったと思わざるを得ないときがやってくる。神の前に出てしまうと、結局、自分には何もなかった。空腹のまま、追い返されてしまうのであります。そうすると私たちは「飢えた人」になる。神の前には、何も誇ることができるものはない、ということを知らされる。私たちは「飢えた人」として、神の前に立つのであります。その私たちを、神は良い物で満たしてくださる。この「マリアの賛歌」は、このような神をほめ讃えるのであります。

 マリアとエリサベトも、自分たちには何も誇るべきことは持ち合わせていない、ということが分かっていました。唯一、自分たちが持ち合わせていたのは、神が自分たちを用いてくださったことであり、その恵みだけでありました。マリアとエリサベトは、その喜びに満たされて、二人で心を合わせて、この讃美の歌を歌うのであります。

 このマニフィカートを歌ったのは、マリアであると聖書には書かれています。「そこで、マリアは言った。」(四六節)。この箇所をめぐって、聖書学者たちの間で、しばしば議論となることがあります。聖書には昔の多くの写本が残されていますが、その写本の中には、ここが「マリア」ではなくて「エリサベト」と書かれているものがあるのです。そんなこともありまして、マニフィカートを最初に歌ったのは、マリアなのかエリサベトなのか、そのことが議論になることがあるのです。

 この議論は、私たちにとってそれほど重要ではないでしょう。どちらが最初に歌ったとしても、やがては二人が声を合わせて歌うことになったでしょう。何しろ、マリアは三カ月もの間、エリサベトのところに滞在したわけですから、神を讃える歌を歌う機会はいくらでもあったでしょう。どちらか一方だけの歌ではない。二人の歌になったのであります。

そしてここに、私たちも加わりたいのであります。四六節に入る名前は、マリアなのかエリサベトなのかという話を、今、しましたけれども、ここに私たちの名前をも入れることができるのであります。私たちも、マリアとエリサベトに加わって、讃美をすることができるのであります。そもそも、讃美歌を歌うときには、誰が作曲したのか、誰が作詞をしたのかということは、それほど意味を持たなくなっているのかもしれません。そんなことをいちいち考えずに、私たちは讃美歌を歌い、神を讃美します。讃美歌のメロディーと歌詞に、自分の心を合わせ、神を讃美していくのです。

 ああ、神が自分にはこんなことをしてくださった、その恵みの出来事を思い起こすこともあるでしょう。苦難を乗り越える祈りを、讃美歌に重ねることもあるでしょう。そのようにして、讃美の歌を歌う。あの嬉しそうな顔をしていた中学生はもちろん、悲しい顔をしていた中学生も、共に歌うことができる。神を信じる誰もが、讃美をすることができるのであります。