松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年5月9日(日)
説教題「実現を信じて待つ」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第1章39節〜56節

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」LinkIcon続きを読む

旧約聖書: イザヤ書 第48章1〜3節






レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
聖母のエリザベト訪問(Visitation)  マリオット・アルベルティネッリ(ALBERTINELLI, Mariotto)

ウフィッツィ美術館 蔵
(イタリア/フィレンツェ)

クリックすると作品のある「Web Gallery of Art」のページにリンクします。

 私たちの人生には、大きな出来事も、小さな出来事も、いろいろな出来事が起こります。それは突然起こることもありますが、あらかじめ、予告されることもあります。あなたにこういうことが起きます、誰かが言葉をもって告げることがあります。そうしますと、私たちはいてもたってもいられなくなることがあります。特にそれが大きな出来事である場合は、なおさらでありましょう。じっとしていることができなくなるのです。

 マリアもそうでありました。先週、私たちに与えられました聖書の箇所は、ルカによる福音書第一章二六~三八節でありました。いわゆる受胎告知の物語です。天使ガブリエルがマリアのところにやってきます。ガブリエルの第一声はこうでした、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(二八節)。マリアはこの言葉に戸惑い、この言葉の意味を考え込んでしまいましたが、ガブリエルは続けて言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(三〇~三一節)。結婚前の婚約中の身であるのに、子どもを授かったと言われる。しかもその子は聖霊によって身ごもり、神の子とまで呼ばれると言われるのです。マリアにとっては大きな出来事であります。大きな出来事を予告されたのです。

 マリアはその後、どうしたのでありましょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」(三八節)と言っていますが、そのままその出来事が起こるのを、何もせずに、じっと待っていたのでありましょうか。答えはそうではありません。マリアはすぐに行動を開始します。親類であるエリサベトのところに訪問をするのであります。いてもたってもいられなくなったのでありましょう。訪問と言いましても、すぐに行けるような距離ではなかったようです。

 マリアがこのときいたのは、ガリラヤという町でありました。エリサベトがいた町は、「ユダの町」(三九節)でありました。エリサベトの夫ザカリアは祭司でありました。神殿で祭儀を行う祭司です。神殿はエルサレムにありましたが、祭司たちの多くはエルサレムではなく、エルサレム近郊に住んでいたようです。マリアがいたガリラヤから、エリサベトがいたユダの町まで、距離にすると一五〇キロくらいはあったのではないかと考えられています。

 私たちの身近にこの距離を置き換えますと、松本から高速道路に乗って、甲府を越えて、山梨県も飛び出そうかというような距離です。マリアはこれほどまでの距離を旅していったのです。車も電車もない時代です。おそらく二、三日はかかったのではないかと思います。しかも、「急いで」(三九節)と書かれています。ガブリエルからこの知らせを告げられた後、ろくに身支度もせずに、急いで、エリサベトのところに行ったのだと思います。

 どうしてマリアはエリサベトのところに向かったのでしょうか。多くの者が考えますのは、天使ガブリエルがこのようにマリアに告げたからです。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」(三六節)。マリアはエリサベトと親類でありましたから、エリサベトが高齢になっているにもかかわらず、妊娠をしているということは、すでに知っていたでありましょう。しかしそんな遠く離れていたので、会いに行って祝福することができなかった。

 ところが、今度はマリアも自分の身に同じような出来事が起こると告げられる。マリアはこの出来事を疑ったのではないでしょう。疑ったからエリサベトのところへ行き、それを確かめに行こうと思ったのではないと思います。そうではなくて、自分の身に同じ大きな出来事が起ころうとしている。しかもそれは神の御業である大きな出来事です。その同じ出来事が起こっている人のところに、一刻も早く行きたかったのではないか。その出来事を分かち合える人のところに、マリアは急いで出かけていくのであります。

 このようにして、エリサベトのところにマリアは着いたのであります。そして、マリアは家に入り、エリサベトに挨拶をしたのであります。どういう言葉でマリアは挨拶をしたのか。聖書は何も答えてくれません。「こんにちは」とか「ご無沙汰しています」とでも言ったのでしょうか。あるいは、エリサベトは子どもを身ごもっていますから、「おめでとうございます」とでも言ったのでしょうか。短い挨拶だったのか、長い挨拶だったのか、それすらも分かりません。

 マリアの挨拶が終わると、エリサベトはすぐに答えます。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」(四二~四三節)。エリサベトはどうしてマリアが妊娠していることを知ったのでしょうか。マリアは遠く離れたところから、急いでやってきています。その知らせが自分のところに伝わってくるだけの時間もなかったでしょう。マリアが来るまで、エリサベトは何も知らなかったはずです。

 もしかしたら、マリアの挨拶が長い挨拶であり、天使ガブリエルが自分のところにもやってきたこと、神の子を聖霊によって身ごもったことを、挨拶の中で知らされたからかもしれません。そのように考える人もいますが、こういう考え方もあります。マリアの挨拶は短い挨拶だった。しかしそれを聞いたとき、エリサベトの胎内の子がおどった。しかもそれだけではない。エリサベトは聖霊に満たされた。そしてすべての出来事を悟ったというのであります。具体的な言葉はなくても、エリサベトはマリアの様子を見て、すべてを悟ったのであります。

 私たちも、ときに言葉を交わさなくても、信仰の事柄が分かるということがあるかもしれません。たとえば、職場でキリスト者であるということを明かしていなかったとしても、あるとき突然、同僚の者から「もしかして、あなたはキリスト者ですか」と言われる。そのような経験した方の話を聞いたことがあります。皆さまも、同じような経験があるかもしれないですし、反対の立場で「もしかして、あなたはキリスト者ですか」と聞いたことがあるかもしれません。

 かつて私と妻が、ある教会の礼拝に出席しようと日曜日に出かけていきました。ちょっと分かりにくいところにある教会です。事前にインターネットで場所を調べて、地図を印刷して持っていきました。駅を降りて、地図を頼りにしながら歩いていく。教会の周辺になると、妻とこんな話をしながら歩いて行きました。「今、私たちの前を歩いている人、あの人はこれから教会に行くにちがいない」。「今、私たちの後ろを歩いている人、あの人は教会に行きそうもない」。案外これが当たるものです。その人の格好、歩き方、顔つき、いろいろな要素が判断材料になります。たとえその人と言葉を交わさなくても、その人が信仰者であるか、そうでないか、そのことが分かるときもあるのです。

 マリアも日曜日に教会へ向っているような、信仰者の姿でありました。天使ガブリエルの言葉に対して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(三八節)、そう言い切ることができたほどの信仰者です。マリアの訪問を受けたエリサベトも、言葉は交わさずとも、すべてを悟ったのではないか。聖霊の力を受けて、マリアの顔つき、歩き方、行動を見て、神の出来事を確信したのではないかと思うのです。

 ヨーロッパなどの美術館に行きますと、多くの絵が飾ってあります。その絵のかなりの割合が、聖書に基づくものであります。聖書のいろいろなシーンが、絵の中に表現されています。そのシーンの中で、最も多く描かれているテーマは、やはり十字架でありましょうけれども、それに劣らず、受胎告知の絵も数多くあります。天使ガブリエルがマリアのところにやってきて、主イエスの誕生を告げている場面であります。

 十字架や受胎告知に対して、割合としてはかなり少ないかもしれませんが、マリアがエリサベトを訪問している場面が、描かれている絵もあります。当たり前のことですけれども、この絵の中には、マリアとエリサベトの二人の姿が描かれることになります。一六世紀に描かれたある絵は、マリアとエリサベトが右手でしっかりと握手をして、エリサベトの左手がマリアの肩に置かれています。そしてエリサベトがマリアに顔を近づけて、祝福の言葉を述べている。一五世紀に描かれた別の絵では、エリサベトがひざまずいていますが、マリアの両方の手がエリサベトの肩にかけられている。そしてエリサベトの左手が、主イエスが宿っているだろうマリアのお腹のあたりに添えられています。

 今、二枚の絵をご紹介しました。いずれの絵も、マリアとエリサベトは寄り添うようにして描かれています。受胎告知とは対照的です。受胎告知の絵は、どれも天使ガブリエルとマリアの間には距離があります。触れ合っている絵はほとんど見たことがありません。しかしマリアとエリサベトはそうではありません。二人の間には距離がない。二人はとても親密です。どうしてこんなにも親密なのか。親類だったからかもしれません。

 しかしそれだけではないはずです。神の御業をすべて悟ることができたからであります。ここに二人の信仰者の姿があります。この二人の役割は同じようでもありますが、違うとも言えるでしょう。一方は主イエスを身ごもり、他方は洗礼者ヨハネを身ごもった。しかし二人とも、同じ神の御業のために用いられた二人です。そのような二人が出会うとどうなるのか。喜びに満たされ、祝福の言葉を交わし合うのです。そのような信仰の交わりが生まれるのであります。

 二〇世紀最大の神学者と言われているカール・バルトという人がいます。彼は膨大な著作、聖書の注解、説教を残しました。その中で、今日私たちに与えられた聖書の箇所を解説して、このように記しています。「二人の素朴な女性が、このように、神の言葉によって与えられ、心の中に語られた希望の中で、一致し共にあるところ、そこに教会がある」。神の言葉が与えられ、その言葉によって一致した人がいるところ、そこに教会があると、カール・バルトは言うのです。その通りだと思います。教会は建物ではありません。建物があれば教会になるというわけではないのです。たとえ立派な建物がなくても、いや、建物さえなかったとしても、信仰者の交わりが教会を生み出すのです。マリアとエリサベトの姿は、一番古い教会の姿であると言う人もいるくらいです。

 私たちの教会もそういう姿でありたいと願います。マリアとエリサベトのように、ぴったりと寄り添っても構いませんけれども、別にそうしなくても構いません。お互いにプライベートのことを話し合って、より親密になってもよいでしょうけれども、そういうことが少なくても構いません。大切なのは、神の言葉を聴いて、そこに信仰の交わりが生じているかどうかということです。祝福の挨拶を互いに交わし合うことができるかどうかということです。

 最近、教会のホームページが新たにされました。ホームページだけでなく、教会のいろいろな面が整えられてきていると思います。教会にますます人が増えるのではないか、そういう声も聞かれます。しかし私たちは人が増えることだけで、安心するわけにいかない。教会に人が集まったとしても、神の言葉によって一致することができなかったら、それは教会でなくなってしまうとさえ言ってもよい。

 たしかに、教会にはいろいろな人がいます。それぞれに教会に導かれた経緯があると思います。人によってそれは異なるでしょう。しかし今は一つの希望を抱き、一つの喜びに生かされているはずです。あの人の希望、喜びと自分の希望、喜びは同じであるはずです。私もあなたも、神の御業のために用いられている。そのことを互いに祝福し合っている。神を喜び祝う交わりが生じてくるところ、それが本当の教会の姿なのであります。

 使徒パウロも、ローマの信徒への手紙の中でこう記しています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ一二・一五)。一緒に喜びなさい、一緒に泣きなさい、これは信仰を持たなくても言うことのできる言葉のように感じられるかもしれません。しかしそういう交わりが言われているのではないのです。私たちが真実に、共に喜び合えることとは何か。それは、マリアとエリサベトのように、神がご自分の御業のために、私たちを用いてくださるということであります。お互いが神の祝福に入れられ、その祝福を交わし合えるということであります。そのことをこそ、共に喜び合うことができる。

 泣きたくなるようなことが起きたときも同じです。心から共に泣くことができるのは、同じ神を信じている交わりが生じているからであります。共にその悩みを共有し、共に信じている同じ神に祈ることができるからであります。

 その後、マリアはエリサベトのところに三か月もの間、滞在したと記されています(五六節)。マリアは準備万端でエリサベトのところを訪問したというよりは、「急いで」(三九節)エリサベトのところにやってきた。最初はそんなに長居をするつもりはなかったのかもしれません。三か月もの間、二人はいったい何をしていたのでしょうか。

 今日は詳しく触れることはできませんけれども、「マリアの賛歌」がここには記されています。神を讃美する歌であります。この讃美歌については、次回、ルカによる福音書を説くときに触れることになります。二人が一緒に過ごした三カ月もの間、歌を歌うことが多かったのかもしれません。それは神をほめ讃える歌であります。自分たちの身に起こったことで、喜びに満たされていた。そうしたら自然と口を開いていた。神をほめ讃えていたのであります。

 特に二人はそれぞれ、主イエスと洗礼者ヨハネを身ごもっていました。エリサベトが「胎内の子がおどった」(四一節)と言っているくらいですから、二人とも、神の御業を自分の体で直接、体験できたのでしょう。私はもちろん、自分の体の中で命をはぐくむという経験をしたことはありません。想像するだけでありますが、それは何にも得難い喜びであると思います。

 私が大学生から社会人になる頃、同年代の女性とこんな話をしたことを覚えております。私が「子どもが生まれると、男性は仕事をそのまま続けられることが多いけれども、女性は少なくともある時期は産休に入らなければならない。なんだか申し訳ない気がする」、そのように申しましたら、その女性はこう言いました。「たしかにそうかもしれないけれども、女性は自分の中で命がはぐくまれる体験をすることができる。これは男性にはできないことだよ」。まったくその通りだと思います。マリアとエリサベトも、自分が神の御業のために用いられる喜びを、その体で体験していた。そしてこのことが信仰者の交わりを生み、教会を生み、神をほめ讃える歌になったのだと思います。

 しかし、これはマリアとエリサベトだけが味わえる特権ではありません。二人だけでなく、誰もが味わえるものになりました。マリアのお腹の中に、主イエスがおられたのですから、マリアたちは救い主と常に一緒でした。それは今の私たちも同じであります。救い主が私たちの間におられます。マリアのように、私たちのお腹の中にではないかもしれませんが、私たちの交わりの間に、救い主、主イエス・キリストがおられます。私たちの交わりの間におられるのです。主イエスが共におられることを、私たちも体験することができます。教会とはそういうところです。この教会でこそ、私たちは主イエスに出会います。松本東教会もまたそうです。マリアとエリサベト、最も古い教会の姿が、私たちの教会の姿でもある。そのような教会にされていることを、心から神に感謝したいのです。