松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年5月2日(日)
説教題「救いの予告」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第1章26節〜38節

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。LinkIcon続きを読む

旧約聖書: イザヤ書 第9章1〜6節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
受胎告知 (Annunciazione) フラ・アンジェリコ(ベアト・アンジェリコ) Fra Angelico (Beato Angelico)

サン・マルコ修道院 蔵
(イタリア/フィレンツェ)

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受胎告知 (Annunciazione) レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)エルミタージュ美術館蔵(ロシア)

ウフィッツィ美術館 蔵
(イタリア/フィレンツェ)

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 ご存じの方もあるかと思いますが、「アヴェ・マリア」という曲があります。この曲は宗教曲として広く知られておりまして、一般のCDショップに行けば、多くの人によって歌われたり、演奏されたりしているものが、手に入るのではないかと思います。このように「アヴェ・マリア」は音楽として知られておりますけれども、もともとこれは音楽であったわけではないようです。これは祈りでありました。もともとは祈りの言葉であった、それにメロディーが付けられて、歌われるようになったのです。カトリック教会の信徒の方の中には、この祈りを大事にされている方もいると思います。日本語ですと、この祈りはこういう祈りになります。

恵み溢れる聖マリア、
主はあなたとともにおられます。
主はあなたを選び、祝福し、
あなたの子イエスも祝福されました。
神の母聖マリア、
罪深い私達の為に、
今も、死を迎える時も祈って下さい。

「恵みあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます」、この言葉をもって、この祈りが始まります。お気づきの方もいらっしゃるかもしれません。この言葉は、本日、私たちに与えられた箇所で言いますと、28節にあたります。天使ガブリエルが、マリアに告げた言葉です。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。この天使ガブリエルの挨拶の言葉をもって、一連の祈りの言葉が始められます。

 ついでに申しますと、祈りの次の言葉、「主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました」という言葉、この言葉は、来週、読むことになりますが、42節の言葉です。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。つまり、「アヴェ・マリア」の祈りの言葉は、28節と42節の言葉をつなぎ合わせているのです。そして、祈りの最後の言葉に至る。最後の言葉は「神の母聖マリア、罪深い私達の為に、今も、死を迎える時も祈って下さい」、そういう言葉で、この祈りが閉じられます。

 この最後の祈りの言葉は、カトリック教会の特色がよく表れているかもしれません。私たちの罪のとりなしを、聖母であるマリアに、とりなしをしてもらっているのです。この祈りの最後の言葉を聞くと、マリアの存在がどこか遠くになってしまうように感じるかもしれません。私たちの間にいる一人の人間というよりは、罪のとりなしができるほどの存在でありますから、マリアのことを、より神に近い存在のように感じてしまうかもしれません。

 しかしプロテスタント教会に属する私たちは、そうは考えない。主イエスの母であるマリアといえども、私たちと変わることはない人間なのであります。私たちと同じように考え、悩み、そして神に従っていった、そういう存在なのであります。

 「アヴェ・マリア」、この言葉はラテン語でありまして、日本語に直訳すると、「こんにちは、マリア」ですとか、「おめでとう、マリア」というようになります。いわばこれは挨拶であります。天使ガブリエルからマリアへの挨拶であります。この挨拶によって、いわゆる受胎告知の物語が始まります。

 この挨拶を聞いたマリアでありますが、マリアはどのようにこの挨拶を受け止めたのでしょうか。29節にこうあります。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(29節)。天使に挨拶をされた、しかも「おめでとう!」とまで言われたのにもかかわらず、マリアは戸惑ってしまった。皆さまが手にしておられる新共同訳聖書には「戸惑う」と書かれています。

 私は今回の説教準備のために、聖書の翻訳をいくつか読みました。その中でも、新共同訳聖書の「戸惑う」という言葉は、少しニュアンスが軽い気がいたしました。たとえば、かつての口語訳聖書では「ひどく胸騒ぎがして」とあります。ある聖書学者がしている翻訳によれば、「まったく心を乱され」ともあります。マリアは「おめでとう」という挨拶を受けた。しかしその挨拶を喜ぶのではなくて、戸惑ってしまった。もっと強い表現で言うならば、ひどく心を乱されたのであります。

 どうしてでありましょうか?心を乱された原因は何であったのか。ある説教者が想像力を働かせて、面白いことを言っています。マリアはこのとき、ザカリアとエリサベトの話を思い出したのではないかと言っているのです。ザカリアとエリサベトの話は先週いたしました。ザカリアは神殿で祭儀を執り行う祭司でありまして、その務めをしている最中に、マリアと同じ天使のガブリエルが現れた。そしてザカリアは口がきけなくなり、妻のエリサベトは高齢であったにもかかわらず、子どもを身ごもった。しかも、身ごもってから、もう六カ月になるというのです。

 マリアはザカリアとエリサベトの親類でありました。ザカリアとエリサベトの話は、人々の間で広まっていましたし、もちろん親類であるマリアはこの話をすでに耳にしていたことでしょう。だからこのとき、マリアはザカリアとエリサベトの話を思い出したのではないかと、その説教者は言うのです。このように考えていきますと、マリアはこう思ったに違いない。ああ、あのときの話と一緒かもしれない、同じことが今この身にも起こるかもしれない!

 実際に、天使ガブリエルから告げられたのは、その通りのことでありました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(30-31節)。マリアの身にこれから起ころうとしていることは、エリサベトと同じでありました。子どもが与えられるというのです。しかしエリサベトと異なるところもありました。そうです、マリアはまだ結婚をしていなかったのです。エリサベトは高齢でありましたが、きちんと結婚をしている、夫もいる。しかしマリアはそうではありませんでした。

 マリアは婚約中ではありました。「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ」(27節)と記されていますが、これはつまり婚約中であるということです。婚約をするということは、婚約をした男女がこれから結婚に向かって歩もうとしていることを公にすることであります。そのように公にしながら、結婚に向けて備えるのであります。当然のことながら、結婚したわけではありませんので、一緒に住むというようなことはまだいたしません。このことは、当時の時代も同じであったようです。マリアは婚約中であって、まだヨセフとの結婚生活を始めていたわけではありません。当時の習慣としては、夫となる人が妻を迎えに行き、結婚式をすませた上で初めて、妻は夫の家に迎え入れられ、結婚生活が始まるのであります。

 しかしこのとき、マリアのもとにやってきたのは、迎えるべきはずのヨセフではなかった。しかもこれから自分の身に起ころうとしていることは、とんでもないことであります。婚約中であっても、これから結婚することは公にしているマリアであります。たとえ婚約中であったとしても、他の男性との関係を持つことは絶対に許されていないことであり、姦通罪が適用されることになったようです。ヨハネによる福音書に、姦通の女の話があります。姦通の罪を犯し、人々の前に引き出され、石を投げつけられて殺されそうになった女の話であります。もしかすると、そのようなことになってしまうかもしれない、マリアの頭にそのようなことがよぎったかもしれません。

 マタイによる福音書では、この同じときの出来事が記されていますが、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイ1:19)とあります。これはヨセフの優しさかもしれませんが、ヨセフもマリアが殺されてしまわないように、このような行動を取ろうとしたのだと思います。とにかく、マリアはひどく困ってしまった。戸惑ってしまった。心を乱されてしまったのであります。

 私たちもまた、マリアと同じようなことが起きています。たしかに、マリアのような、神の子を身ごもるというような大ごとは起きないかもしれない。「アヴェ・マリア」のような祈りをされるようなこともないかもしれない。しかし私たちも、小さなマリアであります。マリアのように、神の出来事が私たちの人生の中に飛び込んでくる。こんなはずじゃなかったのにと思わされる。こんな計画、自分の計画にはなかったのにというようなことが起こる。神のご計画のために、自分が用いられるという経験を、私たちの誰もがしているのであります。

 マリアはヨセフの妻になることだけを考えて過ごしていたのかもしれません。まずはヨセフに迎えに来てもらい、結婚をして、ヨセフの家に入る。それからヨセフとの間に子をもうける。マリアの頭に描いていた人生のプランはそうでありました。そこへ、天使ガブリエルが登場する。神がマリアのところに飛び込んでくるのであります。そして自分の計画の変更を迫る。

 私たちも小さなマリアであります。マリアと同じように、神によって人生を変えられてしまう者であります。もっとも、今日のこの礼拝に来ていることだって、変えられてしまったことの表れかもしれません。人生を変えられてしまったからこそ、神を拝む礼拝に来ているのです。キリスト者でなかったとしたら、今ごろ何をしているでしょうか。いろいろな可能性があったはず。しかし神が私たちの人生に飛び込んで来られ、結局のところ、私たちは神に変えられてしまったのであります。

 天使ガブリエルの言葉が終ると、マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)。マリアはここで「はしため」という言葉を使っています。私はあなたの「はしため」である。「はしため」という言葉、元の言葉では、奴隷という言葉です。文字通りの奴隷であります。勝手気ままにやるのではない。そうではなくて、神の僕、神の奴隷であると、マリアは言っているのであります。

 奴隷というのは強い言葉のように思われるかもしれません。私たちが奴隷という言葉を耳にすると、人間扱いされていないだとか、非人道的な響きに聞こえてしまうのかもしれません。ローマ帝国の歴史を書いているある作家が、当時の奴隷のことを、このように表現いたしました。「奴隷は自分の運命を自分で決めることができない」。どういうことか。ローマの社会には、自由人と奴隷がおりました。奴隷は主人に仕えることになる。奴隷にもさまざまな仕事がありました。中でも大規模な農場などで働かされることになった奴隷たちは、たいていの場合は戦争の捕虜であったようですけれども、非人道的な扱いを受けることがありました。

 けれども、すべてがそういうわけではない。主人と同じ家で過ごす奴隷もありました。家族も同然ということもあったようです。しかしそのような場合であっても、奴隷に許されていなかったことは、自由に行く場所や住む場所、仕事を決めることができないということでありました。その意味で、「奴隷は自分の運命を自分で決めることができない」と、この作家は表現したわけです。

 「わたしは主のはしためです」、そのような言葉を口にしたマリアも、もはや自分で自分のことを決めることをやめてしまったのであります。私は神の僕、奴隷であると言い切ることができた。自分の立てた計画を自分で進めていくのではない、まして運命に身を委ねるというのでもない。そうではなくて、自分のすべてを主に明け渡した。そのような心構えがないと、とても言うことのできない言葉なのであります。続く言葉、「お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)というのもそうでありましょう。

 ルカによる福音書と合わせて、本日はイザヤ書の箇所もお読みいたしました。イザヤ書9:1-6の言葉であります。この箇所は、クリスマスに読まれることが多くあります。特に5節の言葉がクリスマスの預言が、直接ここに表されていると考えられることが多い。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(イザヤ9:5)。この預言の言葉は、天使ガブリエルの言葉にも通じるところがあると思います。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:32-33)。

 マリアは男の子を生むことになりました。天使の言葉通りに、それが実現していきました。しかも、生んだのはただの男の子ではありませんでした。「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる、それほどまでの子どもを産むことになったのです。これから起ころうとしていることは、マリアの想像をはるかに超えたものでありました。

 しかし忘れてはならないのは、それを成し遂げるのは、あくまでも主であるということです。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9:6)、イザヤは預言の言葉の中に、このように記すことを忘れませんでした。神の御業は、私たちが自分の力で成し遂げるものではないのです。そうしようとしても、できるはずがありません。神の御業が実現するところ、そこにはいつでも、主の熱意が注がれている。私たちは、主の「はしため」にされている。その御業のために働いている者とされているのであります。

 神の御業はいつも小さなところから始まります。名もなき祭司であったザカリアとエリサベトから、また一人の男のもとに嫁入りしようとしていた、小さな少女であるマリアから、救いの御業は開始されました。この福音書を記したルカは、救いの物語がここから始まると考えて、筆をとりました。事実、救いの御業がすでに始まっているのです。ザカリア、エリサベト、そしてマリアという小さな者が用いられて、救いの御業が静かに進行していっているのです。

 私たちもそのような御業のために用いられる小さなマリアであります。救いの御業のために、神が私たちを用いてくださるのであります。神の御使いがあなたのところに来ています。「おめでとう!恵まれた方、主があなたと共におられる!」。私たちも言いたい。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。