松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年4月18日(日)
説教題「実現した神の事柄」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第1章1節〜4節

 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

旧約聖書: エレミヤ 第31章10〜14節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
聖母を描く聖ルカ (St.Luke Painting the Virgin)/ウェイデン(Weyden)

聖母を描く聖ルカ (St.Luke Painting the Virgin)/ウェイデン(Weyden)
ボストン美術館 蔵
(アメリカ/ボストン)

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 神を愛する、松本東教会の皆さま!
 本日の週報に記されていますように、お二人の姉妹が、松本東教会に転入会されました。先週の日曜日に長老会がもたれ、そこでお二人の姉妹の転入会のための面接試問のときを行ったのです。その長老会の場で、転入会が可決されたということをもって、正式にこの教会の教会員となったのです。おや、と思われる方もあるかもしれませんが、礼拝の中で、転入会式を行わないのか。お二人の姉妹の場合は、転入会式を行う必要はありません。どうしてかと申しますと、お二人は同じ日本基督教団の教会から、この教会に移って来られたからです。同じ日本基督教団であると、どうして転入会式を行わないのか。その答えは簡単なことでありまして、洗礼を受けられたとき、あるいは別の教会から日本基督教団の教会に移られたとき、すでに日本基督教団の信仰告白を、信じ、受け入れ、告白しているからです。

 教会にとって、信仰を告白することは、とても大切なことです。それがなされないのであれば、教会でないと言ってもよい。では、どういう内容を告白するのか。この人とあの人が信じている内容が違う内容では困るのです。同じことを信じていなければならない。だからこそ、私たちで言いますと、日本基督教団の信仰告白が大切になってくるのです。お二人の姉妹は、すでにこの信仰の告白を終えている。だから、転入会式は行いません。けれども、先週の長老会の席で、お二人に対して、私は日本基督教団の信仰告白の全文を読み上げました。そして再確認の意味で、私たちが信じているこの信仰告白に、今までと同じように同意しますね、ということをお聞きしました。お二人とも、明確に「はい、信じます」とお答えになりました。教会のメンバーに加わるということは、他のみんなが信じている信仰に同意をするということであります。自分の個人的な信仰を貫くことではありません。教会が昔から信じている信仰、それに同意をすることが極めて大切になります。

 それでは、日本基督教団信仰告白というのはどういう内容なのか。ある程度の長い文章でありますので、全部をご紹介する時間はありません。最初の部分だけをご紹介したいと思います。こういうふうに始まります。「我らは信じかつ告白す」。少し古い日本語であります。私たちは信じてこのように告白します、ということです。では何を信じ、告白するのかと言いますと、このように文章が続きます。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」。私たちが手にしている旧約聖書と新約聖書は、神の霊感によって成った、つまり、聖霊に導かれて出来上がったというのです。これが私たちの教会が信じている信仰告白の最初の部分です。まず初めに来るのは、聖書とはこういうものだということなのです。

 私たちの教会は、カトリック教会ではなく、プロテスタント教会です。今からおよそ五百年前に、宗教改革という出来事が起こりました。その最初のときに、改革者たちが盛んに口にしたのが、「聖書のみ」という言葉です。私たちの信仰の基準となるものは、聖書のみだということです。カトリック教会の教皇や、偉い人たちが基準になるというのではない。聖書は神の言葉である。救いについて、私たちに告げ知らせてくれる神からのメッセージである。だから、教皇や偉い人の言葉ではなく、聖書の言葉に聴かなければならない、聖書のみだ、改革者たちは、そう言ったのだと思います。「旧新約聖書は神の霊感によりて成り」ということを最初に告白しているのも、この宗教改革の伝統を受け継いでいるからです。

 もう今から十年以上も前のことになりますが、私が大学三年生だったとき、一ヶ月ほど、アメリカに短期留学をしたことがあります。大学というところは、夏休みが長く、一ヶ月半ほどもあった。その休みを利用して、アメリカのある大学に、短期留学をいたしました。短期といえども、一応、留学でありましたから、勉強をすることになります。午前中は英語の授業、午後は聖書の授業がありました。もちろん、キャンプに行ったり、ショッピングに行ったり、バーベキューをしたりと、そういうこともありましたけれども、基本的には勉強をたくさんさせられました。午後の聖書の授業でのこと。その先生が授業の最初のところで、学生たちにこう質問をしました。「聖書とは何か?」。これから聖書の授業をするにあたって、最初にそう問うたのです。学生たちはいろいろとその答えを考えました。けれどもその先生はこう言ったのです。「聖書は本である、しかし本ではない」。聖書は本であるが、本でない。当時、私はこれを聞いて、なんだか分かったような、分からなかったような気がいたしました。

 聖書は本であるが、本でない。これをほぼ同じ意味に言い換えますと、聖書は人間によって書かれたものであるが、しかし神によって書かれたものである、そう言い換えられると思います。さらに言い換えますと、聖書は人間の言葉でもあるが、神の言葉でもあると言うことも可能でしょう。聖書が神の言葉であるということは、日本基督教団の信仰告白の「神の霊感によりて成り」ということからも明らかですし、毎週の日曜日、多くの者が教会に集い、聖書から神の言葉を聴いています。かつてもそうでしたし、今もそうですし、将来もそうでありましょう。キリスト者は聖書を神の言葉として聴いています。ところが、聖書を読んでいますと、人間的な事柄もたくさん出てきます。例えば、使徒パウロがたくさんの手紙を書いていますが、だいたいの手紙の最後の部分は挨拶であります。内容としては、誰々によろしくだとか、誰々をこちらからそちらへ遣わしますとか、極めて個人的なことのように思えます。これを神の言葉と言えるのか。さらに言いますと、パウロはコリント教会に宛てて手紙を書いています。その手紙では、コリント教会で起こっている様々な問題を次々と指摘しています。そんなことが起こっているとは一体どういうことだと、パウロは厳しくコリント教会の教会員を非難するのです。まさかコリント教会の教会員も、自分たちの恥ずべき教会の姿が、聖書に載せられるとは思いもよらなかったでしょう。パウロのほうも、この手紙を記したときには、まさかこの手紙が聖書の一部分になるとは夢にも思わなかったでしょうし、自分の手で記した言わば人間の言葉が、神の言葉として読まれるとは考えもしなかったことだと思うのです。

 このことは、パウロに限らず、福音書を記したルカもそうだったでしょう。本日、私たちに与えられたのは、ルカによる福音書の冒頭の箇所であります。そして、松本東教会でしばらくの間、おそらく二、三年の間をかけてでありましょうけれども、このルカによる福音書から、神の言葉を少しずつ聴いて参りたいと思っております。ルカによる福音書は、その表題からして明らかなように、ルカという人物によって書かれたのではないかと考えられています。もちろんルカは人間であります。人間の手によって書かれた文章です。聖書の他の箇所で、何回かルカという人物の名が記されています。例えばこうです。「愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。」(コロサイ4:14)。こういうような記述から、ルカは医者であり、しかも使徒パウロの主治医だったのではないかと言われています。主治医として、伝道旅行に同行し、パウロをはじめとして先輩たちから、主イエスに関する様々な話を聴いたのかもしれません。もちろん、これは推測でありまして、確かな証拠があるというわけではありません。

 しかし一つ確かだと考えられるのは、ルカは主イエスのことを直接は知らなかった、主イエスのことを伝え聞いていたということです。そのことが、本日私たちに与えられた聖書の箇所に表れています。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」(1-2節)。「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」がまずいた。ルカはそうではありません。主イエスのことを直接は知らなかった。ルカは、主イエスのことを知っている第一世代の人々から、伝え聞いていた、いわば第二世代の人であることが分かります。その第二世代の人たちの多くが、今、物語を書き連ねようとしている。ルカもまた、その一人であります。

 ルカをはじめとして、なぜこの時代に多くの人たちが物語を書き連ねようとしていたのでしょうか。一体何の目的で、手紙を書こうとしていたのでありましょうか。ルカによる福音書が書かれたのは、80年代と言われています。主イエスが十字架にお架かりになり、復活されたのは30年代と言われていますから、主イエスがこの地上から天に挙げられて、50年の期間が経ったということになります。その50年の間は、もしかしたら、物語を書き連ねようという動きもあったかもしれませんが、あまりそういうことはなかった。むしろ、50年くらい経ってから、福音書が記されることになりました。なぜか。ちょっと想像してみると分かると思いますが、主イエスが天に挙げられてから、しばらくの間は、主イエスのことを直接知っている人たちが大勢いました。主イエスのことを知りたければ、直接その人たちから話を聞けばいい。その人たちは喜んで主イエスの話をしたでしょうし、何よりも伝道者たちでありましたから、方々で主イエスのことを伝え回って歩いていた。ところが、その者たちは亡くなってしまった。主イエスの弟子たちもそうでありますし、パウロもまたそうであります。直接、主イエスを知る者たちがいなくなってしまった。そこで、主イエスのことをやはり書き記す必要が生じたのです。今まで口で伝え聞いた通りに、物語を書き記そうと、多くの人が筆を執ったのであります。

 ルカもその一人であります。マタイ、マルコ、ヨハネと並んで、福音書を記した一人です。ルカは「物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」と言っています。多くの人とは、一体どれくらいの人がいたのかは分かりませんが、結局、福音書として、聖書に記されることになったのは、四つの福音書でありました。聖書の中に、福音書が四つもある。もしかすると、このことは不思議なことと思われるかもしれません。福音書が四つも必要なのか。もしまとめることができれば、一つにまとめてしまった方が、よいのではないか。そう考えられなくもありません。実は、そのようなことが試みられたことがありました。しかし失敗しました。どうしてもうまくいかないのです。四つの福音書、どうしても一つにまとめることができないのです。

 教会の歩みが始まって間もない頃、二世紀頃の話でありますが、教会の指導者であったエイレナイオスという人物が、なぜ福音書が四つなのかということを、このように言っています。「世界の方角が四つである。だから福音書は四つでよい」。世界の方角、つまり東西南北の四つの方向がある。だから福音書は四つであり、それ以上でもそれ以下でもないと言うのです。私たちがこれを聴きますと、いくらなんでもそれはこじつけではないかと言いたくもなります。しかし、ある意味で、それは真理を言い当てているのかもしれません。どういうことかと言いますと、四つの福音書はそれぞれの方角から、つまり四つの違った角度から、一つのことを捉えている、ということです。その中心にあるのは、イエス・キリストであり、それを違う角度から見ているのです。だから、四つの福音書をまとめようとしてもうまくいかない。そもそも違う角度から、主イエスを見ているのですから、それを一つの角度からの視点として、まとめようとしてもうまくいくはずはないのです。

 ルカはどのような角度から見ていたのか。3節にこうあります。「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」(3節)。順序正しく書きたいというのが、ルカの願いです。順序正しくという言葉は、もとの言葉では、出来事の跡をたどるというニュアンスがあります。ルカには書き記したいと思っている物語があった。それはイエス・キリストの出来事であり、その出来事をなぞるように、できるだけ正確に伝えたいと思った。特にルカは、世界の歴史の中で起こった救いの出来事として描いています。例えば、今日はお読みしませんでしたけれども、5節では「ユダヤの王ヘロデの時代」というように、この出来事がいつ起こったのか記すことを忘れません。主イエスがお生まれになったのもそうです。「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(2:1)。主イエスがお生まれになったその出来事はいつのことだったのかを、きちんと記していくのであります。このように、ルカが伝えたいと思っている出来事の跡をたどるようにして記していくこと、これが順序正しくということなのであります。それがルカによる福音書の特色であり、中心におられるイエス・キリストというお方を見る角度であります。

 そこで問題となってくるのは、テオフィロという人物は誰なのかということです。「敬愛するテオフィロさま」(3節)、ルカはそのように呼びかけます。今の時代でもそうですが、本を出版するにはお金がかかります。当時は、パピルスという今日でいう紙のようなものに、手作業で文字を書いていくことになります。ルカが「わたしもすべての事を初めから詳しく調べています」(3節)と言っているように、本を書くために、かなりの時間をかけて下調べをしたのではないかと思います。本を書き始める前も、もちろん本を書いている間も、執筆者であるルカの生活が保障されなければなりません。テオフィロという人物は、ルカが本を書くためのスポンサーだったのではないかと考えられます。

 もちろんこれは推測にすぎません。テオフィロさま、「様」という呼び方がなされているように、ある程度の地位の高い人だったと思われます。かつての口語訳聖書では「テオピロ閣下」と言われていました。そこでローマ帝国の政治家たちのリストを調べても、テオフィロという名前は出て来ない。けれども、ルカの頭の中にあったのは、やはりテオフィロという人物だったでしょう。すでに洗礼を受けていたのか、いなかったのかも定かではありません。いずれにせよ、ルカはこのテオフィロという人物に対して、自分が記した書物を読んでもらい、信仰を深めてもらいたい、そのことを第一の目的としました。もちろんテオフィロという人物の周りにいる者たちのことも意識していたかもしれません。テオフィロだけでなく、より広い読者を想定していたかもしれません。しかし、ルカもまた、先ほどのパウロと同じように、まさか自分が書いたものが聖書に載せられることになり、二千年も後に生きた者たちによって読まれるなどとは、夢にも思っていなかったことでしょう。

 ここに聖書が人間の言葉でありながらも、神の言葉である答えがあります。聖書は、時代とともに廃れていく、単なる本ではないのです。ルカによる福音書も、他の福音書も、聖書に記されている多くの手紙も、教会で愛され、親しまれ、喜んで読まれてきました。それも神の言葉として、礼拝の中で読まれてきたのです。それは、今を生きる者たち、自分たちに宛てられて書かれた手紙であると、教会の人々はずっと信じてきたからです。「テオフィロ」という名前が、そのことをよくあらわしているかもしれません。テオフィロという名前、この名前は「神を愛する者」という意味です。テオフィロさま、という呼びかけは、「神を愛するあなた様」ということにもなります。いつの時代であっても、神を愛する者たちへ、神からの呼びかけとなった。そして、今を生きる私たちへの呼びかけにもなるのです。二千年前に、ルカが想定したテオフィロという人物をさらに超えて、今を生きる私たちが「テオフィロさま」になった。人間によって書かれた言葉でありながらも、私たちに対する神の言葉になった。この事実こそ、日本基督教団の信仰告白にあるように、「聖書は神の霊感によりて成り」ということです。ルカという人物によって書かれたかもしれないけれども、ルカという人物が神によって用いられた。本当の作者は聖霊なのです。聖霊によって書かれたものであるからこそ、今を生きる私たちにとっても、単なる人間の言葉ではない、神の言葉になるのであります。

 聖書を通じて、テオフィロさまだけではない、今を生きる私たちが聴くことができること、それは何か。いろいろなメッセージを挙げることができるかもしれません。主イエスのことであったり、神の愛であったり、隣人愛の教えであったり、いろいろなメッセージが聖書に詰まっています。しかし、これらすべてを貫く、一つのメッセージがあるということもまた事実です。それは、ルカが最初に記しているように、「わたしたちの間で実現した事柄」(1節)であります。それは主イエス・キリストの十字架と復活の物語であり、その物語は同時に、私たちの救いの物語でもあるのです。聖書が神の言葉として、私たちに伝えていることは、ただその一つだけである、と言っても差し支えないほどです。

 かつて、私が不思議に思ったことがあります。教会に集まってくる人たちは、礼拝の中で説教を聴く。しかし結局のところ、毎週、同じ話を聴き続けているのではないか。よく飽きないものだ。そう不思議に思ったことがあります。たしかにその通りです。説教者として立てられている私も、考えてみますと、結局は主イエス・キリストの十字架と復活の話しかしてないことに気付かされる。いろいろな聖書の箇所があり、いろいろな語り口があるかもしれない。しかし行き着く先は、主イエス・キリストの十字架であり、復活であるのです。

 先程、四つの福音書があり、それぞれが別の角度から、中心にある一つの出来事を見ていると申し上げました。四つの福音書とも、それぞれに特色があります。その福音書だけにしかない話もあります。けれども、その中心にあるのは、主イエス・キリストの十字架であり、復活であるのです。どの福音書も、十字架と復活に向かって、物語が記されている。このことこそ、いつの時代であっても、教会に生きる人々が、神の言葉として聴いてきたことです。人間の罪のために、十字架にお架かり、お甦りになった主イエス・キリストの出来事を、自分たち救いの物語として、教会はたえず新たにその物語を聴いてきた。決して飽きることなく、毎週、その物語を聴き続けてきたのです。

 私たちもまた、この物語を聴き続けたい。今日、私たちに神から新たに語りかける言葉として聴きたい。もちろん今日もそうでありました。そしてこれから毎週、少しずつ、ルカによる福音書から、私たちの救いの物語を聴いて参りたいと思います。この物語こそが、私たちの間で実現した事柄。ルカと一緒に、テオフィロさまと一緒に、神を愛する者として、聴いて参りたいのです。