松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年10月4日(日)
説教題「見えない者は見え、見える者は見えなくなる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第9章35〜41節

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

旧約聖書: イザヤ書43:8~15

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書第九章の最後の箇所です。先週は逝去者記念礼拝であり、ヨハネによる福音書以外の箇所から御言葉を聴きました。二週間ぶりに戻ってきたわけですが、第九章は全体で一つの話になっています。

少し思い出していただきたいと思いますが、第九章ではまず主イエスによって、生まれてからずっと目が見えなかった人の目が開かれるという奇跡によって、話が始まりました。そして様々な展開をしていきます。

第九章を少し振り返りたいと思います。一節から七節までは奇跡そのものが起こります。主イエスからシロアムの池に行って洗いなさいと言われて、その通りにすると目が見えるようになります。主イエスはこのとき以降、どこかに行かれてしまわれます。八節から一二節までが、近所の人々がこの人の癒しをめぐってあれこれと話をしている場面です。目が見えるようになったというが、本当に本人だろうか。本人がその通りだと言います。

そうすると今度はファリサイ派のところにこの人が連れて行かれます。そこでファリサイ派の人たちとこの目が見えるようになった人との間でやり取りが行われます。それが一三節から一七節までです。一八節から二三節は、この人の両親が呼び出されて、いろいろと問い詰められます。そして二四節から三四節は、目が見えるようになった人がもう一度呼び出されて、尋問がなされ、その結果、追い出されてしまうわけです。

今日の聖書箇所の三五節から三九節までのところで、主イエスが再び登場されます。主イエスとこの目が開かれた人との間で、一対一の対話がなされます。そして最後の四〇節と四一節が主イエスとファリサイ派の人たちとの間でなされた対話です。このように入れ代わり立ち代わり、いろいろな人たちが出てきて、対話がなされます。主イエスは最初と最後のところだけに出てくる。このように話が流れていくのです。

この第九章全体で、分かってくることがあります。この目が見えるようになった人が、どのように信仰へと導かれていったのか、その経過がよく分かります。初代教会のリーダーであったテルトゥリアヌスという人はこのように言いました。「私たちは生まれながらにキリスト者なのではなく、キリスト者になるのである」。キリスト者は生まれたときにキリスト者だったわけではありません。人によっていろいろな導かれ方があり、キリスト者になるのです。そしてこの人もまたキリストを信じる者になるように導かれた。私たちも同じであります。

主イエスは私たちの信仰の導きをしてくださる方です。そのことが本日、私たちに与えられた第九章の終わりの聖書の箇所に記されています。主イエスは今まで姿を消されていたようなところがありましたが、今日の箇所で再び現れてくださり、それが決定的な出会いとなりました。

三五節にこうあります。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。」(三五節)。「出会う」という言葉が用いられています。「出会う」と言うと、二人の人がお互いに出会うようなイメージを受けますが、この言葉は「見いだす」「見つける」とも訳せます。

「見つける」というとだいぶイメージが違います。主イエスが見失った羊の譬えを話されました。いなくなった一匹の羊をどこまでも捜し出し、ついに「見つける」という話です。主イエスがこの目が見えるようになった人に出会ってくださった。つまり主イエスが見つけてくださった、見いだしてくださった、そんな意味の言葉です。

同じ三五節に「外に追い出された」とも記されています。この言葉は、先々週の聖書箇所になりますが、三四節にもあります。「彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。」(九・三四)。彼らとはファリサイ派のユダヤ人たちのことですけれども、この人たちが彼を会堂の外に追い出したということです。

しかしこれはただ単に会堂から外に放り出した、そういうことを意味しているのではありません。少し前の二二節にこうあります。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」(九・二二)。このような取り決めがユダヤ人たちの間でなされていたようです。主イエスを信じる者があれば、自分たちの仲間から追い出す。まさにそのことが、この目が見えるようになった人に対してもなされたのです。

ある牧師がこの人は「村八分」にされたと言いました。村八分というのは、日本の言葉です。ある人を除け者にする。しかし除け者にするといっても、十個のうち八個のことについて、除け者にするということです。残りの二個の一つは火事です。除け者にされている家が火事になった。他の家に延焼しては困りますので、そのときには助ける。もう一つは葬式です。死んだら水に流すという考えからでしょうか。死んだときの葬式は協力してやる。しかし他の八個のことはかかわりを持たない。除け者にする。それが村八分という意味です。

この人が会堂を追い出されたことが「村八分」を意味するのかどうかはよく分かりません。ある人は「村八分」以上に除け者にされたと言っています。その場合は、村九分あるいは村十分と言った方がよいかもしれません。主イエスを信じる、あの方は神のもとから来られた方だ、この人はそのように答えただけです。目が見えるようになって、幸せに歩むはずでしたが、そのようになってしまった。

しかしそうなったところに、主イエスがそのことを聞きつけ、訪ねてきてくださいました。出会ってくださった、いや、見いだしてくださったのであります。この目が見えるようになった人にも両親がいました。しかし両親もユダヤ人たちを恐れるあまり、この人を突き放すようなところがありました。当時の権威者であったファリサイ派たちの人ももちろんそうです。両親も権威者も、この人を救うことができなかった。村八分にされたところに、主イエスが出会ってくださったのです。もっと早く出会ってくださればよいのに、と私たちは思うかもしれません。しかし何もなくなったところに、主イエスは出会ってくださるのです。

主イエスがこの人に出会ってくださり、「あなたは人の子を信じるか」(三五節)と言われます。「人の子」というのは、主イエスがご自分を指して使われる言葉でありますが、旧約聖書に救い主を表すような言葉として使われることもあります。

特にここでは、元の言葉のニュアンスとして、「あなた」という言葉が強調されています。周りの人がどう言うかではなく、あなたは信じるのか、そのことが強調されているのです。主イエスもあるとき弟子たちに対して、まず「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ一六・一三)とお尋ねになります。弟子たちはそれぞれに「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」(マタイ一六・一四)と言われます。

それに続き主イエスが問われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ一六・一五)。人々はいろいろなことを言っているかもしれないが、それではあなたがたはどうなのか。あなたはどう言うのか。弟子たちにそのように問われたように、ここでも主イエスはこの人に対してそう問うておられるのです。

「人の子」と言われてはっきり分からなかったところがあったのでしょう。続く三六節、三七節のやり取りが続いていきます。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(三六節)。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(三七節)。

「あなたは、もうその人を見ている」、これは完了形です。もう見ているのです。かつての口語訳聖書では「あなたは、もうその人に会っている」と訳されていました。英語で“see”という言葉は、見るとも訳せますし、会うとも訳せます。この言葉も同じでありまして、この人が単に主イエスのことを目が見えるようになって見ている、それだけではなく、もう主イエスに会っている、見出されて出会っている。そのことが完了している。主イエスはそう言われているのです。

「主よ、信じます。」(三八節)。この人はこう答えます。これは信仰告白の言葉です。このような告白へと導かれたのです。三八節に「ひざまずくと」とあります。この言葉は礼拝するとも訳せる言葉です。私たちの礼拝はひざまずくことである、そう言うこともできるのです。

カトリック教会などに行きますと、礼拝堂の座席の前の部分に台があります。これは足を乗せるための台ではなく、ひざまずくための台です。祈りの時、あるいは教会によっては聖餐に与るときに、形もひざまずくことがあります。私たちの教会ではそのような形は取っていませんが、心はそうなのです。神を神として礼拝することは、ひざまずくことであります。この人は信仰の告白の言葉とともに、そのような姿勢へと導かれた。第九章全体のすべてのことを経て、信仰者へと導かれたのです。

三九節で主イエスは言われます。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(三九節)。裁く、裁きという言葉は、ヨハネによる福音書でたくさん使われています。その使われ方にもいろいろな意味を考えることができますが、ここでの「裁く」という言葉は「区別される」という意味に取ることができます。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」、つまり「わたしがこの世に来たのは、『区別される』ためである」ということになります。

どういうことでしょうか。裁きというのは、そもそも良し悪しを判断することです。白黒をはっきりとつけることです。裁きの結果、区別もはっきりする。有罪なのか無罪なのか、そのこともはっきりするのです。

それでは主イエスが来られるということは、主イエスによって裁きがなされるということなのか。しかしここで言われているのは、それとは少し違うことです。むしろ私たちの側の問題だと言えます。主イエスは今日の箇所で「あなたは人の子を信じるか」(三五節)と問われます。私たちはそれにイエスかノーかで答えなければなりません。答えるからには信じるのか、信じないのか、その区別がはっきりとするのです。

今日はこの後、聖餐を祝います。聖餐は、すでに洗礼を受けておられる方、幼児洗礼を受けて信仰告白式を終わっている方ならば誰でも与ることができます。しかし受けておられない方は、今日は聖餐に与ることができません。一日も早く洗礼を受けていただき、共に聖餐に与っていただきたいと思います。

聖餐はこの区別がはっきりと現れるところでもあります。夫婦が揃って座っていたとしても、普段はその区別がまったくつかなかったとしても、洗礼を受けている、受けていないで、聖餐のときにその区別がはっきりと現れます。こういう区別や差別を教会でするのはよろしくないのではないか、初めて来られた方が聖餐に与れずに躓いてしまったらどうしよう、そういう人間的な心配のあまり、この区別を薄めたり無くしてしまったりすることが、なされてしまうことがあります。

しかし聖餐は形ばかりの飲食ではありません。パンと杯に与ることによって、主イエス・キリストが私の罪のために十字架にお架かりになってくださったことを、体で味わうのです。そのことを信じて与らなければ、ただの飲食で終わってしまうことでしょう。

このように聖餐は、現時点での区別が明確に現れるところです。今日は与ることができない方は、「主よ、信じます」、この人のように信仰を言い表し、洗礼を受けて、一日でも聖餐の食卓を共にしていただきたいと思います。

最後の四〇節から四一節にかけて、主イエスとファリサイ派の人々とのやり取りがなされています。まずファリサイ派の人々が「我々も見えないということか」(四〇節)と言います。これは反語という形式の言い方です。反語とは、その言葉の意味とは反対の意味を持たせることです。「見えないということか」と言っているからには、裏には「我々は見えるのだ」という意味を持たせているということです。

ある聖書学者がこのように翻訳しています。「まさかこのわれわれも目が見えないとおっしゃるのではないでしょうね」。ファリサイ派の人々は、心の中では「自分たちは見えるのだ」と言っているのです。主イエスはその心の中を見抜かれた。四一節で「今、『見える』とあなたたちは言っている」と言われている通りです。

ファリサイ派の人々は、自分たちが正しいのだ、見える者なのだと思い込んでいました。私たちの世の中においてもそうです。たくさんのファリサイ派がいます。自分は正しい、あの人たちが間違っているのだと思いこむ。あるいはそこまで強く思わなくても、自分は少なくともあの人たちよりもまともに正しく間違いなく生きている、そう思っています。まともに生きていない人たちのニュースを聞くと、自分の方が少しはましだと思って、変な安心感を得てしまう。自分は正しいのだ、自分の目は開かれているのだ、そう思い込んでしまうのです。

ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉は、もともとは「分離」「区別」を意味する言葉でした。自分たちがそう名乗ったのではなく、最初は周りの人たちからそう呼ばれたらしいのです。あの人たちはファリサイ派だ、そう言われたら、あの人たちは分離主義者だ、周りの人とは違うのだ、そういう人たちなのです。罪や汚れから離れて、きよい生活をしている。周りからそう評価され、自分たちもそう思い込んでいるところがありました。だからファリサイ派と自らをそう呼ぶようになったのです。

しかし主イエスのファリサイ派への批判は痛烈なところがあります。表面、うわべだけは整っているかもしれないが、実際の内側はそうではない。そしてもっと悪いことに、うわべを整えられない人たちを裁いてしまう。ここでのファリサイ派の人たちもそうです。自分たちは目が見えるのだ、生まれつき目が見えなかった人とは違うのだ、そうですよね。そういう主張がここには表れているのです。

主イエスは「だから、あなたたちの罪は残る」(四一節)と言われます。ここでの罪は単数形です。たった一つの罪です。主イエスを見た、しかし信じない。そのファリサイ派の人々の罪のことを言われているのです。

四〇節と四一節は、主イエスとファリサイ派の人々との緊張関係がよく表れています。しかしヨハネによる福音書の書かれた状況を考えますと、ヨハネによる福音書が書かれたときの緊張関係の方がどうやら強かったようです。ヨハネの教会の人たちは、主イエスを信じる人たちでした。多くがユダヤ人だったのだと思います。村八分にされる、追い出される。どこにも行き場がなくなる。そんな状況の人たちが多かった。

しかしこの人たちはキリストの教会に生きたのです。追い出された人たちのところへ、主イエスが訪ねて来てくださり、見いだしてくださり、出会ってくださった。そして主イエスを信じ、教会に生きる者になった。教会に集う者たちは、皆、このように自覚していました。かつての自分は見えない者であった。しかし信仰のまなざしを開かれて、今、救い主を信じている。そのような状況が、今の私たちの時代の状況でもあるのです。