松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年9月20日(日)
説教題「確信に生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第9章24〜34節

さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

旧約聖書: サムエル記上17:31~54

聖書には四つの福音書があります。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書もそうです。福音書というのは、福音の書物ということです。福音が書かれている。福音とは、よき知らせという意味です。いったい何がよき知らせなのでしょうか。

そう考えて福音書を読んでいますと、イエス・キリストのことが書かれています。初めて読んだ方にとっては、イエス・キリストの伝記ではないかと思うかもしれません。もちろんただの伝記ではないのですが、このお方があなたの救い主だということを告げている。あなたはこの方によって救われるということが書かれている。それが福音なのです。

福音書は、余計なことがほとんど、いやまったくと言ってよいほど、書かれていません。四つの福音書の中で、主イエスがお生まれになるクリスマスの話を書いているのは二つだけです。少年時代のことを書いているのは一つだけです。大人になり、人々の前に姿を現し、公の生涯が始まったのは三〇歳くらいではないかと言われています。そこからの話はいろいろなことが記されています。しかし中心となるのは十字架です。主イエスが人間の罪を背負って十字架にお架かりになり、復活されたことです。

ヨハネによる福音書ももちろんそうです。最後のところで、この福音書が書かれた目的がこのように記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(二〇・三一)。主イエスがあなたを救うために、この福音書に記されていることをしてくださったのだ。それが福音、よき知らせだと言うのです。このように福音書は徹底的にイエス・キリストにこだわっています。私たちの救いにとって、とりわけ大事だからです。

私たちは最近、ヨハネによる福音書の第九章から御言葉を聴き続けています。第九章の最初のところで、主イエスが奇跡をなさいます。この奇跡をどのように受けとめればよいでしょうか。こんな奇跡を行った、すごい、だから主イエスを信じましょう、というわけではありません。

むしろこの奇跡によって大事なことが分かった。三二~三三節にこうあります。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(三二~三三節)。この目が見えるようになった人が言っている通り、だからこそ救いが起こった。この人もまた主イエスに対して徹底的にこだわった人なのです。

主イエスにこだわる一つの表れとして、主イエスを何とお呼びするかということがあります。私たちは主イエスのことを何とお呼びしているでしょうか。私は今、「主イエス」というように申し上げています。名前は「イエス」です。もちろんそのままで「イエス」という呼び方もあるでしょう。英語だと“Jesus”です。アメリカ人は“Jesus”というように、いわば呼び捨てで呼ぶわけですが、英語で“Jesus”と呼ぶのと、日本語で「イエス」と呼ぶのは、少し感じが違うかもしれません。

果たして主イエスのことを「イエス」と呼び捨てで読んでよいのか。その意味で、「主」という言葉を付けて、「主イエス」とお呼びする。あるいは子どもたちがそう呼ぶように「イエスさま」とお呼びする。呼び捨てにしないというのは、信仰的にふさわしい呼び方であると私は思います。

「イエス・キリスト」という呼び方もあります。「キリスト」は救い主という意味なので、イエスというお方は救い主である、という呼び方です。これもふさわしい呼び方だと言うことができるでしょう。

ここに出てくる主イエスの奇跡によって目を開いていただいた人は、主イエスのことを何と呼んでいるでしょうか。今日の聖書箇所で、この人が主イエスのことを「あの方」と呼んでいます。全部で五回も出てきます。最初は二五節です。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(二五節)。

続けては二七節です。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(二七節)。三〇節には二回出てきます。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。」(三〇節)。最後は三三節です。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(三三節)。この人は主イエスのことを何度も「あの方」と呼んでいるのです。

五つの箇所で、日本語の聖書ではこのように「あの方」と訳されています。しかし元のギリシア語の言葉では、全部が同じ言葉というわけではありません。直訳するとなると、「この人」「彼」「その人間」「この者」というように、それぞれ区別して訳さなければならないのかもしれません。直訳することにこだわる聖書学者などは、「この人」「彼」というように訳すのですが、少々違和感を覚える翻訳ということになってしまいます。

しかし私はこの日本語の翻訳の仕方に、私たちの信仰の姿勢が表れていると思います。実はもともとのギリシア語の聖書では、「彼」という言葉がかなり使われています。例えば、主イエスが何かを言われる場面では、「彼は言った」というように記されています。しかし新共同訳聖書では、主イエスに対しては「彼」ではなく、「イエスは言われた」というように訳す。「彼」を「イエス」にし、しかも尊敬語を用いる。こういうところにも、信仰の姿勢が表れているのです。

この目を開いていただいた人は、「あの方」と呼びました。今日の聖書箇所には、ユダヤ人たちが出てきます。この人のことを問い詰めているユダヤ人たちですが、このユダヤ人たちは主イエスのことを、四回にわたって「あの者」と言っています。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」(二四節)。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」(二六節)。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」(二八~二九節)。

目を開いていただいた人は「あの方」と呼ぶ。ユダヤ人たちは「あの者」と呼ぶ。そこに信仰の姿勢が表れている。そして「あの方」「あの者」、つまり主イエスをめぐって、徹底的にその話だけをしている。それが、本日、私たちに与えられた聖書箇所の内容です。

「あの方」「あの者」というやり取りの中で、三〇節のところで、目を開いていただいた人は言っています。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。」(三〇節)。実に不思議です、これは少し柔らかすぎる訳かもしれません。新改訳聖書では、「これは驚きました」と最初に言っています。皮肉ではなく、心底驚いているのです。

いったい何に対して驚いているのでしょうか。前の二九節にこうあります。「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」(二九節)。どこから来たのか、そのことを知らないと言うのです。今日の聖書箇所の後半部分は、主イエスがどこから来られたのか、その由来をめぐる論争ということになります。

主イエスがどこから来られたのか。これは些細なことではありません。私たちの信仰を基礎づけるものであります。主イエスは父なる神のもとから来られた。洗礼を志している者たちと、受洗の学びを続けています。使徒信条を学びます。私たち教会が何を信じているのか、その信仰の内容を短く言い表している言葉が、使徒信条なのです。

その使徒信条を学んでいる際に、人によりけりですが、引っかかる部分というのも出てくるものです。例えば、主イエスの処女降誕や復活などというところが挙げられるでしょう。そういうようなときに、私が申し上げるのはこういうことです。私たち教会は、処女降誕とか復活とか、そういう現象のことを信じているのではない。そうではなく、全能の父なる神が、いわば自然法則を超えてまで、主イエスを送ってくださった。私たちを救うために、父なる神が主イエスを遣わしてくださったのだ。そのことを申し上げています。

特にヨハネによる福音書は、このことを強調している福音書です。最初のところの第一章一八節にこうあります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(一・一八)。この箇所では、神を見た者は誰もいない、そうはっきり言います。それではどう神を知ることができるのか。どのようにしたら信じることができるのか。独り子である主イエスが遣わされて、主イエスによって私たちは神が分かる。信じることができる。神など分からない、そう嘆いていた私たちのところに、主イエスが来てくださったのです。

この目を開いていただいた人は、主イエスご自身からの奇跡を通して、大切なことを知ったのです。三二~三三節を改めてお読みいたします。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(三二~三三節)。この人はこの奇跡によって、主イエスが父なる神のもとから来られたことを知ったのです。

この人はそのことを知り、確信に生きることができました。確信をもって、ユダヤ人たちに立ち向かいました。ユダヤ人たちこの人を執拗に問い詰めています。最後は追い出してまでいます。私たちも多かれ少なかれ、同じような経験をしたことがあるかもしれません。しかしこの人は弱気になりませんでした。むしろ確信を持ちました。その確信とは何でしょうか。自分に対する確信ではありません。全部で五回も「あの方」と言っている通り、主イエスに対する確信です。

私たちの信仰も、ここに大事な点を見いだすことができます。信仰とは、自分が強くなることではありません。自分が強くなって、もはや神など不要になる、そういうことではないのです。この人は確信に生きる強さがあった。何らかの強さがあった。それは確かです。しかしその強さがどこから来ているのか。「あの方」から来たのです。この人は「あの方」の話ばかりをしました。自分に対する自信は一言も言っていません。

私たちも、自分を信じている限り、確信を持つことはできません。自分でなくとも、誰か他の人間を絶対だと思って信じている限り、確信を持つことはできません。たとえ自分が弱かったとしても、あの方が強くいてくださる。それが私たちの信仰であり、キリスト者の確信なのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所にも、自分に対する自信ではなく、神を信じる確信に立っている話が記されています。やがて王になるダビデが、まだ少年だった頃の話です。イスラエルはペリシテ人と戦っていました。ダビデの兄たちはその戦争に行っていました。弟のダビデが兄たちのところにお使いに行ったときに、ゴリアトというペリシテの勇士が、イスラエルに対して一騎打ちをするように、わめきたてていました。

それを聞いた少年ダビデは、サウル王に自分が一騎打ちに行くと申し出ます。ダビデは少年、ゴリアトは大男です。ダビデは武具を何も身に着けていません。ゴリアトは重装備です。普通に考えれば勝ち目はまったくありません。

しかしダビデは戦いの際にゴリアトに言うのです。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」(サムエル記上一七・四五)。ダビデが戦いに優れた力を持っていたからではありません。強い武具を身に着けていたからでもありません。自分に対する確信は何一つ持っていませんでした。しかし神に対する確信を持っていたのです。

ヨハネによる福音書に出てくるこの人もまた、当時、力を持っていた権力者に、まるでゴリアトに立ち向かうように立ち向かいました。自分の力によってではありません。神に対し、主イエスに対する確信をもって、立ち向かったのです。

この説教の後で、讃美歌四六一番を歌います。「主われを愛す」、有名な讃美歌です。この讃美歌は、日本で歌われた最も古い讃美歌の一つです。明治の初めに、宣教師たちが来日して、日本のプロテスタント教会の歩みが始まりました。その最初期のことです。明治五年に、宣教師たちの会議がなされました。そろそろ日本語の讃美歌があってもよいのではないか。そのことが話し合われて、ジェームス・バラという宣教師が、「主われを愛す」の日本語の試訳を出しました。しかしどうやら最初のその試訳は、あまりしっくりこなかったようです。

一年後、おそらく日本人の手も加えられたのだと思いますが、改訂されたものが出されます。こういう歌詞になりました。「耶蘇(やそ)われを愛す 左様(さよう)聖書申す。帰(き)すれは子等(こたち)、よわいもつよい。はい耶蘇愛す、はい耶蘇愛す、はい耶蘇愛す、左様聖書申す」。今の私たちが讃美している歌詞と、同じような言葉になったのです。

この歌詞の中に、「よわいもつよい」とあります。弱いけれども強いということです。矛盾するような言葉ですが、今の讃美歌の歌詞ではこうなっています。「主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。私は弱くても、主が強くいてくださるので、恐れることはない、ということです。

この讃美歌の歌詞は、私たちの信仰の神髄を表しています。自分に対する自信は持つことはできない。その意味で強くはない。だが「あの方」、主イエスに対する確信を持つことができる。そういう強さがあるのです。主イエスが十字架にお架かりになり、罪を赦してくださった。そして罪赦された者としての生き方を示してくださった。たとえわれは揺らいでも、弱くても、恐れはあらじ。なぜなら主イエスが強くいて、私たちを支えてくださるからです。