松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年9月6日(日)
説教題「筋の通った生き方」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第9章13〜17節

人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

旧約聖書: 詩編86:5~13

ヨハネによる福音書の第九章に入り、今回で三回目の説教となりました。一回目と二回目は一~一二節の箇所から御言葉を聴きました。今日からその次に進みます。本日、私たちに与えられた聖書箇所は、一三~一七節になります。

生まれつき目の見えなかった人の目が開かれるという奇跡がなされました。その奇跡をめぐって、人々の間ですでに意見が分かれていました。今日もその続きの内容です。目が見えるようになった人のことを、人々はファリサイ派の人たちのところへと連れて行きました。「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。」(一三節)。主イエスは不在の中、ファリサイ派の人たちも含めて、いろいろな人が主イエスについてあれこれと言うのです。

今日の聖書箇所で、一つの新たな情報が加えられました。「イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。」(一四節)。主イエスが癒しを行ったこの日は、安息日だったということです。

安息日とは何でしょうか。安息の日という字の通りとも言えます。ユダヤ人にとっては土曜日になります。神が天地万物を造られて、すべてをよしとされ、土曜日に休まれた。ユダヤ人たちもそれにならって、土曜日を安息日として大事にしていました。表面的にはすべての働きを止めて、休んでいると言ってもよいでしょう。

この安息日が定められたときのことが、旧約聖書に記されています。その中の一つの箇所である申命記には、こうあります。

「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記五・一二~一五)。

ここに記されているように、安息日には家の人たちすべてを休ませなければなりません。そして安息日の本当の意味は、単に休むことにあるのではありません。そうではなくて、安息日にすべての仕事の手を止めて、日常生活から離れて、神がどのようなお方であるのか、神が私たちに何をしてくださったのか、そのことを思い起こすための日であるのです。

私たちキリスト者にとって、安息日は土曜日ではなくて日曜日になりました。この日、イエス・キリストがお甦りになられたからです。死の力に打ち勝って、復活をしてくださった。そのことを記念して、教会の人たちは二千年前から日曜日に礼拝をし続けてきました。

日々の歩みの中で、神を忘れ、いくらでも逸れて曲がってしまう私たちの歩みです。その生活の中に、特別日を設ける。曲がった自分をまっすぐにするための日、自分の原点に戻る日。それが安息日なのです。

主イエスはこの安息日のことに関して、表面的なことだけで非難されることになります。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(一六節)。主イエスがこの目が見えなかった人を癒した癒し方が、六節のところに記されています。「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」(九・六)。癒しをするために、ずいぶんいろいろなことをしています。この癒し方が、労働にあたるとみなされてしまったのです。

新約聖書の福音書には、安息日において行われた癒しは、実はけっこう多くあります。ヨハネによる福音書の第五章冒頭に記されている癒しも、安息日になされたものでした。ベトザタの池で三八年間も病気で苦しんでいる人が、主イエスによって癒され、床を担いで歩きだしました。それも安息日になされたことであり、癒された人が床を担いで歩いたことも、主イエスが安息日に癒しをしたことも、この後で問題になっています。

この三八年も苦しんでいた人を癒した癒しをめぐって、いろいろなやり取りがなされた後で、主イエスは言われます。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(七・二一~二四)。

そもそもなぜ主イエスは、安息日に癒しをされたのでしょうか。主イエスの意図がよく分かる聖書箇所を、お読みしたいと思います。これも安息日になされた癒しの出来事です。

「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」(ルカ一三・一〇~一七)。

主イエスはこの女を束縛から解いてやりました。この女の命にかかわることであると見なしておられるのです。だから安息日であっても、束縛から解いてやりました。

安息日の規定で、確かに休んで何もしてはならないのですが、命にかかわるようなことはしてもよいと定められています。いわば例外規定です。ルカによる福音書の箇所でも「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」(ルカ一三・一五)と言われている通りです。家畜だけでなく、例えば自分の子どもが溺れかかっているのを、走って、水に飛び込み、泳いで、助けに行く。これもいわば労働かもしれませんが、例外としてもちろん許されているのです。

主イエスは私たち人間のことをどう見ておられたか。ルカによる福音書の会堂長は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」(ルカ一三・一四)と言っています。呑気に考えていると言ってよいでしょう。まあ、今日は駄目でも、明日か明後日にでも癒してもらえばよい、そう思ってしまうのです。しかし主イエスは、そんな呑気には考えておられない。私たちが考える以上に、人間の状態をもっと深刻に見ておられたのです。

私たちの生き方はどうでしょうか。自分で自分のことを呑気に考えているでしょうか。それとも救っていただかなければならないくらいに自分は病んでいる、そう深刻に考えているでしょうか。何かに束縛されているというようなことはないでしょうか。世の中には、多くの事件や事故が起こります。何か悪いものに取りつかれたとしか言いいようのない出来事です。

私たち人間のことを言い当てている言葉として、聖書にこんな言葉があります。「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」(コヘレトの言葉七・二九)。本来の人間はまっすぐでシンプルなはずなのに、人間はどうも複雑な考え方をしたがる。複雑な生き方をしたがる。そう言っているのです。

いったいどういうところが複雑なのでしょうか。例えばこのように考えることができます。私たちは一方で他人をよく裁きます。あの人はなんでこうなのか、そう思い、ある基準を相手に当てはめて裁きます。ところがその同じ基準を自分に当てはめようとはしない。自分に対してはもっと緩い基準を当てはめます。そうなると二つの基準を持つことになってしまいます。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、ファリサイ派の人たちの様子が記されています。「ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。」(一六節)。ファリサイ派の人たちも、皆が同じ意見になったというわけではありません。揺れ動いている。この人とあの人との意見が違う。同じ人の中でも、いったいどう考えたらよいのか。揺れ動いていたと思います。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の詩編第八六篇でも、同じことが言えるでしょう。この詩編を書いた詩人は、複雑な心を持っている、そのことを自覚していた人でした。

詩編には、いろいろなジャンルがあります。感謝とか、讃美とか、悔い改めとか、巡礼歌とか、いろいろな分類ができます。この詩編第八六編は、個人の嘆きの歌として一応分類することができます。例えば六節にこうあります。「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。」(八六・六)。具体的にどんな嘆くべきことがあったのかは分かりません。しかしそこから抜け出し、感謝もしています。

そのようなことを体験した上で、詩人が祈り願うことが、一一節に記されています。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」(詩編八六・一一)。その一筋の心で、続く一二節にあるように、神であるあなたに感謝を献げることができるようにと願っているのです。

「一筋の心」とあります。一筋の心とはいったい何でしょうか。他の翻訳の聖書では、ほとんどが「一つの心」となっています。心が一つではない、二つにも三つにもなっている。もっと言えば心がバラバラになっている。そういう分裂した心ではなく、一つになっている。それが一筋の心です。

詩編の詩人も、自分の心がよく心変わりすることを知っていました。今日は神を信頼する心であったとしても、明日には揺らいでいる、不安の中にいる。心がどんどんと入れ替わってしまう。ある日には、神のことをまったく思わずに、安息日にようやく思い出す。そんなこともあったかもしれません。心が複雑になってしまうのです。そしてそんな複雑な心を、二つにも三つにもなる心を持っているけれども、あなたを信頼して歩むことができるように、一筋の心を与えてくださいと祈り願っているのです。

今日の説教の説教題を、「筋の通った生き方」としました。私たちの生き方も複雑です。心も一筋ではなく、複数の心を持ってしまいます。複数の基準を、いろいろなところに当てはめてしまいます。それゆえに筋が通らない生き方になってしまうのです。どうしたら筋が通るようになるでしょうか。それは、筋の通らない生き方を赦されて、正していただく。それしか道はないのです。

私たちの信仰の筋道は、非常に単純です。まっすぐ生きらない私たちです。それを主イエスが赦し、正してくださる。ただそれだけです。しかしそのことを信じずに、なんと自分で正そうとするのであれば、結局のところ、まったく正すことができずに、いつまでも複雑なまま。そういう生き方しかできなくなってしまうのです。

主イエスによって癒されたこの人は、このときファリサイ派からの人たちに問いかけに対して、主イエスは「預言者」だと答えています。「そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。」(一七節)。預言者とは、いろいろな意味を考えることができるかもしれませんが、この人は主イエスのことを、神から遣わされた人であると信じたのです。

先週の聖書箇所の一一節では、この人は主イエスのことを「イエスという方」(九・一一)と言っています。そして三八節では「主よ、信じます」(九・三八)と言って、信仰を言い表しています。このお方が私から目が見えないという病を取り去ってくださった。あらゆる束縛から解放してくださった。その心に生きるようになったのです。自分が複雑な心を持っていた、そのことを認めながらも、今やまっすぐに、「あの方は預言者です」と言うようになったのです。

現在、洗礼に向けての学びを、何人かの方と行っています。今の方だけでなく、誰もがそうでありますけれども、洗礼を受けるにあたって、いろいろな不安があると思います。今は洗礼を受けたい、キリスト者として生きていきたい、そんな心がある。けれどもその最初の志を最後まで貫くことができるだろうか。そんな不安です。

そのとき、私が申し上げていることはこうです。だからこそ、洗礼を受けてください。人間はどうしても複雑な心を持ってしまう。あっちにもこっちにも迷ってしまう。今は信じているかもしれないけれども、もしかしたらそれが揺らいでしまう。だからこそ、洗礼の事実を自分の人生にしっかり刻んでおくことが大切なのです。

洗礼は救いの確かなしるしです。私は救われた。私は主イエスによって罪赦されて救っていただいた者である。そのことをはっきりと言えます。救いの原点です。洗礼を受けていれば、いつでもこの原点に戻ることができます。主イエスを信じ、キリスト者として歩むことは、非常に単純なことなのです。一つの心に生きればよい。離れてもそこに戻ればよい。これほどシンプルで筋の通った生き方はないのです。