松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年8月23日(日)
説教題「脱・因果応報」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第9章1〜7節

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

旧約聖書: ヨブ記33:1~33

今日からヨハネによる福音書第九章に入ります。本日、私たちに与えられた聖書箇所は一節から七節までです。話としてはそれ以降も続いていく話ですけれども、今日は七節まで。来週は一節から一二節まで朗読いたしますが、特に八節以降から、御言葉を聴きたいと願っています。

今日の説教の説教題を「脱・因果応報」と付けました。先週、教会のいろいろな方と接しましたけれども、興味を持たれた方がとても多いように感じました。因果応報。私たちの間で、特に日本の国ではどこか根強い考えのようなところもあります。果たして聖書はどう考えているのでしょうか。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところに、こうあります。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」(一節)。主イエスは見かけられただけで、何も言われませんでしたが、一緒にいた弟子たちから問いが発せられます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(二節)。

弟子たちとしては、目が見えないということが起こった、その原因を両親または本人ではないかと考えています。旧約聖書の出エジプト記に、十戒が授けられるときの話が記されています。そのときに神は言われます。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが…」(出エジプト二〇・五)。この言葉は、親の先祖の罪が引き継がれる。いわば因果応報的な言葉のように読むこともできます。

しかし本当にそうなのでしょうか。旧約聖書の申命記にはこうあります。「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」(申命記二四・一六)。

それでは弟子たちが言っているように、本人が原因であるというもう一つの可能性なのでしょうか。この人は「生まれつき目が見えない」と記されています。生まれる前に本人が罪を犯すことが可能なのでしょうか。弟子たちが言っているのは、母親の胎内で罪を犯すという可能性です。

旧約聖書の創世記に、リベカがエサウとヤコブの双子を産むときの話が記されています。リベカはイサクの妻です。「胎内で子供たちが押し合うので」(創世記二五・二二)と記されています。しかも、「その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」(二五・二六)とまで書かれています。胎内でも争うことがあった、罪を犯す可能性があった。弟子たちを含めて多くのユダヤ人たちはそう考えていました。それが原因ではないかと考えたのです。

弟子たちは、生まれつき目の見えない人を見かけ、かねてからの問いであったことを、主イエスに尋ねたのです。「ラビ」(二節)というように問いかけています。「先生」ということです。優れた教師であるあなたならば、答えが分かるのではないか。弟子たちはそのように尋ねているのです。

それにしてもなぜ弟子たちはこのような質問をしているのでしょうか。「脱・因果応報」。この説教題に関心を寄せた私たちも同じです。因果応報などという法則が本当にあるのか、ないのか。私たちもそのことを知りたいのです。悪いことが起こったならば、誰でもその原因を探りたいと思います。

なぜ原因探しをするのでしょうか。もし原因が分かれば、対処することができるからです。対処をすることによって、次に悪いことが起きないようにすることができます。そして私たちはその安心を得たいのです。だからこんな質問をするのです。

私たちが生かされているこの世の中では、いろいろな事件が起こります。先週も様々な痛ましい事件が起こりました。そこには加害者と被害者がいます。こういう事件が起こりますと、マスコミは無責任な犯人捜しをすることがあります。もちろん加害者が悪いわけです。加害者がこんなことをしてしまった。

しかしそれだけで報道は終わりません。加害者は実はこんな人間だった。こんなことを抱えていた。こんな生い立ちであった。そんなことまで突っ込んでいろいろとほじくり回して、報道がなされます。果てには被害者にもこんな落ち度があった、悪いところがあったという報道までなされます。そんなようにして、マスコミは面白おかしく事件を取り上げるわけです。

なぜそのような報道がなされるのか。不可解な事件が起こります。そうすると私たちの心理として、なんとかその事件を理解しようと努めます。なぜこんなことが起こったのか。これとそれが原因だ。そのように犯人捜しをするのです。そしてその事件を理解できたものとして片付けようとする。もし理解できない、本当に不可解なままの事件で終わったとすれば、なんだか私たちは落ち着かないし、気持ちが悪いのです。

しかし人間の本当の闇というのは、他人がなかなか理解できるものではありません。報道一つで理解できるなどということはないでしょう。複雑な要因が絡み合って事件が起こった。なぜ事件が起こったのか。被害者はもちろん、加害者にすら分からないことがある。表面的に分かったとしても、根っこにある闇は誰にも分かりません。本人すらその闇に気付いていないということもあるでしょう。

因果応報。ある牧師が「この考えは悪魔の思想だ」と言いました。そこまで言い切れるかは分かりませんが、確かにそんなところもあるかもしれません。悪いことが起こった、そうするとなんとか原因を探りたい、知って、理解して、安心を得たい。そのような人間の心理に付け込んでいる。それが因果応報の思想です。

私たち人間は誰もが罪人です。神にも人にもまっすぐに生きられない存在です。因果応だ、あなたが悪いのだ、あの人が悪いのだ、それが原因だと言われれば、誰にも必ず思い当たるところがあるのです。もしかしたらそうなのかなと思ってしまう。だから、一見すると、因果応報は正しそうに聞こえます。しかし本当にそうなのでしょうか。

主イエスのお答に注目してみましょう。主イエスはきっぱりとそれを否定なさいます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」(三節)。誰が悪いのかということは一切言われません。誰が悪いのか、何が悪いのか、その問いはそこでおしまいになります。主イエスはそれ以上、そのことには何もお答えにならないのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所はヨブ記です。ヨブ記はヨブという人物が主人公です。ヨブに不幸が襲い掛かります。なぜ自分にこのような不幸が襲い掛かるのか。ヨブには身に覚えがありません。そのことを問い続けている中で、三人の友人たちが見舞いにやって来ます。

見舞いをしに来たはずでしたが、いつの間にかヨブと三人の間で議論が始まっています。因果応報をめぐる議論です。なぜこんな不幸が起こるのだろうか。私は潔白だ。いや、ヨブよ、そんなはずはない。お前にも悪いところがあったのではないか…。そんな形で延々と議論がなされていきます。見舞いにやって来た三人は、ちっともヨブのことを慰めることはできません。

そこで、エリフという人物が第三二章から登場します。この人は最初からいたようですが、若者であったために黙って議論を聞いていたようです。ところがもはや我慢ができなくなった。口を開いてヨブにものを言い始めます。エリフが言いたいことは主に二つです。

今日の旧約聖書の箇所は第三三章ですが、一三節から一四節にかけてこうあります。「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを、いちいち説明されない。神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない。」(ヨブ記三三・一三~一四)。エリフが一つ目に言いたいのは、神のなさることはすべて分からない。すべてを説明されないし、人間もそれを理解できるわけではないということです。

エリフが言いたい二つ目のことは、第三三章の三一~三三節にあります。「ヨブよ、耳を傾けて、わたしの言うことを聞け。沈黙せよ、わたしに語らせよ。わたしに答えて言うことがあるなら、語れ。正しい主張を聞くのがわたしの望みだ。言うことがなければ、耳を傾けよ。沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。」(ヨブ記三三・三一~三三)。ヨブはこれまでずっと口を開いて語ってきましたが、沈黙せよ。それがエリフの言いたい二つ目のことです。

エリフは第三七章の終わりまでヨブに語り続けます。ヨブは反論せず、沈黙してそれを聴きます。そして第三八章で、ようやく神が沈黙を破られます。ヨブに語りかけられるのです。それが第三八章から第四一章まで続いていきます。神はいったいどんな話をヨブにされたのでしょうか。ヨブに不幸が起こった原因をお話になったのでしょうか。そうではありません。

神はほとんど天地創造の話をされています。神であるわたしが秩序をもって世界を造ったのだ、そのとき、お前はいったいどこにいたのか。そんな話です。要するに神の秩序の話がなされています。ヨブは黙ってそれを聴きました。そして最終的には悔い改めたのです。

結局、ヨブの不幸の原因がどこにあったのか。そのことは最後の最後まで分かりませんでした。しかしヨブは大切なことを知りました。自分が神の秩序の中に置かれていることを知ったのです。最後にヨブはこのように神に行っています。「そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(ヨブ記四二・三)。ヨブ記の答えも、因果応報ではないということです。主イエスのお答と同じであります。

因果応報という思想は、過去と現在を強く意識する思想です。過去こうだった。だから現在はこう。それで未来が不安になっていく。そんな思想だと思います。しかし主イエスは過去とのつながりを否定されます。それが三節前半、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」ということです。その上で、このように言葉を続けられます。「神の業がこの人に現れるためである。」(三節)。主イエスのこの言葉は、過去のことではなく、現在、そして将来へと目を向けさせる言葉です。

特に四節前半の主イエスのお言葉に注目をしてみましょう。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」(四節)。最初の言葉は「わたしたち」です。「わたし」ではありません。主イエスお一人だけということではない。主イエスも含めて、私たちも含めて、「わたしたち」となっているのです。私たちも主イエスの業の中に入れていただけるのです。

続けて四節後半から五節にかけて、こうあります。「だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(四~五節)。主イエスは世の光である。このことは第八章一二節でも言われた言葉です。だから主イエスがおられる間は、少なくとも光がある、昼間だということになります。しかし主イエスがいなくなれば、光がなくなり、夜ということになるのでしょうか。夜になったら、誰も神の業を行うことができなくなる。そのようにこの聖書箇所を読めなくはありません。

ある聖書学者が「だれも働くことのできない夜が来る」という言葉を解説して、このように言っています。「このことが起こらないように、主イエスは弟子たちを神の業に加えてくださった」。夜になって、つまり主イエスがいなくなって、誰も神の業ができなくなるというわけではありません。「わたしたち」が神の業を行うのです。だからこそ、主イエスは「わたしたち」という言葉を使い、私たちを神の業に加えてくださった。マタイによる福音書で主イエスは「あなたがたは世の光である」(マタイ五・一四)と言われています。夜でも光はなおもあるようにしてくださる。いや、夜にはならないと言った方がよいでしょう。

このように主イエスは言われて、目の見えなかった人を実際に癒されます。「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」(六節)。なぜこのようなことをされたのでしょうか。よく分からないところがあります。こんな回りくどいことをしなくても、主イエスなら直ちに癒すことができるはずです。

ある人はこんな意味があったのではないかと推測をしています。創世記に人間が造られたときの様子がこのように記されています。「しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記二・六~七)。

最初に人間が造られたとき、土と水から人が形づくられました。そしてヨハネによる福音書のこの箇所でも、土と水が使われています。つまり最初に人間が造られたように、新たな人間がここに造られた。目の見えなかった人が、目に見える人に再創造された。この人はそう言うのです。

しかもシロアムの池へ行って洗いなさい、ということまで言われます。シロアムという名称の意味まで、わざわざ解説されています。「遣わされた者」という意味です。ヨハネによる福音書の読者にとって、自明な意味ではなかったと考えられます。しかしそれだけではなくて、著者がどうしてもその意味を知らせたかったのだと思います。シロアムの池へ行きなさい。そこへ遣わされなさい。主イエスが遣わし、私たちが遣わされます。主イエスに神の業に加えていただいたものとして、私たちが遣わされるのです。私たちが神の業を一緒に行うのです。

八月上旬に、私たちの教会は東京神学大学より遣わされた夏期伝道実習生を受け入れました。一週間足らずでしたが、いろいろな実りを得ることができました。神学生にとっても実りがあったでしょう。私たちの教会にとってもそうです。神学校を支え、覚え、神学生を育てる神の業を共にすることができました。こどもの教会のキャンプを一緒に過ごしていただき、主日の説教をしていただき、ノアの会でも証しをしていただきました。神の業がこの人に現れている。そのように実感した方は多いと思います。

しかしこれは何も神学生だけの話ではありません。牧師や伝道者だけの話でもありません。私たち一人一人の話です。現在、三名の方の洗礼の準備を、二名の方の信仰告白の準備を進めています。いずれの方々も、準備の学びを始める前に、「洗礼を受けたい」「信仰告白をしたい」とお申し出がありました。以前ですと、このようなお申し出があった場合、私は単純に喜びました。しかし最近は、もちろん大きな喜びを覚えるのですが、畏れの方を強く感じるようになりました。なぜこの人の口から、「洗礼を受けたい」「信仰告白をしたい」という言葉が出るのだろうか。

何とも不思議なことです。人間の力だけとはとても思えない。神の導きなくしては考えられないことです。その畏れを感じた。このことも、「神の業がこの人に現れる」(三節)ということに他なりません。私も牧師として神の業に加えていただいている。教会の皆様も、求道者たちを導き、支え、祈りに覚え、共に喜びにあずかる。「わたしたち」として神の業に加えていただいているのです。

神の業が現れる。わたしたちがそれを行い、それに加わることができる。わたしたちは皆がそういう者にされているのです。その喜びに包まれるときに、因果応報などという思想は消えていきます。なぜ悪いことが起こるのか。原因は分からない、それが聖書の答えです。ヨブ記でもヨハネによる福音書でもそうです。

しかし主イエスはそんな原因究明よりも、神の業を共に行おうではないか、あなたもそこに加わりなさいと言われます。その喜びに一緒に包まれる「わたしたち」になることが、因果応報から解放される道なのです。