松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年8月30日(日)
説教題「目が開かれて見えるもの」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第9章1〜12節

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

旧約聖書: 列王記上17:17~24

先週からヨハネによる福音書第九章に入りました。先週の礼拝では、第九章一~七節までの箇所を朗読し、「脱・因果応報」という説教題で御言葉を聴きました。特に三節の主イエスのお言葉、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(三節)に集中して御言葉を聴きました。

今日は一節から一二節までが与えられた箇所です。後半の八節から一二節にも触れていきますが、一節から七節の中でも触れていないところもありました。例えば、最初の一節に「通りすがりに」とあります。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」(一節)。

何気なく書かれているようですが、よく考えてみれば、とても気になる言葉です。通りすがりということは、目的がきちんとあって、その途中であるということです。主イエスの目的とはいったい何でしょうか。第八章のところでエルサレムで行われていた仮庵祭という祭りが終わりました。エルサレムを去って、次の目的地へ行かれる。その「通りすがりに」ということだったのかもしれません。

あるいは、主イエスはこのときすでに十字架に向かって歩みを進めていました。人間の罪を代わりに背負い、罪を赦すための十字架という目的地に向かっていた。その途上でいろいろな人に出会ってくださった。目を開いていただいたこの人もまた、その中の一人です。

「通りすがり」という言葉は、聖書の他の箇所にも記されています。例えば、マルコによる福音書にこうあります。「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて…」(マルコ二・一四)。マルコによる福音書やルカによる福音書では「レビ」ですが、マタイによる福音書では「マタイ」になっています。主イエスの十二人の弟子の一人です。収税所に座っていた徴税人がこのように弟子となりました。しかしそれも「通りすがり」「通りがかり」の出来事です。

レビあるいはマタイは通りすがりでありながらも、きちんと主イエスのまなざしの中に置かれていました。ヨハネによる福音書のこの箇所も同じです。主イエスがまずこの目の見えない人を見かけられるところから、この話が始まっていく。そして目が開かれるという奇跡が起こるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、奇跡そのものの話も記されていますが、その奇跡を目の当たりにした人々の様子が特に記されています。特に後半の八節から一二節がそうです。人々はいろいろなことを言い合っています。「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」(八節)。「その人だ」(九節)。「いや違う。似ているだけだ」(九節)。目を開いていただいたこの人は言います。「わたしがそうなのです」(九節)。

それに対して、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」(一〇節)と問い詰めます。この人は「イエスという方」(一一節)によって目が開かれたと答えます。そうすると「その人はどこにいるのか」(一二節)と再び問います。一つの奇跡をめぐって、この後もいろいろな話が展開をされていくのです。

このような記述は、ヨハネによる福音書の一つの大きな特徴でもあります。一つの出来事を簡単には終わらせないのです。他の福音書でも、もちろん奇跡の話は記されますが、どこか淡々と記されているところがあります。この奇跡をどう受けとめればよいのか、そう考えているうちに、次の別の話へと向かっていく。そこに違いがあります。

例えばヨハネによる福音書では、第六章のところに、五千人以上の人たちを五つのパンと二匹の魚で養うという奇跡の話があります。四つの福音書すべてに記されている話です。ところがヨハネによる福音書は、これだけで話を終わらせることはしていません。この奇跡はいったい何を意味しているのか、そんなことを多くの人が論じあっています。

その中で、主イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(六・三五)。主イエスがどうやら食べ物らしい。この発言を聞いた人々はさらに、主イエスを食べるとはいったいどういうことか、その議論がその後も続いていくのです。

当たり前の話かもしれませんが、奇跡はなかなか簡単に受けとめることができるものではありません。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の列王記上の箇所もそうです。預言者エリヤと、ある家の女主人との間での話が記されています。この女主人はエリヤを通してなされた奇跡を体験するのは初めての話ではありませんでした。このときも息子を生き返らせていただく奇跡が起こります。

そして最後の最後のところで、女主人は言うのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(列王記上一七・二四)。この奇跡が何によって起こったのか、最後になって女主人は悟ったのです。

ヨハネによる福音書の第九章も同じです。生まれつき目が見えなかったこの人の目が開かれる奇跡をめぐって、いろいろな人たちが入れ代わりで次々と登場し、いろいろなやり取りがなされていきます。今日の箇所もそうで、人々は最初、どのようにあなたの目が開かれたのか、と問うています。ところがだんだんと、誰があなたの目を開いたのか、と問うていくのです。この話は来週以降の聖書箇所も続いていきます。出来事そのものよりも、いったい誰がそれを引き起こしたのか。だんだんとその核心に迫って行く流れになっているのです。

このようにして奇跡が起こりました。それで人々はどうなったかというと、人々は分裂しました。第九章の終わりまでずっと、この奇跡をめぐってあれこれとやり取りがなされます。しかし第九章の終わりになっても、主イエスのことを信じたのは、この目を開いていただいたこの人だけではないかと思われます。他の人々は信じようとしなかった。信じる者と信じない者に分裂をしたのです。

説教の準備をするにあたり、聖書の解説をしてくれる多くの注解書を読みます。英語のものを読みますと、この箇所には「シスマ」という言葉が多く出てきます。シスマとはラテン語の言葉です。ラテン語は古代ローマ帝国で使われていた言葉で、キリスト教会もこのラテン語を大事にしてきました。このラテン語のシスマという言葉が、ドイツ語になったり、英語でも使われるようになりました。人間や教会の歴史において、分裂を意味する言葉として使われてきたのです。

しかしラテン語やドイツ語、英語で盛んに使われるようになる以前から、聖書の中にこの分裂の話が記されています。それも奇跡が起こったときに、人々が信じる者と信じない者へと分裂をしていくのです。

奇跡ということを、私たちもよく考えなければなりません。奇跡がなされます。私たちも奇跡の話を、聖書を通して読みます。ある人は信じます。しかし別の人はそれでも信じません。この奇跡が本当に神の力によってなされたのだろうか。悪の力によってなされたのではなかろうか。そのように主イエスに対して文句を言い始める人がいたことを、聖書ははっきりと書いています。私たちはどうでしょうか。主イエスを信じるか、信じないか、奇跡によってはっきりと分かれるのです。

目の見えなかった人は、この奇跡をどう受けとめたのでしょうか。私の印象としては、この人は奇跡を受けた張本人でありましたけれども、この奇跡を静かに受けとめていったように思います。

聖書の中に、目の見えない人が癒される話がいくつか記されています。マルコによる福音書に、バルティマイという名の目の見えない人が癒される話が記されています。マタイによる福音書とルカによる福音書も同じ出来事を伝えていますが、無名の人物になっています。この人も同じく目が見えず、物乞いでありました。周りの人たちから主イエスがすぐ近くを通られることを聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ一〇・四七、四八)と叫び続けます。

この訴えが聞き入れられて、主イエスのところに呼ばれていきます。「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(マルコ一〇・五〇)と記されています。この人はすぐに主イエスによって癒され、「なお道を進まれるイエスに従った」(マルコ一〇・五二)とあります。バルティマイが大喜びをした様子がよく伝わってきます。

ヨハネによる福音書第九章に出てくるこの人はどうだったのだろうか。ある聖書学者が、当時の目が見えない人の生活のことを、このように記しています。「生活手段としての物乞いは、一世紀のパレスチナでよく行われていることだった。目の見えない人にとって生きていくための唯一の手段といってもよかった」。

目が見えなかったのに、目が見えるようになった。それは確かに喜びです。バルティマイの喜びようも、私たちにも分からないわけではありません。しかしヨハネによる福音書第九章のこの人は、あまり喜んでいないように思えます。人々の分裂や質問攻めに翻弄されながら、目が見えるようになって歩み出します。

今までは、目が見えないゆえに、物乞いが成り立っていたのです。これからはいったいどうするのでしょうか。もはや物乞いによる生活は成り立ちません。生まれてからずっと目が目えなかったので、当時としては教育をしっかりと受けたわけでもないでしょう。職業訓練を受けたというわけでもないでしょう。いったいどう生きていけばよいのか。何を支えにしていけばよいのか。その問いの中に立たされたのです。

そのような中で、この人が確かに言った大事な言葉があります。九節のところです。「わたしがそうなのです」(九節)。人々からあなたは誰なのか、あなたが本人なのか、そう問われて、この人はこう答えました。

聖書の元の言葉では「エゴー・エイミー」という言葉が使われています。英語で言えば“I am”です。この言葉は、聖書では大変重い意味のある言葉で、主イエスも使われている言葉です。第八章五八節で、「わたしはある」と主イエスは言われています。主イエスはいつ、どこでもある、存在する。共にいてくださる。そういう意味で使われています。もちろん、主イエスとこの人では、同じ言葉であっても、その意味するところは違います。

しかしこの人は「わたしがそうなのです」と答えた。わたしに神の業が現れた、わたしはそういう者だと答えたのです。主イエスの言葉が鏡のようにこの人に現れた。それだけでなく、主イエスの恵みがこの人に鏡のように現れた。そういうことを言っている言葉です。わたしは主イエスの恵みを受けた者、わたしは神に救われた者。わたしがそうなのだ、その自覚を持って歩み始めたことが分かります。

第九章の最後になりますと、この人が信仰を持つことを願い、信仰を持って歩み始めたことがさらに分かります。この人は「シロアムの池に行って洗いなさい」(七節)と言われたときには、まだ目が見えませんでした。池に行って洗って初めて見えるようになったのです。主イエスのお姿をまだ見ていませんでした。第九章の最後のところでようやく主イエスに出会い、信仰を持って歩み始めた。この奇跡を、静かに、そして信仰を持って受けとめていったのです。

こう考えますと、奇跡イコール信仰というわけではありません。奇跡を体験すれば、すぐに信じられるというわけではないのです。むしろ、奇跡から始まり、その奇跡を受けとめ、誰がその奇跡を起こしたのかを知り、信仰を持つのです。

主イエスは「シロアムの池に行って洗いなさい」(七節)と言われます。教会の私たちはこのことを洗礼に関連づけて理解してきました。カール・バルトという二十世紀の最大の神学者とも言える人が、この箇所の説教の中で、このように語っています。

「シロアム。それは不思議にも、「遣わされた者」という意味である。…このシロアムの池は、決して霊泉というようなものではなかった。…ところが、そこへと、この見すぼらしい池へと、行けと命じられる。「シロアムの池へ行って洗いなさい」。そして、まさにそれと同じことを、イエスは、私たちにも命じ給う。すなわち、それは、…使徒たち、「遣わされた者」のいるところ。イエス・キリストの教会のあるところ。洗礼と聖晩餐と説教の行われるところ。聖書が開かれ、それが読まれ、説き明かされ、理解され、生活されるところである。」(『カール・バルト説教選集』九、二四八~二四九頁)。

主イエスのこのご命令に促されて、私たちも教会とかかわりを持って歩みます。バルトが言うように、教会では洗礼がなされ、聖餐が祝われ、神の言葉である説教が語られています。私たちの罪が洗い流され、赦され、赦しの言葉が語られ、聴かれるのです。すでに奇跡が起こっているのです。この教会の生活の中で、私たちの目が開かれ、信仰の目として養われていくのです。

この説教に先立ち、子どもたちに短く御言葉を語りました。教会に来ている人たちをよく見て欲しい、よく観察し欲しいと言いました。なぜなら教会の人に神の業が現れているからです。私たちの目も開かれます。奇跡を奇跡として見る目が養われていきます。主イエスが目を開いてくださる。これは私たちの話です。目が開かれ、静かにそのことを受けとめていくのです。その中で、主イエスが私たちの救い主であることを知り、信じていく。目が見えなかった人が見えるようになり、信じるようになった。その歩みが私たちの歩みなのです。