松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年8月16日(日)
説教題「イエス・キリストは常にある」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第8章48〜59節

ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

旧約聖書: 出エジプト記3:7~15

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書第八章の最後の部分になります。第七章から第八章にかけて、一連の話が続いています。多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まり、仮庵祭という祭りを祝う期間の最中でありました。その中で主イエスはユダヤ人たちといろいろなやり取りをなさる。いったんは主イエスのことを信じたユダヤ人たちも現れました。しかしそのユダヤ人たちが、第八章の終わりのところで、石を手にして主イエスに投げつけようとするのです。

今日の聖書箇所の最初のところで、ユダヤ人たちがこのように言っています。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」(四八節)。かなり厳しい言葉を主イエスからはっきりと言われてしまったユダヤ人たちがこのように言ったのです。これは侮辱の言葉です。サマリア人というのは、もともとはユダヤ人と同じ民族でしたが、国が滅ぼされてしまったときに、他国との同化政策によって、外国人の血が入っていった民族になります。ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していた。しかも悪霊に取りつかれているとまで言う。

五百年ほど前にジュネーブの教会を改革したカルヴァンという人が、この箇所を解説して、ユダヤ人たちはここで苦し紛れに支離滅裂なことを言っていると注解しています。主イエスの言葉を論理的に言い返しているわけではまったくありません。カルヴァンの言っていることも当たっているかもしれません。

主イエスはそのようにののしられて、どのように対応したでしょうか。主イエスは「わたしは、自分の栄光は求めていない」(五〇節)と言われます。五四節でも同じようなことを言われています。自分の栄光を求めないとは、ののしられて自分の名誉が傷ついたわけですが、自分で躍起になって自分の名誉を回復しようとしないということです。

一昨日の夕方、戦後七十年の談話が出されました。この談話がどのようなものになるのか、少し前からいろいろなことが言われてきました。数日前には「侵略」「おわび」という言葉が盛り込まれるらしいとの報道がなされました。かつて日本が他国を侵略し、そのことをおわびするという文章になるのかと思った方も多いと思います。

ところが実際はそうはならなかった。たしかにこれらの言葉は盛り込まれました。「侵略」という言葉は「事変、侵略、戦争」という言葉の間に挟まれました。そのようなことが二度とあってはならないと言われています。しかしその侵略を誰がしたのか。日本がしたのか、それとも世界的な風潮がそうだったのであり、それを二度としてはならないと言っているのか、それが不明確です。

「おわび」という言葉も使われましたが、過去の日本がそのような「おわび」を表明してきて、それを引き継ぐと言っているだけです。自分がお詫びをするというよりは、間接的に「おわび」という言葉を使ったにすぎません。

なぜこのような談話になってしまったのか。私はこの談話の一つの問題として、自分で自分の栄光、つまり名誉を求めようとしているところに問題を感じました。たしかに日本はこんな悪しき過去がある。それを曖昧な形で言った上で、戦後、日本はこんなことをしてきた、これからはこんなことをしていく、そのことを言って、名誉を回復したいのです。自分で自分の栄誉を求めているのです。

主イエスは自分の栄光は自分では求めないと言われます。ではどうするのか。父なる神の御心を行う。ただそれだけです。その結果、父なる神から栄光が与えられる。それが五〇節で主イエスが言われている言葉です。「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」(五〇節)。

その上で主イエスは大事なことを言われます。五一節です。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(五一節)。「はっきり言っておく」というのは、ヨハネによる福音書の中に繰り返し出てくる表現です。元のギリシア語の言葉では、「アーメン、アーメン」となっています。主イエスが大事なことを言われる際に出てくる言葉です。

「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(五一節)。「わたしの言葉」と言われています。実は「わたしの言葉」という表現は、第八章の中で主イエスが繰り返し使われています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(八・三一)。「わたしの言葉を受け入れないからである。」(八・三七)。「それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」(八・四三)。

言うまでもないことですが、「わたしの言葉」とは主イエスの言葉です。主イエスの言葉にとどまる、受け入れる、聞く。少しずつ表現を変えられています。第八章で様々なことが語られながらも、主イエスの言葉がとにかく大事であることがよく分かります。

そして今日の聖書箇所では「守る」です。守るというと、きちんと守るというイメージを抱きますが、元の言葉のニュアンスでは、どちらかと「保つ」と言った方がよいかもしれません。主イエスの言葉を聴き、その言葉の内側にいるように保つかどうか。それによって、五一節で「死ぬことがない」と言われているように、死への向き合い方が変わってくるのです。

戦後七十年談話では、「死」という言葉がたった二回しか出てきませんでした。「戦死者」という表現で二回だけです。もちろん「死」を表す言葉はそのほかにもたくさん出てきました。「国内外に斃(たお)れたすべての人々」「戦陣に散った方々」「尊い犠牲」。いずれも事柄としては同じ死を表しています。本来ならば、多くの無残な死、望まない死をおわびしなければなりません。しかしそれを曖昧にし、どこか死を美化しているかのような、ごまかしているようなところがあります。

しかし何もこれは談話だけの話ではありません。私たちの中にも、どこか死をぼやかそうとする、そのような風潮があります。聖書によれば、人間は死ななければならない存在です。土の塵で造られた人間は、土の塵に返って行くのです。しかしその死の厳しさを少しでも和らげようとする思いが働く。愛する者が死ぬ。そのときに、実は死んでいるのではなく、どこかで私のことを見守っていてくれている。そんなふうに、聖書ではまったく見られない風潮が入り込むことがよくあります。

その点では、ユダヤ人たちはきちんと死を受け止めました。五二節のところでこのように言っています。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。」(五二節)。アブラハムも多くの預言者たちも、ユダヤ人たちにとっては偉大な人たちです。特にアブラハムは英雄中の英雄です。人間の心理としては、祀り上げて今でも私たちを見守ってくれている、などと言いたいところですが、死は死としてきちんと受け止めているのです。

私は牧師として葬儀の司式をします。そこでいつも問われることは、教会の葬儀とはいったい何か。何の目的で葬儀をしているのかということです。その点は仏教や神道でははっきりしています。仏教では、お坊さんのことを導師と言いますが、導師が死者を成仏させ、極楽浄土へ送る手続きをします。神道では、神主が死者の魂を、その家を見守る神として祀る手続きをします。いずれも特別な資格を持っていると言った方がいいのかもしれませんが、そのような人間がその手続きをするのです。

ところが私たちはまったくそのようには考えないし、そのようには信じません。神によって造られた人間が死ぬ。その死者に対して、私たち人間は何もできない。それが大前提です。私たちは何もできないゆえに、神に委ねなければならない。死者も、地上に残された私たちも、すべてを神に委ねるだけです。その中で葬儀をします。

葬儀も神を拝む礼拝です。日曜日の礼拝と同じことをしていると言ってもよい。人間の死に際しても、神を礼拝し、御言葉を聴く。主イエスの言葉を聴き、そのうちにとどまる。主イエスの言葉を守る。死を前にして、死の最中にあって、「その人は決して死ぬことはない」(五一節)という主イエスの言葉を聴くのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の中で、鍵となる人物はアブラハムです。ユダヤ人たちは一方ではアブラハムのことを死んだと言っています。他方で主イエスは、五六節のところでこのように言われます。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」(五六節)。

主イエスはここでどういう意味のことを言われているのでしょうか。ユダヤ人の中に、聖書のことを教える教師であるラビと呼ばれる人物たちがいます。聖書が書かれた時代よりも少しあとですが、ラビ・アキバという人がいました。その人が創世記第一五章一七~二一節の注解でこんなことを言っています。この箇所は神とアブラハムが契約を結んだときのことが記されていますが、神はこのときアブラハムに来るべき日の神秘を示したのだ、とラビ・アキバは解説しています。つまり、アブラハムはユダヤ人たちの先祖のあたる人ですが、アブラハムにだけ先取りするようにして、将来の喜びの日を見せたと言うのです。

ラビ・アキバは偉大なラビとして知られた人です。ラビ・アキバだけがこのように独特な解釈をしたというわけではなく、おそらくこの考えはユダヤ人たちの間でも浸透していたでしょう。主イエスもそのような考えをここに持ち出した。アブラハムは将来の喜びの日を先取りすることが許された。しかもその喜びの日とは、主イエスが現れる日の喜びであり、アブラハムはそのことを喜んだと言われるのです。

そのようなことを言われる主イエスに対し、ユダヤ人たちは言い返します。「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」(五七節)。「五十歳」というのは、当時の晩年の歳であると言われています。主イエスはこのとき三十数歳だったと思われます。あなたはそこまで歳を取っているわけではないのに、なぜそんなことが分かるのか、分かるわけはないだろうということです。

そして主イエスが決定的な言葉を言われます。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(五八節)。「わたしはある」、この言葉が決定的な決裂の言葉となりました。激しいやり取りがなされましたが、最後にはユダヤ人たちが石を手にして、主イエスに投げつけようとしたのです。

「わたしはある」。この言葉は、ヨハネによる福音書の中で繰り返し主イエスが語られている言葉です。英語で言えば、“I am”です。この後ろに様々な言葉を付けて使われています。最近の聖書箇所で言えば、第八章一二節にこうあります。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(八・一二)。第一〇章一一節では「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあります(一〇・一一)。

第一一章二五節では「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(一一・二五)とあります。第一四章六節では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)。「わたしは…である」という使われ方をしていますが、このときは「わたしはある」、“I am”のみで使われています。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記第三章です。この中にも「わたしはある」という言葉が出てきました。父なる神がモーセに言われた言葉です。モーセがイスラエルを率いるリーダーに立てられようとしていました。モーセは抵抗します。なぜ自分なのか、みんなが認めてくれるだろうか。そのとき、主なる神から「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記三・一四)と言われます。神がモーセと共におられる方である、そのような神の自己紹介の言葉です。

主イエスもこれと同じ言葉を言われました。ある人がこの言葉を解説して、主イエスの言葉が現在形で語られていることに大きな意味があると言っています。「わたしはある」、“I am”、現在形です。出エジプト記で主なる神はもちろん「わたしはある」と現在形で言っています。ヨハネによる福音書で、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはあった』」と言ってもよいところを、主イエスはやはり「わたしはある」と言われています。主イエスが今、ここにある。いつでもどこでも、これが語られる現在に主イエスがおられるのです。

主イエスご自身も、他の聖書箇所でご自分のことを同じように紹介されています。マタイによる福音書の最後の言葉がこうです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ二八・二〇)。主イエスが弟子たちを伝道に派遣されるにあたり、主イエスが言われた言葉です。主イエスはこれから天に上げられます。弟子たちのところからはいなくなるわけですが、「わたしはある」と言われるのです。

そのことを受け止めて、ヘブライ人への手紙にはこのようなことが書かれました。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙一三・八)。

私たちは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(五一節)という主イエスの言葉を考えてきました。死ぬことがない、死を乗り越えることができるかどうかが問題になっています。非常に論理的に考えると、死を乗り越えることができる救い主は、死ぬ存在である私たち人間の中からは生まれてきません。人間を超えたところからやって来るのです。「わたしはある」、いつでも現在形で言える方でなければ、このような救いがやって来ないのです。

主イエスの言葉が語られ、聞かれる。そのことは二千年前だけでなく、今でも繰り返しなされていることです。今日の日も私たちは主イエスの言葉を聴きます。その中にとどまり、主イエスの言葉を守ることができます。そこに主イエスが共にいてくださるのです。「わたしはある」、今もその言葉を私たちの間に響かせていてくださるのです。