松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年8月2日(日)
説教題「真理の言葉を聴こう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第8章39〜47節

彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

旧約聖書: コヘレトの言葉12:9~14

松本東教会ではヨハネによる福音書から連続して御言葉を聴いています。昨年の八月に第一章一節から始め、ようやく一年経とうとしています。第八章の箇所にまで至りました。

ヨハネによる福音書というのは、四つの福音書の中で、独特、あるいは一番難しい、あるいは一番奥の深い福音書であると言われています。もちろん、ほかの福音書が簡単というわけでも、奥深くないというわけでもありません。しかし三つの福音書はどこか似たところがあります。それに対して、ヨハネによる福音書は、やはり独特なのです。

そのヨハネによる福音書を説教者として説いてきて、いつも語り尽くせていないという思いを持ちながら、次のところへと進んでいます。もちろん聖書ですから、いくらでもそこから水を汲み出せるわけです。完全に汲みつくすことはできません。しかしなんとかできるだけ豊かに水を汲み出したいと願っています。

連続して御言葉を聴いている場合、なるべくすべての節に目を留めて御言葉を聴きたいと、説教者としていつも願っていますが、なかなかそれをすることができません。軽くしか触れられなかったり、場合によってはまったく触れられなかったりしたこともあります。

先週の説教が終わった後に早速、先週の聖書箇所の最後の節に関する質問を受けました。三八節です。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」(八・三八)。この節で主イエスが言われている言葉の意味を尋ねられたのです。先週の聖書箇所は三八節までで、今日の聖書箇所が三九節からになります。本来なら先週、三八節まで触れるべきでした。しかしまったく触れませんでした。この質問が出されたのも、もっともなことだと思います。

なぜ触れなかったのか。それは今日の聖書箇所の内容にかかわるからです。先週、質問をされたときに、すぐに私が答えたのは「父親違い」ということであります。三八節の前半の部分の意味は明らかです。主イエスは父なる神のところでご覧になったことを話している、そういうことです。ところが後半部分はどうでしょうか。「あなたがたは父から聞いたことを行っている」。これは父親が違うのです。

三九節のところで、ユダヤ人たちが「わたしたちの父はアブラハムです」と言っています。それを主イエスが否定なさいます。「ブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」(八・三九~四一)。

それに対し、ユダヤ人たちは言い返します。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」(四一節)。それをまたもや主イエスが否定なさいます。四二節以下の箇所です。

主イエスとやり取りをしていたこのユダヤ人たちは、主イエスのことをいったんは信じた人たちでした。少し前のところになりますが、三〇~三一節にこうあります。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」(三〇~三一節)。

このユダヤ人たちとのやり取りが、だんだんと雲行きが怪しくなっていくわけですが、主イエスがユダヤ人たちに対して厳しい言葉を言われます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(四四節)。

ここに同じく「父」という言葉が出てきます。しかし主イエスの父なる神と同じ父ではりません。悪魔という父のことを言われているのです。つまり主イエスはここにいるユダヤ人たちに対して、あなたがたの父は悪魔だ、あなたがたは悪魔の子だ、そのような大変厳しい言葉を言われているのです。

私たちが聖書から御言葉を聴く場合、あるいは聖書を読む際に、どこに立つのかが極めて大事になります。たくさんの登場人物たちが出てくる場合、自分をどの登場人物に当てはめるのか。あるいは聖書の人名の代わりに、自分の名前を入れて読んでみるのもよいかもしれません。

もちろん、主イエス・キリストと私たちが同じ立場に立つわけにはいかないところがあります。今日の箇所の四六節のところで、主イエスはこう言われています。「あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。」(四六節)。主イエスに罪がまったくなかったことを証言している聖書箇所の一つです。私に罪があると責められるか、そう言われた主イエスに対し、ユダヤ人は何一つ罪を指摘することはできませんでした。

聖書のその他の何箇所かに、主イエスにはまったく罪がなかったことが記されています。主イエスは罪なきお方です。それゆえに私たちの罪を代わりに担い、私たちを赦すことができるお方なのです。罪人がいくら人の罪を赦そうと思っても、罪人であれば同罪になってしまいます。主イエスは唯一、私たちの罪を赦せるお方。それゆえに私たちと主イエスはまったく同じというわけにはいきません。私たちは主イエスに倣う、主イエスの真似をするのです。

それでは、私たちはここに出てくるユダヤ人たちと一緒でしょうか。つまり主イエスからあなたは悪魔の子だ、悪魔を父に持っている、そう言われてしまう存在でしょうか。主イエスの厳しい言葉が自分にも当てはまらないでしょうか。ユダヤ人たちと同じところに立って聖書を読むのと、ユダヤ人たちとは一線を画して聖書を読むのでは、まるで違う読み方になります。私たちはここでのユダヤ人たちとどうかかわればよいのでしょうか。

そのことを考えるために、もう少し悪魔について考えてみたいと思います。悪魔、あるいは聖書ではサタンとも言われますが、そのように言われて、皆様はどのようなことをお考えになるでしょうか。現代において、悪魔を実体のしっかりとあるものとして、あまり考えることはできなくなっているかもしれません。もちろん主イエスも、どこかに悪魔というはっきりとした存在がいるから、それに気をつけなさいと言われているわけではありません。

再び四四節に着目しましょう。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(四四節)。

悪魔は人を殺すのだということを言われています。人を生かすのではなく、殺す。そして偽りを本性としていることが言われています。真理をよりどころとするのではなく、偽りを土台にしているのです。つまり、神は真理に満ちたお方だが、悪魔は偽りを本性としている。神は命をもたらすが、悪魔は死をもたらすことが言われています。

創世記の最初に、蛇の誘惑の話が記されています。絵画の世界で、蛇の姿を悪魔に似せて、あるいは悪魔そのものとして描かれることがあります。蛇イコール悪魔とは書かれていませんが、同じ本性があるのです。創世記第三章四節のところで、蛇がエバを誘惑してこのように言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世記三・四)。

善悪の知識の木をめぐって蛇とエバが話をしているのですが、蛇がエバを「神のようになれる」と誘惑をするのです。その誘惑に負けてしまいます。目が開けた、それは本当にその通りでした。しかし目が開けて何を知ったか。自分が裸であることです。そしてとても人の前に、神の前に出ることができない、そのことを知り、主なる神の顔を避けて歩むようになります。

このようにして神は人間から離れて行ってしまったのです。距離が生じてしまった。神を避けて、神から離れ、神を無視し、神などいないと神を殺してしまう。聖書ではこのことを罪と言います。

「神のようになれる」、その誘惑の言葉は、神を不要とする誘惑です。自分が神のようになれるのだ、という声をささやく。当然なれないわけですけれども、そのような誘惑によって神から離れさせる。それが悪魔の目的です。

現代の社会は、特に日本の社会がそうですが、神なき社会を造り上げてしまいました。私たちの社会はいったいどこへ向かおうとしているのでしょうか。現代もアダムとエバの時代と同様、悪魔の誘惑にさらされています。いや、現代の方が誘惑の度合いが強いと言わざるを得ないかもしれません。そしてその誘惑に完全に負けてしまった。自分が神のようになれる、神を遠ざけ、神がいないものとし、真理に基づかず、偽りに満ちた世になってしまいました。

八月になり、最初の日曜日を迎えました。八月は特に平和を考える月です。とりわけ、昨今の状況で平和を考えることが大事になっています。平和とは何でしょうか。まずは戦争がないことです。しかし戦争さえなければ、平和と言えるのでしょうか。

聖書の中に出てくる平和という言葉、平安と言う場合もありますが、どちらも根本的な意味は同じです。両者の関係が健やかであるという意味です。ユダヤ人たちは「シャローム」という挨拶をします。日本語の聖書では「平和があるように」と訳されることもあります。挨拶を交わし合う者たちの関係が健やかであり、平和であるということです。私たちは人と人との間に、国と国との間に、そして人間と神の間に、平和を得ているでしょうか。

ユダヤ人たちには、どこか特権意識がありました。自分たちはアブラハムの子なのだ、神が父なのだ、その意識です。しかし実際にはそうではない、主イエスがはっきりと指摘をなさいました。そういうやり取りを続けていくうちに、ユダヤ人たちはいったん信じたはずでしたが、主イエスとの間に平和を得られなくなってしまった。

四一節の主イエスの言葉は、主イエスへの皮肉が込められていると言われています。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」(四一節)。私たちは正統なアブラハムの子孫である。それに比べ、そのようなひどいことを言うあなたは、母親はマリアであるかもしれないけれども、父親は分かったものではない。姦淫によって生まれたのではないのだ。そんな皮肉が込められています。

どんどんと両者の溝が深まっていきます。そして第八章の最後のところで、同じユダヤ人たちが石を手に取って主イエスに投げようとする。本当に殺意まで抱いてしまったのです。真理に基づかない生き方をしている者たちが、真理を指摘されると、その真理を殺そうとするのです。

ユダヤ人たちの根っこにあった特権意識は恐ろしいものでした。それを否定されると、殺意まで抱くようになる。平和を考える際にも、この特権意識をいかに捨てられるかは大事なことになります。自分たちに特権がある。特別な権利がある。そう考えたときに、恐ろしいことが起こります。特別な人種なのだ、かつてのナチス・ドイツもそうでしたし、私たちの日本もそういうところがありました。

戦後の日本も、経済では世界で二番に、アジアでは一番に、上り詰めた。それが今ではどうか。とても一番とは言えない。しかし一番でなければいけないと考えるならば、どこかおかしな特権意識から抜け出せないことになってしまいます。

国と国との間の問題だけではなく、私たちもそうです。人と人との間にも、そのような意識はないか。優劣を競い合うところにほころびが生じ、敵対し、それがエスカレートし、平和ではいられなくなるのです。

悪魔の誘惑に負けてしまったのは、アダムやエバだけではありません。二千年前のユダヤ人だけでもありません。日本人もそうです。そして私たちにも同じところがあります。だから悪魔の子だと言われた主イエスの言葉を真剣に受け止めなければなりません。

この世のすべてが偽りに満ちています。真理はいったいどこから来るのでしょうか。四二節で主イエスがこう言われています。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。」(四二節)。主イエスが父なる神のもとから来られたからこそ、このお方にだけ真理があるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、コヘレトの言葉の最後の箇所です。コヘレトの言葉は、神に造られた人間として生きていく上での知恵が語られています。この世をかなり悲観的に見ているところがあります。王になってみる。あらゆる快楽にふけってみる。あらゆる知識を身に着ける。しかしどれもむなしかった。すべてが「空」であると言います。

そのようなことを語った最後のところで、結論に至ります。一〇節のところで「コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。」(コヘレトの言葉一二・一〇)とあります。その真理がいったいどこに由来するのか。続く一一節にこうあります。「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。」(コヘレトの言葉一二・一一)。あらゆる優れた言葉も、すべては「ひとりの牧者」、つまり神に由来する、そのことを見極めたと言うのです。

そして最後の最後のところで、結論が述べられます。「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。」(コヘレトの言葉一二・一三)。神に造られた人間として、これが最も幸いな生き方だと言うのです。

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の聖書箇所もまた、これと同じです。真理が父なる神のもとにある。父なる神のもとから主イエスが来られた。だから主イエスこそが真理なのです。真理の由来がそこにあるのです。

四五節のところで主イエスが言われているニュアンスをよく汲み取っていただきたいと思います。「しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。」(四五節)。主イエスが真理を語っていないわけではありません。主イエスが真理を語っている。だからこそ、あなたがたが私を信じなくなる。主イエスはそう言われているのです。なぜそうなってしまうのか。理由が四七節に記されています。「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(四七節)。

私たちもかつては悪魔の子、悪魔を父としていたと言わざるを得ないところがあります。しかし私たちを悪魔の支配から解放するために、主イエスが父なる神のもとから来られたのです。もはや偽りに支配されることはありません。誰に対しても、偽って生きる必要もありません。神に属する者となることができます。ここに偽りではなく、真理に生きる唯一の道が拓かれたのです。