松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年7月26日(日)
説教題「罪の奴隷か、真理による自由か」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第8章31〜38節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

旧約聖書: エレミヤ書10:1~16

数日前のニュースに、このようなものがありました。炭化した古代ヘブライ語の巻物を二一世紀の技術で解読に成功した、というニュースです。この巻物は六世紀に書かれたものであるようです。羊皮紙と呼ばれる紙に書かれているものですが、炭化してしまっていた。まるで炭の塊のような状態だったそうです。大きさもわずか数センチ。触れると粉々になってしまうものでした。発見されたのは一九七〇年。死海の沿岸で発見されましたが、これまでは解読不能でした。

今回、最新の技術で、解読に至ったわけですが、そこにはいったい何が書かれていたのか。旧約聖書のレビ記の冒頭の八節分が書かれていたのだそうです。もちろん元来書かれていたのはそれだけではなく、これはその断片でしょうけれども、誰がか旧約聖書のレビ記を貴重な紙に書き留め、大事に持っていたのです。

レビ記の冒頭八節の中には、どのようなことが書かれているのでしょうか。例えば四節にはこうあります。「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。」(レビ記一・四)。レビ記は、神と民としてどのように生きるべきか、律法の規定が書かれた書物です。レビ記の前半は特に、罪を犯してしまった場合に、どのように罪の償いをするのか、そのための儀式のことが中心に書かれています。

日本語でも「罪滅ぼし」という言葉を使うことがあります。悪いことをしてしまった。罪を犯してしまった。その後、良いことをして悪いことの埋め合わせをする。それが「罪滅ぼし」です。このレビ記に書かれていることも、ユダヤ的な罪滅ぼしと言えるかもしれません。罪を犯したら、儀式を司る祭司のところへ行って、動物の犠牲を献げるように言われています。動物とは当時は財産でした。悪いことをしてしまったら、自分の財産で償いをする。いわば自己責任です。

こういう「罪滅ぼし」の考え方は日本にもありますが、日本にもっと根強いのは、「水に流す」という考え方だと思います。何か悪いことをしてしまった。それでも時間の経過とともに、水に流すというようにして解決をしてしまう。一年が終わって正月を迎えると、何もかも水に流されて新しく始まったかのように思ってしまう。そんな考え方も根強いと思います。

「罪滅ぼし」にしても、「水に流す」にしても、罪の問題が何も解決していないのは明らかです。「罪滅ぼし」をしてみて、本当に罪を償えるのか。「水に流す」にしても、罪を本当にさっぱりと流せるか。また「水に流す」ようなことを繰り返すのではないか。結局はいつまでも罪に束縛されているのです。不自由なままなのです。

今日の説教の説教題を「罪の奴隷か、真理による自由か」と付けました。今日の大きなテーマは自由です。それも真理による自由です。自由というのは、分かりやすいようで、とても分かりにくいところがあります。皆さまならばどのように説明するでしょうか。その意味するところは深いと思います。

聖書の元の言葉であるギリシア語も、自由という言葉に幅広い意味があります。時代の流れとともに、いろいろな自由が考えられてきました。ギリシア人は特に自由を大事にする人たちです。最初は、法律的また社会的な意味での自由が考えられました。例えば、自由人と奴隷というような具合です。

その後、ポリスの自由ということが言われました。ポリスというのは都市のことです。その都市が集まり、ギリシアになるわけですが、今度はギリシアの自由ということが言われた。個々人の自由だけでなく、全体の自由、つまり他国から干渉されない自由ということが意味されるようになりました。

さらに、哲学的な意味での自由ということも論じられるようになりました。人間には欲望があります。その欲望を自制することができるか。欲望から自由になることができるか。そんな自由まで幅広く問われるようになったのです。

自由という言葉は聖書でも大事な言葉です。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書には、実は自由という言葉が出てくるのは、今日の箇所だけです。それだけ貴重な箇所とも言えます。対する使徒パウロは、新約聖書に収められている多くの手紙を書きましたが、自由という言葉を多用しています。

例えばコリントの信徒への手紙一の第九章にこうあります。冒頭の一節はこうです。「わたしは自由な者ではないか。」(Ⅰコリント九・一)。そして特に今日、お読みしたいのが、一九~二三節です。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント九・一九~二三)。

パウロが書いたこの聖書箇所をもとに、五百年前の教会を改革したマルティン・ルターは『キリスト者の自由』という論文を書きました。キリスト者は自由な者であるが、その自由とはどのような自由なのかということを論じたものです。最初に二つの命題を掲げました。第一がこうです。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」。第二がこうです。「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する」。

この二つの命題は、パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の内容と同じです。これが本当の自由だと言うのです。キリスト者は誰からも束縛されない。自由な者であるということです。しかしそれだけではありません。第二の命題が続きます。誰からも束縛されないが、同時に誰に対しても仕えることができる。誰に対しても下に立って、へりくだることができる。それが本当の自由です。もしもある人が、誰からも束縛されない、自由だ、そのことによっておごり高ぶっているならば、その人は謙遜になる自由がなくなっている。不自由だということになります。

主イエスが「自由」という言葉をお語りになった数少ない場面が、今日の聖書箇所にあります。三一~三二節にこうあります。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(三一~三二節)。主イエスのこの言葉には流れがあります。主イエスの言葉に留まるならば、主イエスの弟子である。主イエスの弟子であるならば、真理を知ることになる。真理を知ったならば、自由になれる。そういう流れがあります。

この主イエスの言葉は有名な言葉でもあります。聖書の中でも比較的よく知られている箇所の一つではないかと思います。それゆえ、聖書のこの箇所だけが取り出されて用いられることがよくあります。

国会議事堂の隣に、国立国会図書館があります。その建物に、「真理がわれらを自由にする」という日本語が刻まれています。主イエスが言われた言葉とは少し違いますので、違いをよく聴き取ってください。「真理がわれらを自由にする」。そしてその日本語の言葉の隣に、ギリシア語が記されています。このギリシア語は聖書と同じギリシア語の言葉遣いです。「真理はあなたがたを自由にする」というギリシア語です。明らかに国立国会図書館に刻まれた文字は、聖書から取られたものです。

なぜこのような聖書の言葉が、国立国会図書館に刻まれるようになったのでしょうか。この文字を刻むことを立案し、実行した人物は、国会議員の羽仁五郎という人です。この人の姓は「羽仁」という姓です。友の会を創設した羽仁もと子の長女に説子という人がいます。羽仁五郎はもともと「森」という姓でしたが、婿として「羽仁」の姓を名乗るようになりました。戦後、参議院議員となりますが、ドイツに留学したときに出会った聖書のこの言葉が心に残り、国立国会図書館の立ち上げにかかわった時に、ぜひこの言葉を刻みたいと願ったのです。

「国立国会図書館法」と呼ばれる法律があります。第一条が始まる前の前文はこうなっています。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」。国民が様々な情報を得る、それは大事なことです。様々な情報を知ることによって、何にも動かされない真理を知り、自由が得られるという確信に立っているわけです。

羽仁五郎は国立国会図書館に「真理がわれらを自由にする」という言葉が刻まれる際に、このように言ったのだそうです。「この言葉が、将来ながくわが国立国会図書館の正面に銘記され、無知によって日本国民が奴隷とされた時代を永久に批判するであろうことを、ぼくは希望する」。かつての日本国民は奴隷であったとはっきり言っています。情報がなく無知だったからです。羽仁五郎がキリスト者かどうか、それはよく分かりませんでしたが、聖書的な素養があったことは確かです。このような言葉遣いは聖書的な言葉です。真理による自由という言葉の裏側に、かつては奴隷だったことを忘れないでほしい。それは聖書の信仰の本質をついている言葉です。

「真理はあなたがたを自由にする」(三二節)。主イエスからこの言葉を聞いたユダヤ人たちは、この言葉に引っかかってしまいます。先週の聖書箇所の最後である三〇節にこうあります。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」(三〇節)。そして今日の聖書箇所の最初である三一節にこうあります。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」(三一節)。ここでのユダヤ人たちは、普通の一般のユダヤ人というよりは、主イエスのことをいったんは信じたユダヤ人たちでした。しかしどうもこのユダヤ人たちと主イエスの会話がかみ合わない。ずっとかみ合わないままです。

そして第八章の終わりの五九節にこうあります。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」(五九節)。考えてみますと、第八章の初めは、姦通の罪を犯した女に人々が石を投げつけようとしているところから始まります。しかし主イエスがその女をお赦しになる。ユダヤ人たちとの議論がかみ合いません。そしてついに、そのユダヤ人たちが主イエスに石を投げつけようとする。第八章はそのように終わるのです。

ユダヤ人たちが引っかかったのは、奴隷になったことは一度もないということです。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」(三三節)。しかしユダヤ人たちのこの言葉は、当たっていないところがあります。

イスラエルの人たちはかつてエジプトで奴隷生活をしていました。そこからモーセというリーダーが立てられ、故郷へ戻ることができたのですが、その後も強大な国々に囲まれて、不自由な生活を強いられます。あるときはバビロニアという国に滅ぼされることも経験します。そして主イエスの時代はローマ帝国の支配下にありました。奴隷のようにずっと束縛され続けたと言えなくもありません。

しかし自分たちはアブラハムの子なのだ、神の約束の民の一員なのだ、それが何よりの誇りであり、奴隷であるという言葉がどうしても受け入れられなかったのです。

それに対する主イエスの言葉が続いていきます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(三四節)。主イエスが意味したことは、ユダヤ人たちの意図とはまるで違いました。罪を犯せばだれもが罪に束縛されている、奴隷だということです。

三五~三六節は後で触れたいと思います。三七節にこうあります。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」(三七節)。今日の聖書箇所の最初の三一節は「わたしの言葉にとどまるならば」と始まっていました。その言葉にまた戻って行きます。「わたしの言葉を受け入れ」るかどうか、そのことが問われているのです。

「受け入れる」という言葉が出てきました。主イエスはあなたがたユダヤ人は「受け入れない」と批判されています。かつての口語訳聖書は「根を下ろしていないからである」となっていました。なかなか幅広い意味を持っている言葉です。元のギリシア語の言葉では、容器の中にものを入れるというイメージで考えることのできる言葉です。

ヨハネによる福音書では、今日の聖書箇所も含めて、全部で三回、この言葉が登場します。一回目は第二章六節です。「水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」(二・六)。水がめという容器の中に、それだけの水が入れられるという意味です。二回目が今日の箇所です。そして三回目が、ヨハネによる福音書の最後の最後です。「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(二一・二五)。主イエスがなさったことを全部網羅するならば、世界という容器の中に、その書物を入れることは不可能だろうということです。

いずれの箇所も容器に入れるイメージです。今日の箇所で主イエスが問われていることは、要するに入れることができる余地があるかどうかということです。ユダヤ人たちはいったんは主イエスを信じました。しかし主イエスの言葉を入れる余地はなかった。あなたの言葉を受け入れません。聴く余地がありません。そのようにして、主イエスの言葉を殺す。石を投げようとする。主イエスご自身を殺すも同然のことをしてしまうのです。

今日は献堂記念礼拝です。一九八〇年七月に会堂が与えられました。今年で三五年目になります。今から三五年前の七月末に、「会堂落成祝謝会」というものが行われました。その日に合わせ、毎年、七月末に献堂記念礼拝を行っています。

この言葉は毎年のように紹介している言葉ですが、会堂をさあこれから建てようとしているときに、当時の牧師であった和田正先生が、このような言葉を「おとずれ」に書いています。「会堂のあることによって信仰の堕落を恐れることを考えると今なお消極的にならざるを得ない」。「会堂が出来たからと言って教会の問題が解決するとは思っていません。会堂を生かすも殺すも、信仰次第だと思います」。

私が松本東教会の牧師として、松本東教会を紹介する機会が多くあります。短時間で紹介しなければならないときは、あまり多くを話せませんが、じっくりと紹介することができるときは、会堂のことも話します。松本東教会は今年で九一年の歴史を刻むことになります。しかし会堂を持ったのはわずか三五年前です。それまでは会堂を持ちませんでした。公民館や教会員のお宅を転々としながら、礼拝を守り続けてきたのです。そんな紹介をしますと、たいていは驚かれます。よく教会としてやって来られましたね、と。私たちの教会はそれでも教会の歩みを続けてきたのです。

三五年前、この会堂が建てられたときは、ここに集う人もまばらだったようです。それが今では会堂に人があふれるようになってきました。会堂の容量が足りなくなることも多くなってきました。しかしこれからの歩みを考えた時、少なくともすぐには会堂を建て替えるわけにはいかないでしょう。これからしばらくはこの会堂と付き合っていくことになります。そのときに問われていることがあると思います。私たちのこの会堂に、まだ人が入る余地があるかどうかということです。これを問われているのは私たちの方です。もう人がいっぱいです。容量不足です。伝道することができません。そうなったら教会として大切なものを見失ってしまいます。

その意味で、かつての和田先生の言葉は今の私たちにとっても生きていると思います。この会堂を生かすも殺すも、会堂次第ではありません。私たちの信仰次第なのです。信仰とは、いろいろな言い方をすることができますが、今日の聖書箇所の表現で言うならば、主イエスの言葉をしっかり聴くことです。その言葉にとどまることです。その言葉を受け入れることです。私たちに主イエスの言葉を受け入れる余地が残されているかどうか。私たちのいろいろな意味でのキャパシティー、容量が問われていることになります。

主イエスの言葉を聴きましょう。そうすれば真理が分かります。そうすれば自由になれます。主イエスのどんな言葉を聴くのか。それがよく表わされている言葉が、先ほど飛ばしました三五~三六節にあります。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(三五~三六節)。

この箇所に「子」という言葉が二度出てきます。三五節と三六節に一度ずつです。それぞれの「子」という言葉はまったく同じ言葉ですが、意味はまったく違います。三五節は一般的に話です。当時の家がそうだったようですが、子どもと奴隷で何が一番違うか。いくら奴隷が重んじられていたとしても、奴隷はその家を継ぐことができるわけではない。子であれば子であるという理由だけでそうなる。それに対して三六節の「子」は、神の独り子である主イエスのことです。主イエスがあなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になると言われるのです。主イエスが罪の奴隷になっている私たちをそこから解放してくださるのです。

人間誰もが罪人である、これも真理かもしれません。しかしその罪人の人間が赦される。これこそ真理です。なぜならこれは神のご意志だからです。その意志を貫かれるために、主イエスが私たちのところに来てくださり、私たちの罪を赦し、私たちを罪の奴隷から解放し、自由にしてくださいました。私たちは罪を咎められることがなくなった自由な者。これこそが絶対に間違いのない真理なのです。