松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年7月19日(日)
説教題「罪の死から引き上げられる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第8章21〜30節

そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

旧約聖書: 詩編130編

教会といえば十字架です。十字架は教会のシンボルマークになっています。しかしシンボルマーク以上の意味がそこには込められています。私たちの救い主、イエス・キリストがそこで死なれました。私たちの代わりに重荷を負ってくださった方、主イエス・キリストが死なれた場所、それが十字架です。

それゆえ教会の私たちは十字架に対して様々なこだわりを持ちます。十字架を作る場合、イエス・キリストのお姿をそこに描くのか。縦横の比を何対何にするのか。七対三が最も美しいなどという話も聞いたことがあります。教会の屋根に十字架をつけるのか。教会の礼拝堂の中に十字架をつけるのか。つけるとすれば、どこにどのくらいの大きさでつけるのか。そのようなことが問題になります。

私たちの教会の屋根には十字架があります。かつて教会を建てたときに、ここが教会だということを表すためにつけました。しかし礼拝堂の中には十字架はつけませんでした。十字架を見るよりも、十字架の言葉を聴いて、十字架を思い起こすことを大切に考えたからです。たとえ十字架はなかったとしても、やはり主イエスの十字架は大切です。

新約聖書の中で、十字架のことは繰り返し語られています。むしろすべての中心が十字架にあります。福音書はだいたいの時間の流れで書かれていますが、主イエスの十字架の出来事は最後の方に書かれています。しかしたとえまだ十字架の出来事が起こっていない場面でも、主イエスが十字架にお架かりになる前提で書かれている。私たちはヨハネによる福音書から御言葉を聴き続けていますが、他の三つの福音書にはいずれも主イエスご自身がなさった三度の受難予告があります。主イエスが十字架での受難を受けて死なれ、三日目に復活されるという予告です。

ヨハネによる福音書にはそういう形での受難予告はありません。しかしヨハネによる福音書も、主イエスがやがてまもなく十字架にお架かりになる前提ですべてが書かれていますし、本日、私たちに与えられた聖書箇所には、受難予告に等しいようなことも記されています。

例えば、最初の二一節にこうあります。「わたしは去って行く」(二一節)。主イエスが去ることが言われていますが、ここには二重の意味が込められています。一つは、仮庵祭の祭りから去って行くということです。祭りのピークが過ぎ、もう終わろうとしていた時でした。私はここを去るのだ、まず主イエスはそう言われます。しかしそれだけでなく、主イエスはご自分がどのような死を死なれるのかご存じでありました。あなたがたは私の死の深みにまでたどり着くことができない。だから「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(二一節)と続けて言われたのです。

こういうやり取りをして、ユダヤ人たちは「あなたは、いったい、どなたですか」(二五節)と尋ねます。主イエスもこの箇所ではあまりはっきりとお答になられていません。しかし今の私たちはもうすでに知っているのです。この方は十字架にお架かりになった救い主であることを。私たちの罪を背負い、死んでくださった救い主なのです。それゆえ、私たちは十字架を掲げます。掲げなくても、十字架の言葉を聴きます。教会は何よりも十字架なのです。

なぜ主イエスが十字架にお架かりになったのでしょうか。私たちを救うためです。それでは何から私たちを救うのでしょうか。今日の聖書箇所の中で、主イエスが三度も同じ言葉を繰り返しておられます。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(二一、二四節)。二一節に一回、二四節に二回、合計三回出てきます。これはいったいどういうことなのでしょうか。「…のうちに」という言葉が使われています。英語で言うと“in”という語が使われています。罪の中で、罪にすっぽり包まれて死ぬことになるということです。

それでもあまりよく分かった気がしないかもしれません。罪と死、どうやらこの二つは密接な関係がありそうです。人間は誰もが罪人である、人間は誰もが死ぬ。この二つは誰も否定できません。なぜ人間はそうなのか。いずれも旧約聖書の創世記の最初のところに、その答えがあります。

神が世界を造られ、人間を造られました。神はこのとき善悪の知識の木と命の木も造られていました。命の木というのは、どうやら食べると永遠に生きる者となる木のようです。人間は初めから永遠に生きる者だったというわけではないでしょう。しかし最初は少なくとも永遠に生きる者になる可能性はあった。ところが蛇にそそのかされてしまいました。善悪の知識の木の実から取って食べれば、あなたは神のようになれる、その誘惑に負けてしまったのです。このようにして、人は神に背き、神から離れ、罪を犯してしまいました。

そうなってしまった人間に対して、神がどうされたのか。命の木はまだ食べていませんでしたが、人間が決して食べないように、命の木に至る道をふさいでしまわれました。神は人間に罪を抱えたまま、永遠に生きることをお許しになりません。罪の問題が解決されない限りは、永遠の命は決してあり得ません。それは神の配慮です。罪のまま、永遠に生き続けなければならないことは、恐ろしいことです。罪ある人間は永遠に生きられない、それゆえ必ず死ぬ。それが、罪のうちに死ぬと言われた主イエスのお言葉の意味です。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第一三〇編です。表題のところには「都に上る歌」と記されています。この詩編の前後は、都に上る歌という一連のシリーズになっています。エルサレムで礼拝をする巡礼歌です。主イエスの時代の仮庵祭に来ていたユダヤ人たちも、この歌を歌いながら巡礼をしたのかもしれません。

しかしこの詩編第一三〇編は、巡礼歌であると同時に、個人的な嘆きの歌でもあります。礼拝に来る者皆が晴れやかな心だったわけではありません。嘆きのうちにいる者も礼拝に来ました。それは今日の私たちとなんら変わるところはありません。喜んでいる者もあれば、悲しんでいる者もいる。それが私たちです。

詩編第一三〇編の詩人も、具体的には分かりませんが、何らかの嘆くべきことがあった。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(詩編一三〇・一~二)。

おそらくこの嘆きは、自分の罪が原因だったのでしょう。なぜなら三節にこう続くからです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。」(詩編一三〇・三)。この詩人も罪のうちに死ぬということをよく知っていました。神から自分の罪を指摘されたならば、自分は耐えられない、生きていかれないと実感していたのです。

しかしこう続きます。「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」(詩編一三〇・四)。私の罪もあるが、しかし神の赦しもあるではないか。四節以降、この詩編では神の希望を歌っていくのです。神の赦しがなければ、罪のうちに死ぬことを、この詩人はよく知っていたのです。

私たちは主イエスのこの言葉をどれほど真剣に受け止めているでしょうか。なんとなく人間の力、自分の力でやって行けると思ったとき、私たちは罪を犯します。神から離れ、言葉は厳しいかもしれませんが神を抹殺し、「神のようになれる」と思ってしまう。恐ろしい結果を生みます。

私たち個人の営みも、社会の営みも同じです。神なきところ、そこには「神のようになれる」と思い込んだ人間が神になれず、猛威を振るう。「罪のうちに死ぬことになる」、これは未来形の言葉ですけれども、私たちも主イエスの言葉から、とんでもない未来になってしまうことを真剣に受け止めなければなりません。

残念ながら、主イエスのこのお言葉は真剣に受け止められませんでした。今日の箇所に出てくるユダヤ人たちとの議論も、当然、かみ合ったものにはなりません。二一節で主イエスが「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(二一節)と言われます。そうするとユダヤ人たちが「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」(二二節)と話しだします。

自殺をするつもりか、というのは皮肉の言葉です。我々の手の届かないそれくらい深いところへ行くつもりかと皮肉を言っているのです。それに対して主イエスは言われます。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」(二三節)。

上に属するか下に属するかという話が出てきます。私たち人間は下に属する者です。しかし主イエスは上に属する者だと言われます。主イエスは普通の人間とは根本的に違う仕方で来られました。

このことを少し考えてみたいと思います。続く二四節で、主イエスは「わたしはある」と言われています。この言葉は今日の箇所の後半でも出てきますし、またヨハネによる福音書の中のほかの箇所でも出てきます。

しかしこの言葉はヨハネによる福音書が独自に開発した言葉ではなく、旧約聖書に見られる言葉です。旧約聖書の出エジプト記で、神がモーセに対して、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記三・一四)と言われます。神がモーセにご自分を示す言葉、自己紹介の言葉です。「わたしはある」「わたしはいる」「わたしは存在する」ということです。

ある人がこの言葉をこう解説してくれます。神のみが「わたしはある」という短い言葉で自己紹介をすることができる。なぜなら神はそれ自体で存在することができるから。人間は「わたしは…のゆえにある」と自己紹介をしなければならない。

これはどういうことなのか。私たち人間は、両親がいたから生まれてきました。そのまた両親も、そのまた両親も必要です。それだけではなく、人間として生きていくことができる環境が必要です。創世記第一章も、神が天地を造られ、光を造られ、いろいろなものが造られていきます。最後に人間が造られます。神が人間の住まう場所を整えてくださった上で、人間を造られた。神の配慮が見られます。それゆえに私たちは存在することができるのです。

だから私たちは「…のゆえにある」と、たくさんの言葉をつなげなければならない。しかし神は違います。神は「わたしはある」のみで十分です。神ご自身だけで、存在することができるのですから。

二五節のところで、「あなたは、いったい、どなたですか」(二五節)とユダヤ人たちは尋ねています。主イエスは前の二四節で「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(二四節)と言われています。「わたしはある」、つまり主イエスが神と等しい方であり、神がおられる上から遣わされてきたことを信じるかどうか、それだけであると言われます。そのことを信じれば、罪のうちに死ぬことはなくなると言われるのです。

最近、私が読みました本の中で、少し面白い本ですが、『キリガイICU高校生のキリスト教概論名(迷)言集』というものがあります。「キリガイ」というのは「キリスト教概論」を略したものです。国際基督教大学の高校がありますが、そこでの聖書の授業を紹介した本です。

先生が様々な問いを出し、生徒たちが文章を書いて答えていますが、こんな問いがあるときに出されました。「問い 聖書は、神の御子イエス・キリストが十字架の上で私たち人間の罪を贖ってくださったといっています。聖書によれば、人は行いによってではなくイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。救いは、はしごを「下から上へ」登る道ではなく、神から人間に「上から下へ」と向かって差し伸べられている愛の御手であると表現できるでしょう。あなたは、このことについてどう思いますか」。

ある生徒の答えはこうです。「今まで上に登ることしか考えていなかった私はショックを受けました。神に近づくためには清く誠実な人間でなくてはならないと思っていたからです。きれいになれた人間だけが神からの加護を受けられるのだと思っていたのです。しかし先生の話を聞き、そんな風にもだえている私のような人間でさえも、信じることで救われることを知りました。信じるとは、きれいで潔白な人間になれることを信じるのではなく、罪があった上で認められる、受け入れられることを信じることなのだと思いました。今まで清くなれない私にとってキリスト教は遠い存在、別世界のものだと考えていました。しかし今回のことで、今までよりずっと身近に感じられました」。

別の生徒はこう答えています。「宗教とはガマンをするものだ、というとらえ方をしている人が多いと思います。例えば、苦行を乗り越えたり、特定のものを食べなかったり…などです。何故人は宗教をそういう風にとらえるのでしょうか。それは「分かりやすい」からです。ガマンした分だけ、自分に幸福が訪れるといった感じです。「はしご」の例に例えると、ガマンをしていく中で、少しずつはしごを登っていくということになります。ところがキリスト教は違う。ガマンという行いをするのではなく、信仰によってイエス・キリストの贖いを受け入れるのです。一見これはラクそうに見えますが、実は逆にキツいのではないかと思います。…今の自分の信仰は十分なのか、不十分なのか?が分からないからです。僕だったらそれが原因でちょっとおかしくなっちゃうかもしれません。ですが、本来宗教というものはこういったものなんじゃないの?と思います。「行い」の多い少ないで得られるモノが変わるなんて…なんか現実の社会みたいだからです」。

国際基督教大学の高校生はなかなかユニークな人が多いようですけれども、この回答にもその特徴がよく見られます。高校生たちが感じ取ったように、下から上ではありません。罪のうちに死んでいた私たちが、その殻を破って上にあがることはできません。そんな私たちのところに、上から下へ、主イエスが来てくださったのです。父なる神と等しい者として、父なる神の御心を行い、十字架にお架かりになり、罪のうちに死んでいた私たちを救い出してくださったのです。

主イエスは十字架において最も深いところに降られました。主イエスは「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(二一節)と言われます。主イエスが赴かれた最も深いところへは、私たちは行くことができません。行く必要もありません。主イエスが私たちの代わりに赴いてくださったからです。私たちの代わりに罪を背負って死んでくださった。それゆえに私たちは赦され、罪の死の深みから引き上げられ、命を得たのです。