松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20150705

2015年7月5日(日)
説教題「世の光、キリスト」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第8章12〜20節

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

旧約聖書: イザヤ書 第60章1~7節

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の聖書箇所は、第七章からの話の流れが続いている箇所です。先週はこのひとつ前の箇所から御言葉を聴きました。姦通の罪を犯した女の赦しの話です。この話を間に挟みましたが、第七章の流れに再び戻って来ています。時は仮庵祭と呼ばれる祭りの最中でありました。

この仮庵祭では、二つの儀式が行われたことが知られています。一つは祭壇から水が注がれるという儀式です。このことに関しては以前の説教でも触れました。第七章三七~三九節のところに、祭りのピークのときの話が記されています。このピークのときに、祭司が祭壇に登って水を注いだのだそうです。水が注がれた場所から四方へと流れ出します。

かつてのイスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から導き出されたときに、荒れ野を四十年、旅しなければなりませんでした。その際に神が水を与えて養ってくださったことを覚え、この儀式がなされていました。その際に、主イエスが大声で叫んで言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(七・三七~三八)。

もう一つの儀式は、燭台に火が灯されるという儀式です。今日の聖書箇所の二〇節のところに、「宝物殿」とあります。かつての口語訳聖書では「さいせん箱」と訳されていました。どちらにも訳すことができる言葉ですが、エルサレムの神殿の中でこれらがあった場所のすぐ近くには、四つのかなり大きな燭台があったそうです。その燭台に火が灯されます。その火の光のもとで、夜の間も仮庵祭の祭りが祝われたそうです。

これもやはり四十年の荒れ野の旅が関係しています。出エジプト記にこうあります。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」(出エジプト記一三・二一~二二)。旅の間、夜も「火の柱」、つまり神からの光に照らされて歩むことができた。その神の導きを覚えるための儀式です。その際に、主イエスが言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(一二節)。

私たちは聖書学者たちの助けを借りながら、そのような儀式があったことを補って読みます。よりよく主イエスの言葉が浮かび上がってきます。ヨハネによる福音書には、そのような儀式のことが何も書かれていませんから、最初の読者たちは説明なしにそのような背景が分かっていたのだと思います。仮庵祭でそのような儀式が行われるのに合わせて、主イエスこそが生きた水の源であり、主イエスこそが世の光であり命の光を持つ方であることが示されるのです。

「わたしは…である」。ヨハネによる福音書の中で、主イエスが繰り返し言われている言葉です。主イエスが、ご自分がどのようなお方なのか、そのことを明確に示してくださった言葉です。このときは、世の光であり、命の光を持つお方であることを示してくださいました。

これに対して、ファリサイ派の人たちは文句を言いました。一三節のところです。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」(一三節)。「証し」というのは、裁判用語でありまして、かしこまって言えば「証言」ということです。ファリサイ派の人たちの文句は、単なる自己証言ではないか、ほかに証言者がいないではないかという文句なのです。

これは確かに一見するとその通りなのかもしれません。一七節のところで主イエスもやはり同じことを言われています。「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。」(一七節)。主イエスがこのように言われる通り、旧約聖書の申命記にも、同じことが記されています。特に人の生命にかかわるような重大な証言をするときには、一人の人間の証言では駄目で、二人以上の証言が必要とされています。

人間とは不思議なもので、自分で自分のことを証明することができません。私はこういう者であると言っても、それだけでただちに信じてもらうことができません。例えば身分証明書の提示を求められたりします。場合によっては一つだけでは駄目で、二つ以上のものを提示しなさいと言われることもあります。根本的には、人間そのものがあまり信用されていないことがあると思います。だから複数の者の証言が必要なのです。

主イエスもここではそのように見られてしまった。二人以上の証言になっていないではないか、自己証言にすぎないではないかと指摘されてしまったのです。それに対する主イエスのお答はどうでしょうか。

改めて一七節も含めてですが、一七~一八節にこうあります。「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」(一七~一八節)。主イエスも二人の証しが必要であるとのことをお認めになった上で、ご自分の証言が一人ではなく二人だと言われます。父なる神からの証しもあると言われるのです。

もう一つ、主イエスのお答ですが、一四節にこうあります。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」(一四節)。人間は知らないかもしれないが、主イエスご自身は、自分がどこから来てどこへ行くのか、そのことを知っていてはっきりとしている、そう言われます。主イエスは父なる神のもとから来られました。そして十字架へ赴こうとしておられます。

そのことが今日の箇所の中にも示唆されています。「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」(二〇節)。まだその時、十字架にお架かりになる時が来ていなかったと記されています。ということは、やがては捕えられて、十字架にお架かりになるということです。それが、主イエスがどこへ行かれるかということです。

主イエスはファリサイ派からの批判に対して、このような言葉をもって答えられました。これらの主イエスの言葉をよく考えてみたいと思います。

どこから来てどこへ行くのか。主イエスはそのことをよくご存知でありました。それに従って歩まれていました。私たちはどうでしょうか。自分がいったい何者なのか。どこから来て、どこへ行くのか。そのことがもしはっきりすれば、私たちの人生の最初と最後がはっきりすることになります。最初と最後がはっきりすれば、その間もはっきりとしてきます。つまり、私たちが最初と最後を見据えて、どのようにその間を生きればよいのかもはっきりしてくるのです。

私たちの教会では、最近、ハイデルベルク信仰問答を学び始めています。以前も学んだことがありますので、学び直していると言った方がよいかもしれません。改めて学び直して、まだ学び始めて最初のところです。最初の問一と答えにはこうあります。「問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの信じる救い主、イエス・キリストのものであることです」。

ハイデルベルク信仰問答もそうですが、多くの信仰問答は問一とその答えが重要です。これから問答を重ね、何を言おうとしているのか、最初の問一にそのことが表れているからです。

いくつかの信仰問答を実際に見ていきたいと思います。改革者のカルヴァンが作りました『ジュネーブ教会信仰問答』というものがあります。子どもたちの信仰教育のために作られたものです。問一と答えはこうです。「問一 人生の主な目的は何ですか。答 神をしることであります」。

私たちの教会のこどもの教会では『明解カテキズム』というものを使っています。この『明解カテキズム』は『ジュネーブ教会信仰問答』を意識しているところがありますが、問一と答えはこうなっています。「問一 わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか。答 神さまを知ることです」。

アメリカで作られた『はじめてのカテキズム』(アメリカ合衆国長老教会編)というものがあります。問一と答えはこうです。「問一 あなたは誰ですか。答 わたしは神さまの子どもです」。

これらの信仰問答の問一は、全体の方向性を示しています。自分がいったい何者なのか、どのように生きるべきなのかということを、心に残る印象的な言葉を使って答えています。今日の聖書箇所の言葉で言うならば、自分がどこから来てどこへ行くのか、そのことを表しています。実際にどの信仰問答でも、その全体で、私たちは神によって造られたけれども、神のもとから離れて罪を犯し、しかし救い主イエス・キリストによって救われ、聖霊に導かれて、神のもとに帰って行く。そのことを説いています。

先週の木曜日のことになりますが、私は用事がありまして、東京神学大学へ出かけてきました。そのときに合わせて、来月、私たちの教会に来られることになっている夏期伝道実習生の神学生にお会いしてきました。私たちの教会として初めての経験になりますが、牧師の卵と言ってもよい神学生を、一週間弱ですが、受け入れることになりました。伝道者としての道を歩み始めた方です。

献身という言葉があります。献金の献の字、献げるという字に、からだの「身」の字を書きます。文字通り身体を献げる。伝道者として身を献げるわけです。神学生とはそういう者です。そういう方を受け入れることは、私たちの教会でもとても意味のあることだと思っています。皆さまもなぜ伝道者の道を志すことになったのか、神学生に対してその問いをお持ちだと思います。

私の経験からすると、なぜあなたは伝道者、牧師を志したのか、その問いに答えるはとても難しい。難しいどころか、誰もが納得するように話すのは、不可能なことです。なぜ牧師になるのですか。その問いに対してまず答えることができるのは、私がそれを志しているからというものです。いわばこれは自己証言です。それはあなただけの自己証言ではありませんか、と言われてしまう。

それに加えて、こちらの方が重要なのですが、神が私を召してくださったから、そのように導いてくださったから、そのように言うことができます。いや、そのようにしか言うことができません。これが、今日の聖書箇所で主イエスが言っておられる、神が私のことを証ししてくださるということです。

自己証言であったり、神学校に入学するにあたり、確かに誰かが推薦をしてくれる。それらは人間による証言です。確かにこれらは必要なのですが、これらは弱い証言です。何よりも大事なのが、神が私を召してくださった、神がそのように言っておられる、これが一番強い証言です。

このことは何も伝道者だけではありません。キリスト者ならば誰もが言えることです。なぜあなたはこの奉仕をしているのですか。なぜあなたはこの道に進んだのですか。なぜあなたはこの選択をしたのですか。なぜあなたはキリスト者になったのですか。このように問われることがあります。まず私たちが答えることができるのは、自分にそのような思いがあるからです。これはいわば自己証言です。

しかしそのことに加えて、神が私をそのように召してくださったからと答えることができます。自分は自分の思いとしてそのようにしたのだけれども、それは自分だけの思いではない。何よりも神が私をそのように召してくださった。そのように導いてくださったのだ。これを言うことができる。それがキリスト者に何よりの強みです。

主イエスの強みもそこにありました。主イエスの自己証言がまずあります。しかしそれだけではなく、父なる神からの証しもありました。その上、主イエスはどこから来てどこへ行くのか、そのこともよくご存知であり、その通りに歩んでおられました。主イエスはこの確信に立って歩まれた方です。ご自分の使命に生き、十字架へと赴かれました。

一二節のところで主イエスが言われた言葉に、再び立ち返りたいと思います。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(一二節)。主イエスが神からの光であり、私たちを照らしてくださる。これと同じようなことは、聖書の至るところに記されています。

本日、私たちに合わせて与えられた聖書箇所が、イザヤ書第六〇章の箇所です。イザヤ書の後半は、バビロン捕囚からの解放のことが記されています。バビロン捕囚とは、イスラエルの国がバビロニアという強国に滅ぼされ、主だった人が捕囚として連れて行かれてしまった出来事です。国としてひどい状況に追い込まれてしまったのです。

このことをイスラエルの人たちは、自分たちが神から離れて罪を犯してしまった結果だと受け止めました。前後の箇所でもそのことがよく表れています。例えば、第五九章一~四節にこうあります。

「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ、唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り、労苦をはらみ、災いを産む。」(イザヤ書五九・一~四)。

また、九節にもこうあります。「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。」(イザヤ書五九・九)。イスラエルの人たちは神から離れ、罪を犯し、暗闇の中を歩んでいると語られています。

このような厳しい言葉が語られる中に、光が差し込んできます。それが今日の旧約聖書の箇所の最初のところです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ書六〇・一~二)。

続けて、その光に照らされて、多くの人が集められることが記されます。「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。」(イザヤ書六〇・三~四)。

私たちを照らしだす光。それがイザヤ書で語られている光です。姦通の女の罪を赦す光です。出エジプトの荒れ野での旅に際してイスラエルの民を照らし出した火の柱による光です。仮庵祭の祭りで燭台に灯された光です。その状況の中で主イエスは言われたのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(一二節)。

主イエスは世の光です。命の光を持つお方です。私たちはその光に照らされます。その光に照らされると、私たちの罪が明るみに出される。隠しておきたかったところが照らし出される。一方ではそれが事実です。しかし他方で、主イエスはその罪を赦してくださいます。私たちは罪赦された者になることができます。それが光によって照らしだされるということです。

私たちはこの光に照らし出されたときに、自分が何者かがはっきりします。様々な信仰問答が言うように、私たちは神に造られ、神から離れて罪を犯したけれども、主イエスによって罪赦され、聖霊に導かれて、神のもとに帰って行く。そういう者であることがはっきりするのです。どこから来てどこへ行くのか、人生の目的が何であるのか、そのこともはっきりとするのです。

暗闇の中に置かれているような私たちかもしれません。自分がなぜ生まれたのか、何のために生きているのか、どのように歩めばよいのか、そのことが分からなければ暗闇です。しかし主イエスが世の光、命の光になってくださいます。私たちの生きる道がはっきりとこの光によって見通すことができます。暗闇の中でも私たちが歩くことができるのは、主イエスという光があるからなのです。