松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年6月28日(日)
説教題「赦しの宣言」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第8章1〜11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

旧約聖書: ホセア書 第11章8~9節

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の箇所の全体に、第七章五三節を含めてですが、かっこがつけられています。かつての口語訳聖書でも文語訳聖書でもそうでした。新改訳聖書もそうです。なぜこのようなかっこでくくられているのでしょうか。

それは、この箇所がもともとはヨハネによる福音書になかったからです。仮にかっこでくくられているところを無くして読むと、前後の話がうまくつながります。前の箇所では、主イエスのことをめぐって、ファリサイ派の人たちがあれこれとやり取りをしています。後の箇所では、主イエスが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(八・一二)と言われると、ファリサイ派の人たちがすぐに文句を言っています。話がすっきりとつながるのです。

聖書にはたくさんの写本がありますが、その中でも五世紀よりも前の写本には、ヨハネによる福音書のこの箇所に、この姦通の女の話は収められていません。少なくとも最初の五百年弱は、聖書のこの箇所には姦通の女の話はなかった。それでは五百年くらい経ってからこの話が作られたのかというと、そうではありません。それ以前にもヨハネによる福音書のこの箇所とは別に伝えられていた話でした。

つまり、これらのことをまとめると、ヨハネによる福音書を最初に書いた著者は、この話をこの箇所には入れなかった。しかしある時期から、別に伝えられていた話がここに取り入れられた。そう考えることができます。かっこでくくられている理由がそれです。

しかしこのことを別に悪く考える必要はありません。私たちも誰かに主イエスのことを伝える必要があるとき、いろいろなことを考えて伝えます。手元に聖書があれば、その聖書を開いて話をすればよいのかもしれませんが、手元にあいにく聖書がない。その場合にどう話すかということです。

主イエスがクリスマスにお生まれになった話を最初にすることになるでしょう。最後は主イエスの十字架と復活の話を、その後の教会の話も加えるかもしれません。問題はその間です。主イエスの少年時代の話をクリスマスの次にするかもしれませんが、主イエスが教えられた様々なこと、奇跡の話、誰かと対話をされたこと、実にいろいろな話が考えられます。私たちはどのように並べるでしょうか。

四つの福音書の著者たちは、何も時間通りに厳密に並べたわけではありません。特にルカによる福音書を書いたルカは、できるだけ「順序正しく」(ルカ一・三)書こうとしましたが、それでも時間が絶対的なものではありません。むしろ自分の伝え方に合わせて、伝える相手に合わせて、信仰の話として組み立てていったのです。

今日の聖書箇所で大事な問題は、なぜこの箇所に姦通の女の話が入り込んだかということです。写本によっては別の箇所に入れられているものもあります。しかしこの箇所に最終的には落ち着きました。ここに入れなければならない理由があったはずです。そのことを前後の文脈から考える必要があるでしょう。

直前の聖書箇所では、主イエスのことをめぐって、人々があれこれと話をしています。ファリサイ派の人たちの間で、主イエスに対する敵意が着実に芽生え始めています。そして今日の箇所、姦通の女の話に至る。主イエスに対する敵意が牙をむきます。しかしその目論見が失敗をする。女は赦される。そして直後の主イエスの言葉、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(八・一二)につながっていく。

つまり、主イエスはいったいどのような方かと問われている中で、今日の赦しの話が出てきます。主イエスは罪を赦す方であり、「世の光」であり「命の光を持つ」方であることが明確にされているのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所を、この流れに従って聴いていきたいと思います。主イエスたちはエルサレムの近くにあったオリーブ山で一晩を過ごし、一夜明けて、エルサレムの神殿に再び行かれます。敵意が早速向けられることになります。この敵意の出来事も、一晩にして用意をされたことになるわけです。

三節のところに、「姦通の現場で捕えられた女」と記されています。その現場を押さえられたわけですが、しかし相手がなければできないことです。男の姿はここにはない。主イエスを陥れるために、そのことだけのために利用されてしまった女であるのです。

三節に「真ん中に立たせ」とあります。これは裁判が開かれたということを表す言葉です。律法学者たちやファリサイ派の人々がこの女を裁く裁判です。しかもこの女を裁くという形を取りながら、主イエスを裁こうとした裁判です。それが真意です。四節から五節にかけて、彼らの言葉がこうあります。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(四~五節)。

この問いに対して、主イエスがYESと答えてもNOと答えても、陥れられることになります。当時はローマ帝国に支配されていました。ローマの許可なくして勝手に人を死刑に定めることはできません。YESと答えたなら、ローマへの反逆ではないかと訴えられます。逆にNOと答えたならば、モーセの律法を軽んじたと訴えられるのです。一夜にして用意されたしたたかな裁判の席でありました。

それに対して主イエスはYESともNOとも答えられずに、指で地面に何かを書かれます。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」(六節)。

一体何を書いておられたのでしょうか。多くの人が想像しています。律法や旧約聖書の言葉を書かれていたのではないか、そう考える人もいます。咎めてくる彼らの罪を書きだしていたのではないか、そう考える人もいます。何か意味のないことを書かれていたのではないか、そう考える人もいます。いずれにしても聖書には書かれていませんので、想像の域を出ません。

問いかけをしても、返ってくるのがしばしの沈黙であった。このことをどう受けとめればよいでしょうか。主イエスは彼らの問いかけを無視された、そのようにも言えるかもしれません。しかしそれだけでしょうか。私たちが神に何かを問いかけたとしても、すぐに答えてくださらないことが多々あります。まるで主イエスが地面に何か書き続けているように、こちらに背を向けているかのように、すぐに答えてくださらないことを、私たちも経験します。

そのときに、むしろ神の沈黙の時間が私たちにとって重要な意味を持ちます。本日、私たちに与えられた聖書箇所に記されている主イエスの沈黙にも意味があります。このときは、彼らの自らの罪を見つめさせるための時間でした。今日の聖書箇所はそれほど会話が多いというわけではありません。むしろ主イエスが沈黙されていた情景描写の方がリアルです。姦通の女に至っては「主よ、だれも」(一一節)だけです。ギリシア語の原文でもたった二語です。

会話よりも沈黙です。彼らは女を、そして主イエスを裁こうとしていました。それは本当に正しいことか、本当にあなたがたは裁けるのか、主イエスの沈黙からそのような声が聴こえてきそうです。

主イエスがその沈黙を破られます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(七節)。これを聞いた者たちが、年長者から始まって一人一人去っていきます。とても面白いことだと思います。「亀の甲より年の功」という言葉があります。単なることわざですが、自分の罪を知ることに関して、「亀の甲より年の功」だったのです。自分たちが石を投げようとして集まっていました。しかし主イエスの沈黙とたった短いこの言葉によって、自分が石を投げられる者ではなかったことに気付く。裁ける者ではなかったことに気付いたのです。

おとといくらいからニュースで取り上げられていますが、与党のある勉強会において、政権に批判的な報道をする新聞社に対して、その新聞社を潰すべきであるという意見が出たのだそうです。そのことが報道されています。この態度はかなり傲慢な態度であると思います。権力を握っているのは自分たちであり、マスコミすら自分たちが裁けると思っているからです。

しかし冷静に考えれば、政治家たちにそこまでの権力がないのは明らかです。マスコミを手中に収めることなど許されていない。それでも自分たちが裁きの座に付けると錯覚してしまう。今日の聖書箇所に出てくる律法学者たちやファリサイ派の人々の姿に重なり合います。私たちも自分の分をわきまえず、誰かのことを裁けると思って裁きの座に座ってしまうこともあるでしょう。そんなとき私たちも律法学者たちやファリサイ派と同じになります。

しかしそのように裁けると思っていた思いを打ち破ったのは主イエスでした。主イエスが沈黙された。主イエスがこの短い言葉を言われた。そして多くの者たちが気付いたのです。自分たちが裁ける者ではなかったことを。

九節のところに「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」とあります。真実ではなかった裁きは裁けないまま終わりましたが、本当の裁きがここから始まります。主イエスと女との一対一の対話です。短い言葉のやり取りがなされます。しかし大事な言葉のやり取りです。女は主イエスの赦しの宣言を聞くことになりました。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は短い箇所です。淡々と書かれている感がありましたが、赦しに至るまで、実にいろいろなプロセスがありました。

人を赦すのは大変です。私たちが誰かを赦すこと、これも大変なことです。聖書にもそのことが書かれています。代表的な聖書箇所が、マタイによる福音書の第一八章です。「兄弟があなたに罪を犯したなら」(マタイ一八・一五)という主イエスの言葉で始まります。自分が悪いことをされたら、自分からその人のところへ行きなさい、二人だけのところで忠告しなさいと言われます。言うことを聞き入れたら兄弟を得たことになります。

しかしうまくいかなかったら、ほかに一人か二人を連れて行きなさいと言われます。聞き入れたら兄弟を得たことになります。それでも駄目なら教会に申し出ます。聞き入れたら兄弟を得たことになります。しかしそれでも駄目なら異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。主イエスはそう言われます。

ここで主イエスが言われているのは、兄弟を得るための努力です。直後の聖書箇所には、七の七十倍も赦せと言われます。私たちはその努力をしているでしょうか。そんな努力をせずに、いきなり相手を異邦人や徴税人と同様に見なしていないか。そういう努力をせずに、ちっとも相手が変わらないことを嘆き、赦せないと思ってしまう。こんな状況で赦したら自分が損をしてしまうと思ってしまうのです。

このような聖書箇所からも、赦すことの難しさを思う私たちです。結局のところ、誰も責任のある赦しを言うことができる人はいません。主イエスを除いては。「わたしもあなたを罪に定めない」(一一節)。主イエスのこの赦しの宣言は、私たちの内からは決して出てこない言葉なのです。

主イエスは私たちを赦すために、力を尽くしてくださいました。今日の聖書箇所がヨハネによる福音書のこの箇所に入れられた意味を、今一度受け取り直したいと思います。主イエスとはだれか、今日の箇所の前のところではそのことが問われていました。そして今日の箇所を経て、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(八・一二)と言われます。

誰も女の罪に対して責任を持つことができず、女も自分自身で責任を持つことができない中で、主イエスのこの赦しの宣言が光っています。主イエスが世の光であり、命の光を持つ者になってくださるのです。

「わたしもあなたを罪に定めない」(一一節)。これは赦しの宣言です。なぜこのような宣言ができるのでしょうか。それは主イエス自らが責任を負ってくださるからです。主イエスがこの女の罪のために、私たちの罪のために、十字架にお架かりになってくださいました。私たちが負うべき罪を主イエスが代わりに担ってくださったのです。主イエスがまるごと私たちの罪を背負ってくださったのです。

沈黙が破られた後、律法学者たちやファリサイ派の人々をはじめとして、ここにいた人たちは皆、立ち去って行きました。この女は、もはや自分を咎める人たちがいなくなりました。自分も立ち去ることができたはずでしたが、なぜか去りませんでした。一対一の本当の裁きの場で、赦しの宣言を聞いたのです。聞くことができたのです。立ち去ってしまった他の人たちも、本来ならば聞くべき言葉でありました。私たちもそうです。

「行きなさい」(一一節)。主イエスは女に言われます。「これからは、もう罪を犯してはならない」(一一節)。この女はこの後、どう歩んだでしょうか。それは分かりません。しかし一つ言えることは、この女はこの後、主イエスの十字架の出来事を知りました。自分に対して赦しの宣言をしてくださった方が十字架にお架かりになった。そこで初めて、自分の罪をまるごと代わりに背負ってくださったことを知ったでしょう。罪の赦しの宣言が本当であったと知ったのです。そのことをもう一度受け取り直した。

私たちももう一度、この女と同じように、主イエスの十字架を受け取り直したいと思います。十字架にお架かりになった方が、罪の赦しの宣言をしてくださったのです。「わたしもあなたを罪に定めない」、と。