松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年6月21日(日)
説教題「イエスをキリストと呼ぼう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第7章40〜53節

この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」人々はおのおの家へ帰って行った。

旧約聖書: ミカ書 第5章1節

私たち信仰者にとって、何よりも重要なのが言葉です。神が世界をお造りになったとき、神は無言で黙々と世界を造られたのではありません。「光あれ」(創世記一・三)と言われ、光が生じました。造られた人間も、言葉を持つ者として造られました。言葉によって、神から聴き取り、神に応えるのです。

そんな私たち人間は、神からの言葉を聴き取り、信仰を持ちます。信仰は言葉によって伝えられていきます。聖書も言葉によって書かれます。言葉が何よりも大事なのです。

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の聖書箇所には、言葉が大事だと記されている箇所が二箇所あります。

まずは四〇節です。「この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や…」(四〇節)。「この言葉」とはどの言葉でしょうか。直前の三七~三八節で語られた言葉、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」や、今まで主イエスがヨハネによる福音書の中で語られてきた言葉全体と考えることもできます。

いずれにしても、主イエスの言葉を群衆は聴いた。その言葉によって主イエスをいろいろと評価しているわけです。この「奇跡を見て」というわけでもなく、「不思議な体験によって」というわけでもなく、「言葉」が判断材料だったのです。

二番目の箇所は四六節です。四五節からお読みします。「さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。」(四五~四六節)。

ここでの下役たちは、前の箇所ですが三二節のところですでに遣わされていた下役たちのことです。「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」(七・三二)。

ある聖書学者が、この下役たちというのは、レビ人と呼ばれる人たちだったのではないかと考えています。レビ人とは祭司に仕える人です。つまり、聖書の言葉や祭司の言葉に精通している人です。今までにも様々な言葉に接してきました。しかしその下役たちが、「今まで、あの人のように話した人はいません」と言うのです。

ある説教者が、ここでの「人」という言葉に注目しています。元のギリシア語の言葉は、人間を指す言葉です。その言葉が使われている。「今まで、あの『男』のように話した人はいません」でもなく、「今まで、『彼』のように話した人はいません」でもありません。そんな人間は今までいなかったと下役たちは言ったのです。私たちと同じ人間だけれども、今までとはまったく違う。その言葉を持っていると主イエスのことを評価したのです。

今年の三月のことになりますが、新高校一年生女子会というものを行いました。中学三年生から高校一年生になる四名が集まりました。そのときに彼女たちに話したことを、ここでもお話したいと思います。

そのときには中学卒業・高校入学のお祝いとして、日本語と英語の対訳の聖書をプレゼントしました。プレゼントを渡し、さっそくその聖書を開いてもらい、短く話をしました。開いてもらったのは、ヨハネによる福音書第一章一節です。「初めに言があった」(一・一)。

英語と対訳でありますから、英語では何と書いてあるか。「言」にあたる英語として“the Word”と書かれています。英語の授業の最初のところでまず習いますが、“the Word”は丁寧に訳せば「その特定の言葉」となります。言葉は言葉でも、なんでもよいというわけではない。その特定の言葉なのです。

明治時代になり、日本語訳の聖書が作られるようになりました。多くの人が苦心したのは、“the Word”をどう訳すかです。普通に「言葉」と訳してみる。どうもしっくり来ない。そこである人は「言霊(ことだま)」と訳しました。普通の言葉ではないことを強調したわけですが、普段まったく使われない言葉でありますので、やはりこれもしっくり来なかった。

大正時代になりました。このときに文語訳の改訳聖書が出されました。そこに初めて「言」が使われました。葉っぱが取れたのです。これは良い訳だと多くの人が考えて、これ以降、ほとんどすべての日本語訳聖書がこれに倣うことになりました。なぜ葉っぱが取れたのか、諸説あるようです。神の言葉は葉っぱのように揺れ動かないからとか、葉っぱのように薄っぺらいものではないから、というのがその理由です。いずれの説もその通りだと思います。

このような話を新高校一年生たちにしながら、たとえ今後どこに行くことになっても聖書を携えて欲しいということ、それから行く先には教会があるだろうから、教会を訪ねて欲しいと伝えました。なぜならそこには本物の「言」があるからです。さらに言えば、主イエスこそが本物の「言」そのものなのです。私たち人間が使う言葉は葉っぱをどうしても付けざるを得ない「言葉」ですが、主イエスがお語りになる言葉や主イエスの存在そのものが「言」なのです。

「言」そのものである主イエスが言葉を聴く。本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエスに対するいろいろな評価が見られます。

四〇節には「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者がいたことが記されています。「あの預言者」というのは、ここではモーセのことを指しているようです。かつてのイスラエルを導き出した指導者の姿をここに見ていることになります。

さらに四一節では「この人はメシアだ」と言う者がいたことが記されています。「メシア」という言葉は「キリスト」という言葉です。この人はキリストだ、イエスというお方はキリストが、それを短くすると「イエス・キリスト」になるわけですが、主イエスのことを救い主、メシア、キリストだと評価する声です。

それらの声がある一方で、出身地のことを問題にする人たちもいます。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」(四一~四二節)。

聖書のどこに書いてあるかというと、旧約聖書のミカ書です。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所の第五章一節にこうあります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ五・一)。

主イエスがベツレヘムでお生まれになったことは、クリスマスの物語を記したマタイによる福音書でもルカによる福音書でも記されていることですが、当時はあまり人々には知られていなかったようです。むしろお育ちになったガリラヤ地方のナザレという場所がよく知られていました。出身地が違うのだからメシアではない、そう考える人たちもいて、「イエスのことで群衆の間に対立が生じた」(四三節)のです。

段落が改まって、四五節から先ほどの下役が登場します。「今まで、あの人のように話した人はいません」(四六節)と下役が答えると、ファリサイ派の人たちは反論します。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」(四七~四九節)。

間に挟まれている四八節は、反語の表現になっています。つまり、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」、いや誰一人としていない、という意味です。我々は誰もあの男など信じない、信じてしまう群衆は呪われている、とファリサイ派の人たちは言うのです。

ところが、そこへニコデモが登場します。ニコデモはすでに第三章に一度出てきた人物です。夜に人目をはばかって、こっそりと主イエスのところを訪ねてきた人です。そのニコデモのことがこのように紹介されています。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(三・一)。

ニコデモは「ファリサイ派」であり、かつ、「議員」でした。「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」、誰もいないと断言した直後に、「ファリサイ派」かつ「議員」のニコデモが現われる。登場の仕方がファリサイ派の人たちにとって皮肉なようですが、しかも主イエスに対して好意的な意見をニコデモは言うのです。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(五一節)。

それでもファリサイ派の人たちは、出身地のことを理由に主イエスは預言者ではない、もちろんメシアでもないと言い張ります。結局、最後のところまで主イエスのことをめぐって対立が生じるのです。

なぜ主イエスに対する評価がこんなにも別れるのでしょうか。それは一つには、主イエスの様々な言葉をどう聴くかということにかかってきます。主イエスの言葉には、慰められる言葉もあれば、厳しい言葉もあります。

例えば今日の聖書箇所の直前にこんな主イエスの言葉があります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(七・三七~三八)。主イエスの慰めに満ちた言葉として聴くことができます。

ところがもっと前に戻りまして二四節にはこうあります。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(七・二四)。これはファリサイ派の人たちに対する主イエスからの厳しい言葉です。判断の仕方が間違っているではないかという批判的な言葉です。主イエスの言葉にも様々な言葉がある。もちろん、聖書にも様々な言葉があります。これらの様々な言葉をどのように受け止めればよいでしょうか。

最近、私が読んだ本の中に、このように書かれていました。「問題であるのは、神の声が存在するかどうかではありません。神の声なら、多すぎるほどに存在しています。むしろ問題は、この声が命に至るものとして聞き取られるのか、それとも死に至るものとして聞かれるのかということです。」(メラー『魂への配慮としての説教』、一九頁)。

この本でも、同じ問題が取り上げられています。聖書にはいろいろな言葉がある。それらをどう聞けばよいのか。命か死か。どちらに向かっているのか。慰めの言葉は命に向かっている、そう理解できるかもしれません。それでは厳しい言葉はどうか。死に向かっているのか。そうではありません。命に向かっている。そう聴き取る必要があるのです。

主イエスに対する評価が分かれるのは、こういうところがポイントになります。ファリサイ派の人たちは、自分たちに対する主イエスの言葉が命に至るのではなく、死に至ると聴き取ってしまった。私たちもそのように思うならば、間違って聴き取ったことになるでしょう。だからファリサイ派の人たちはその言葉を殺すために、主イエスを十字架につけてしまったのです。

私が説教を学んでいます説教塾という交わりがあります。全国各地で例会が行われています。東京で行われる例会は音声の録音があり、私も先日、その録音を聴くことができました。そこで話題になっていたことは、説教の一つの目的が誤解を解くことにあるということでした。

今の日本の社会の状況を考えてみるとよいと思います。教会に来ていない方でも、イエスという人物がいたことは誰もが知っています。聖書という書物があることも知っています。キリスト教と言えば愛の宗教であることもたいていはよく知られています。私たちが伝道をする場合に、「イエス」の「イ」の字も知らない人に伝道するのではなく、少しは知っているけれども、誤解をして知っている人たちに伝道をする場合がほとんどです。その誤解を一つ一つ解いていく。それが伝道であり、今の日本における説教でも語られるべき一つの要素ではないかと言うのです。

ファリサイ派の人たちは、主イエスの鋭い言葉を聴き、心を閉ざしてしまいました。自分たちに向けられた批判の言葉として、死に至る言葉として受けとめてしまった。しかし本当のところはそうではありません。誤解をしてしまったのです。それゆえに有無も言わさず出身地だけで断罪してしまった。主イエスの言葉を無視したのではありません。無視できなくなってしまった。その言葉を殺さざるを得なくなってしまった。殺さなければ自分たちは生きていけないと思ったのです。それゆえに、主イエスは十字架にお架かりになることになりました。

私たちにとって必要なことは、主イエスの言葉をきちんと聴き取ることです。聖書の言葉を誤解せずに受け止めることです。確かに厳しい言葉もあります。慰められる言葉もあります。その二つの言葉をどのように調和させることができるでしょうか。主イエスの十字架を土台にして聴き取る以外にはありません。

私たちに対する厳しい言葉を、主イエスはすべて引き受けてくださいました。それが主イエスの十字架です。私たちがその厳しさから免れることができるように、そこから救ってくださった。それが十字架です。その十字架があるからこそ、私たちは厳しい言葉も、主イエスがすでに引き受けてくださった言葉として、慰めの言葉として聴くことができるのです。

ここでの群衆の一部も、下役たちも、ファリサイ派かつ議員であったニコデモも、少しずつその言葉を聴き取り始めています。「今まで、あの人のように話した人はいません」(四六節)、そのような中から神の言葉を聴き取っていく。どんな言葉でも命に至る言葉です。私たちにとって厳しい言葉も、赦された者として、姿勢を正される思いをもって聴くことができる。主イエスが私たちをそのようにしてくださったのです。だから私たちはイエスというお方を、キリストと呼ぶことができるのです。