松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年6月14日(日)
説教題「私のすべてが潤される」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第7章37〜39節

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

旧約聖書: エゼキエル書 第37章1~14節

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初にこうあります。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に…」(三七節)。仮庵祭と呼ばれる祭りの最中の出来事でありました。イスラエルの中でも最も重要で、最もにぎわいを見せる祭りの一つです。

仮庵祭というのは、最近の説教でも何度も触れていますが、仮庵の祭り、つまりテントの祭りと言うことができます。かつてのイスラエルの人たちがエジプトでの奴隷生活を抜け出し、四〇年にわたる荒れ野の旅をしました。そのときはずっと旅をしていたわけですから、仮住まいをしていたわけです。その仮住まいの頃を思い起こす。神が自分たちの先祖を導き出してくださった恵みを覚える。そのための祭りです。仮庵祭の期間中は、普段は家で生活していても、一週間ほどテント暮らしをしました。

荒れ野の四〇年の旅の間、食べ物や飲み物はどうしていたのだろうか、そう思われる方もあるかもしれません。そのことはきちんと旧約聖書が答えています。お腹がすいたとイスラエルの民は不平を言いました。そうすると神がマナという食べ物を与えてくださった。今度はのどが渇いたと不満を言いました。そうすると神が岩から水を出してくださいました。神がきちんと備えてくださったのです。

イスラエルの民は四〇年の荒れ野の旅を終え、定住生活をするようになります。地面を耕しての農耕生活が始まる。そうなると、雨が降るかどうかが死活問題になってきます。仮庵祭は収穫感謝の要素も次第に取り入れられていき、雨を降らせてくれるように祈り求める祭りでもあったようです。礼拝を司る祭司が聖書朗読をします。讃美歌が歌われます。祭司が祭壇に水を注ぎます。そうするとその水がそこから四方へと流れ出します。出エジプトのときに岩から水が出てきたときの象徴です。それが祭りの頂点のときになされたことであるようです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、水のことと霊のことが同時に記されています。主イエスの言葉が三七~三八節に記されています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(三七~三八節)。ここでの主イエスの言葉は水に関することです。

ところが続く三九節にこうあります。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(三九節)。この箇所はその直前に書かれている主イエスの言葉の解説です。主イエスは水に関することを言われたのだけれども、それは霊に関することであった。そう解説をしているのです。

聖書の中で、水と霊の関係は案外深いと言うことができます。旧約聖書の創世記の最初から、その関係のことが記されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記一・二)。ペンテコステのときによく読まれる聖書箇所ですが、ヨエル書にもこうあります。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」(ヨエル書三・一)。霊が水のように注がれると言われています。

新約聖書にもこうあります。「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(Ⅰコリント一二・一三)。パウロがコリント教会に宛てた手紙の中に、洗礼を受けた私たちは皆一つの霊を、まるで水を飲むようにして飲ませてもらったのだ。パウロはそう書いています。霊のことをあたかも水のように表現している箇所が多くあります。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所も、霊のことが記されています。エゼキエル書第三七章の箇所で、表現が特徴的なので、比較的有名な箇所でもあります。枯れた骨に霊が注がれます。五節にところにこうあります。「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」(エゼキエル書三七・五)。

エゼキエル書はバビロン捕囚の最中のことが書かれています。そしてそこからの回復のことが書かれています。バビロニアという強大な国にイスラエルの国が滅ぼされてしまった。枯れた骨になってしまったわけです。

ところがその骨に霊が吹き込まれる。生き返る。そのように回復をするのです。一四節にこうあります。「また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。」(エゼキエル書三七・一四)。これがすべて霊によってなされるのです。

エゼキエル書第四〇章から、破壊されてしまったエルサレムの神殿の再建の幻を、エゼキエルは見させられます。幻とは英語で言えばヴィジョンですけれども、これから起こる出来事をあらかじめ見させられるのです。第四七章では、再建されたエルサレム神殿から水が流れ出てくる幻を見ることになります。第四七章一~五節をお読みいたします。

「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。」(エゼキエル書四七・一~五)。

エルサレム神殿から水が流れ出してくる。まさに仮庵祭で象徴的になされていたことです。それが、水が注がれることであり、霊が注がれるということです。

主イエスの言葉に注目をしてみたいと思います。三八節に「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(三八節)とあります。注目したい言葉は、「内から」という言葉です。

「内」とは何でしょうか。何となく分かるようで、はっきりしない言葉かもしれません。新共同訳聖書では「内から」と訳されていますが、かつての口語訳聖書、またさらに前の文語訳聖書ではいずれも「腹」と訳されていました。お腹から水が出るということです。ところがこれとは対照的に、新改訳聖書では「心の奥底」と訳されています。人間の内臓というよりは心の問題として考えているのです。

聖書の中に、この言葉は何度も出てきています。ほとんどが食物を消化するための腹とか胃の意味で使われています。あるいは女性の胎内のことを表している言葉です。今日の聖書箇所で使われている「内から」というのは、そのような意味とは少しニュアンスが違うかもしれません。単なる人間の体の臓器のことを指しているのでもない。女性の胎内を指しえているのでもない。単なる心だけを指しているのでもない。人間の最も深いところの内部、その「内から」というように考えることができます。

今日の説教題を「私のすべてが潤される」と付けました。なぜならその最も内側のところから生きた水が流れ出るからです。その中心から生きた水が流れ出て、全身にまで行き渡る。私のすべてが潤されるのです。

先週、私はいろいろなところに出かける用事がありました。月曜日から火曜日にかけては教区の会議がありました。木曜日には日本キリスト教社会事業同盟の集いがあり、その開会礼拝を担当するため、浜松にまで出かけてきました。この集いは木曜日と金曜日の二日間にわたって行われましたが、開会礼拝とその後の基調講演だけ伺って、松本に帰ってきました。

基調講演をされたのはクリスチャンの方であり、政治にも携わり有名になられた方ですが、それまでは社会福祉の働きをしてこられた方です。基調講演の中で、いろいろな話をしてくださいましたが、その中でこんな話をしてくださいました。

キリスト教児童養護施設で働かれていたときのことです。実の親から育ててもらえない子どもを預かることになった。母親は夫から暴力を受け、すでに離婚をしていました。子どもは男の子です。その子がだんだんと夫に顔が似てくる。夫のことを思い出してしまい、どうしても愛情を注いで育てることができない。そんなふうにして預けられた男の子です。

それでも毎年、誕生日の日に、プレゼントを届けにやって来る。しかし自動車から片足だけを出したような状態でプレゼントを渡し、渡したらすぐに去っていく。そのような訪問が年に一回だけですが続けられていきました。時が経っても、その子は実の母から愛されることはなかったのです。

一五歳の誕生日のときがやって来ました。やはり今年も例年と変わらず同じような感じでした。そこで、その施設で働いている者として決心をして、その一五歳になったばかりの少年に、あなたは母親からは愛されていない、そのことを受け止めさせようとしたのだそうです。昔、一五歳は大人として元服をする年齢でもありました。この子の将来のことを考えて、いつまでも母親のことを引きずらせないで歩ませてあげたい、そんな配慮でした。

実際にその一五歳になったばかりの少年に言ったのだそうです。「あなたは母親に愛されていないのだ」と。しかし少年から返ってきた答えはこうでした。「僕のお母さんのことを悪く言わないで」。

少年からのこの言葉に、大変なショックを受けたのだそうです。どこからこんな言葉が出てくるのだろう、と。母親から愛されていない、普通だったら、母親のことを恨んだり、悪く言ったりするはずなのに、なぜこのような言葉がこの少年から出てきたのか。思い当たることが一つだけありました。朝の礼拝の時間です。

その施設では朝に礼拝が行われていました。聖書が読まれていた。そこから愛を知った。愛する、愛されるということを、そして何より神が私たちを愛しておられることを、この少年は知っていったのではないか。だからそのような言葉が出てきたのではないか。まさにその少年の「内から」流れ出てきた言葉だと私は思います。

キリストはこの少年を招いておられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(三七節)。実際にのどが渇いているなどということではありません。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われます。そこに条件はありません。あえて条件をあるとすれば、「渇いている人」であることです。

キリストの招きに応えるか、それとも応えないか。私たちもその問いの前に立たされています。応えないという選択をしたとする。なぜそちらを選ぶのか。それは、渇いているということを知らないからです。実際に渇いていないというわけではない。本当は渇いているのだけれども、自分は渇いていないのだと考えている。しかし自分は渇いていると知っている者はキリストのもとへやって来ます。あの一五歳の少年もよく知っていた。私たちもそうです。

ある人が今日の聖書箇所をめぐって、このような想像をしています。祭りがピークを迎えていた。祭司が祭壇に水を注ぎます。人々が見守っています。祭りのピークのときに、人々は声も立てずにいたのではないか。静けさの中で、主イエスが「立ち上がって大声で言われた」(三七節)のではないか。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と。

飢えや渇きを知っている者は誰でも来なさい、これがキリストの招きです。そこに何の条件もありません。立派な行いをしている者は私のもとに来なさい、キリストはそう言われたのではありません。そうではなく、誰でも来て、飲みなさい。そうすると生きた水が川となって流れです。主イエスはそう言われ、招かれているのです。

最後の三九節の後半のところは、少しおや、と思われたかもしれません。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(三九節)。「まだ」という言葉が二度にわたって使われています。このときは「まだ」。このときは保留されていたということです。

「栄光」をまだ受けておられなかったと記されています。「栄光」という言葉は、ヨハネによる福音書の中でも特徴的な言葉です。普通に「栄光」と言えば、輝かしい誉れとか、光栄のことを意味します。それが一般的な意味です。ヨハネによる福音書で、主イエスが栄光を受けるというのは、主イエスが十字架にお架かりになることという意味で用いられています。十字架に架かれば、主イエスが栄光を受けるということです。

なぜ十字架の死が、栄光なのでしょうか。栄光は、死と正反対のような言葉です。不思議な表現です。しかし主イエスの十字架での死の意味が明確に表れている表現でもあります。なぜなら、主イエスの十字架での死によって、私たちが生きた命を得るからです。同じヨハネによる福音書にある主イエスの言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(一二・二四)。

主イエスが渇きの中にいる私たちのために死なれる。主イエスは十字架の上で「渇く」(一九・二八)と言われました。私たちの渇きを引き受けてくださった。その結果、主イエスは死なれるけれども、私たちが渇きを潤されて、命を得る。だから主イエスの十字架が「栄光」になるのです。これが私たちに霊が注がれることであり、私たちの内に命が宿ることなのです。

今日の聖書箇所に書かれている通り、二千年前のこのときは「まだ」でありました。保留されていました。しかしもうすでに主イエスの十字架は起こった出来事です。今は保留されていないのです。十字架後に主イエスが弟子たちに表れたときの箇所を、最後にお読みしたいと思います。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」」(二〇・一九~二三)。

聖霊が与えられています。私たちの最も深い内側から私たちに潤いを与える生きた水です。私たちの罪を赦し、私たちを愛で満たす生きた水です。主イエスが「すでに」私たちに与えてくださったのです。