松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20150607

2015年6月7日(日)
説教題「救い主を捜す」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第7章32〜36節

ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

旧約聖書: 箴言 第8章17節

久しぶりにヨハネによる福音書に戻ってきました。この福音書から御言葉を聴くのは三週間ぶりのことになります。先週は松本地区の交換講壇がありました。先々週はペンテコステの礼拝でしたので別の聖書箇所から御言葉を聴きました。再びヨハネによる福音書の続きの箇所から御言葉を聴きます。

今日の聖書箇所は第七章の途中の箇所でありますが、この第七章は一つのまとまりを持っています。少し振り返る必要もあるかと思いますので、第七章の最初から、どういう話だったかを確認したいと思います。

第七章の最初のところで、主イエスがおられたところはガリラヤでありました。主イエスの兄弟たち、つまり弟たちから祭りに合わせてユダヤに行くように言われます。しかし主イエスはそれを拒否なさる。

ところが一〇節のところで、主イエスはその言葉に反してエルサレムの都に上って行かれました。主イエスはエルサレムの街の人たちの間で有名になっているところがありましたので、人々は主イエスの噂をしていました。一四節のところから、主イエスが人々の前に公然と姿を現します。いろいろな話をしたり、議論をしたりします。それでもやはり、この男はいったい何者だという話がなされます。それが、今日の聖書箇所の直前までの話です。来週の聖書箇所のところで、仮庵祭という祭りの最中でしたが、祭りのピークを迎えることになります。

今日の聖書箇所のところは、主イエスが逮捕されそうになるところから、話が始まっています。「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」(三二節)。

主イエスの十字架への道が一段と色濃くなっていたと言えますが、祭司長たちとファリサイ派の人たちは、公然と話をしていた主イエスをひとまず抑えるために、事情聴取をしようとしていました。祭司長たちとファリサイ派の人たちが自ら主イエスのところに来たわけではありません。下役たちを遣わしたのです。そこで、今日の聖書箇所の一つのテーマが、主イエスのことを「捜す」ということになります。

「捜す」という言葉が出てきました。日本語の「さがす」には、二種類の漢字を当てはめることができます。「捜す」と「探す」です。まずは「捜す」の方ですが、「捜索」というように使います。行方不明の人を捜索するという場合、行方不明になった人がいるという前提ですから、すでに知っている人を捜すことになります。

それに対して、「探す」という方は「探究」というように使います。例えば、真理を探究するなどというように使いますが、こちらは未だに分からないものを探すというように使います。もっと厳密な定義もあるでしょうけれども、ひとまずこのように漢字の違いを考えることができます。

この「捜す」という言葉の元のギリシア語の言葉は、新約聖書で一一七回も出てきます。たくさん出てくる言葉の一つです。その中でもヨハネによる福音書において三四回も使われています。他の福音書や書簡と比べてこれは最多です。しかも第七章だけで九回も用いられていて、本日、私たちに与えられた聖書箇所では二回出てきます。「捜す」ということを立ち止まって考えるのにふさわしい箇所だと言えます。

ただ、「捜す」と「探す」に分かれていると申し上げましたが、元の言葉が違うのかと言えば、そういうわけではありません。例えば、今日の聖書箇所では「捜す」となっていますが、別の聖書箇所ではこうあります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ七・七)。主イエスの有名な言葉ですが、「探しなさい」と言われています。「探す」というもう一方の漢字が使われています。しかし元の言葉は同じです。

ヨハネによる福音書第七章では九回用いられていると申し上げましたが、どのように使われているのでしょうか。第七章一一節にはこうあります。「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。」(七・一一)。ここでは「捜す」という方が使われています。

一八節にはこうあります。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」(七・一八)。ここには「さがす」という日本語の言葉は見られませんが、「求める」という言葉があります。この「求める」という言葉が「さがす」という言葉なのです。つまり、「自分勝手に話す者は、自分の栄光を『さがす』…」ということになります。

そして今日の箇所の三四節と三六節にまったく同じ言葉が二度繰り返されています。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」(三四、三六節)。日本語への翻訳の仕方は様々ですが、元の言葉の意味としては、「捜索する」「探究する」「求める」という意味があります。何かを追い求めることです。

さて、言葉の意味は分かったとして、問題は私たちがきちんと捜せるかどうかです。この場合の捜すとは主イエスのことを捜すのですが、私たちはきちんと主イエスのことを探し出すことができるでしょうか。今日の説教の説教題を「救い主を捜す」というように付けました。救い主でも、救いでも構わないのですが、どのように捜すことができるでしょうか。

教会前の看板にこの説教題を先週一週間、掲げておきました。それをご覧になった方はどう思われたか。教会や聖書を知らずに、どのようにそれを見いだすことができるのだろうか。どこに見つけることができるのだろうか。そんなように考えさせられます。私たちは聖書の中に捜すことができると知っています。礼拝の説教の中で聴くことができると知っています。別のキリスト者から教えられ、伝えられるものであると知っています。関係する本の中から示されることがあるとも知っています。

しかし私たちはも以前は知らなかったのです。救いを求めていたり、救い主をさがしていたりしたとしても、的を射る形でなかなか見いだすことができなかった。そもそもまったく知らなかったのであります。だから「救い主を捜す」という説教題よりも、まったく知らなかったものを探すわけですから、「救い主を探す」という説教題にした方がよかったかもしれません。

私たちも最初は主イエスがどのような救い主であるかを知らず、的を外した探し方をしていたかもしれませんが、本日、私たちに与えられた聖書箇所に出てくるユダヤ人たちもそうでありました。三五~三六節にこうあります。「すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」」(三五~三六節)。

三五節の言葉は皮肉が込められた言葉です。「離散」という言葉が出てきました。元の言葉では「ディアスポラ」という言葉です。イスラエルの歴史の中によく出てくる言葉なので、そのまま覚えておいても損はない言葉です。ディアスポラ、つまり離散したユダヤ人たちがいました。イスラエルの歴史と深いかかわりがあります。

紀元前六世紀、イスラエルの国は強大なバビロニアという国に滅ぼされてしまいます。その時に、バビロン捕囚というものが起こります。イスラエルの国の主だった人たちが遠い異国のバビロニアに連れていかれてしまったのです。残された人たちも、町が破壊し尽くされてしまったので、同じところで住むわけにはなかなかいきませんでした。そこで、世界各地の街に住む場所を求めて散っていったのです。これが離散、ディアスポラの始まりです。

バビロン捕囚は数十年で終わり、連れて行かれた人も戻ることができ、国の再建が始まったのですが、様々な事情から避難先から帰ってくることができずに、各地に住み続けたユダヤ人たちも多かった。このようにして、世界各地で暮らすユダヤ人たちが存在するようになりました。

ついでの話をいたしますと、主イエスの十字架、復活が起こった後まもなく、今度はエルサレムがローマ帝国によって破壊されるという出来事が起こります。熱狂的なユダヤ人たちが反乱を起こしたからでありますが、イスラエルは二度目の滅亡を経験するわけです。このときも各地にユダヤ人が散らざるを得なかった。ディアスポラとはそういうことを意味しています。

ここでのユダヤ人たちは皮肉として主イエスにこう言っているのです。あなたはここエルサレムに来たが、自分のことを捜せないと言う。それではエルサレムを離れるのか。離れてディアスポラのユダヤ人たちのところへ行くのか。そんな皮肉を言っているのです。

その後の教会の歴史を考えてみますと、まさにこの皮肉だった言葉がそのまま実現したようなところがあります。もちろん主イエスはディアスポラのユダヤ人のところに行かれたわけではありません。エルサレムで十字架の死を死なれ、復活され、天に上げられます。その後、使徒たちによる伝道が始まりました。使徒たちはどこへ行ったか。まず行ったのは、各地のユダヤ人たちのところでありました。そこが伝道の拠点となり、そこに教会が建てられていったのです。

確かにこれは皮肉な言葉です。しかしその皮肉の言葉がそのまま実現をしていく。こういうことは、聖書に書かれている大きな特徴です。神が不信仰だった者を信仰者に変えてくださる。そのような話は実にたくさんあります。例えば創世記にサラという人が出てきます。老齢になっていましたが、子どもが与えられるという約束の言葉が神から与えられます。しかしその神の言葉を信じず、不信仰のうちに笑ってしまいます。そんなことがあるわけがない、と。

ところが本当に子どもが与えられる。サラは喜びのあまり、不信仰な私の笑いを喜びの笑いに変えてくださったと喜びます。そんなわけで、子どもの名前はイサクになりました。その名前の意味は「笑い」です。そのほかにも、人間の悪を神が善に変えてくださったり、人間の嘆きを讃美に変えてくださったり、そのような出来事は実にたくさんあります。それが聖書の大きな特徴だからです。

このことに関連する話を一つしたいと思いますが、先週の火曜日と水曜日、東海教区の婦人研修会という集会が行われました。講師は左近豊先生という方です。東京の美竹教会の牧師であり、大学でも旧約聖書を教えておられる旧約聖書の先生です。

研修会では旧約聖書の様々なことを取り上げてお話をしてくださったわけですが、特に印象的だった言葉があります。それは、「カインは神にくらいつくことを止めてしまった」という言葉です。カインとは旧約聖書の創世記の最初に出てくる人物です。アダムとエバの息子であり、兄がカイン、弟がアベルと言います。

兄カインは定住の生活をし、大地を耕し、農作物を得て、実りを神に献げます。弟アベルは定住生活ではなく、羊飼いとなり、初子を神に献げます。ところがどういうわけか、神は兄カインの献げものには目を留められず、弟アベルの献げものに目を留められます。そのときにカインの様子を、聖書はこう記します。「激しく怒って顔を伏せた」(創世記四・五)。

左近先生はこのときカインは神にくらいつくべきだったと言われます。怒るには怒るかもしれませんが、その怒りを神にまっすぐとぶつける。神さまどうしてですが、なぜ私の献げものに目を留めてくださらないのですが、そう神とやり取りをすべきだったと言われるのです。

詩編の話もしてくださいました。詩編には全部で一五〇の詩が収められています。詩であり、歌であり、祈りの言葉です。一五〇の歌をジャンル別に分類をすることがあります。そのジャンルの中で、嘆きの歌が一番多いのです。全体の四割が嘆きの歌。嘆くことがあるから、歌が生まれ、祈りが生まれていると言うこともできます。

また、旧約聖書に哀歌という書簡があります。哀しい歌と書く哀歌です。先ほどのバビロン捕囚と関連があるのですが、哀歌の前にはエレミヤ書があります。預言者エレミヤの頃は、バビロン捕囚の直前、そしてまさにバビロン捕囚期でありました。エルサレムの都が破壊されてしまう。国の主だった人たちが連れて行かれてしまう。ディアスポラとして多くの人が去ってしまう。

その後のエルサレムの荒廃ぶりを歌った歌が哀歌です。神さま、なぜこのようなことが起こるのですか、悲惨な生活を強いられている私たちをしっかりご覧になってください。そのように嘆き続け、最後はこのように哀歌が閉じられています。「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました。」(哀歌五・二二)。

左近先生はこのような旧約聖書の箇所を紹介してくださり、そしてこう言われます。神は私たちにきちんと嘆く場を与えてくださるのだ、と。このような悲惨なことが起こる。そのようなときに、神がおられないのではなく、むしろ神が黙っていてくださる。私たちの嘆きに耳を傾けていてくださるのだと言うのです。

「いつも喜んでいなさい」というような言葉を聞くと、なかなかいつもは喜べないと思われるかもしれません。この聖書の言葉は、ぬか喜びをする喜びに生きることではもちろんありません。礼拝に来て、無理やり喜ぶ必要もありません。悲しいことは悲しいのです。しかし神はきちんと私たちの嘆きを嘆かせてくださいます。聞いていてくださいます。そのような中で、イエス・キリストの十字架と復活の出来事があったということを知る。嘆きの中でも変わらぬ喜びがあることを思い起こす。嘆きを讃美へと変えてくださるのです。

私たちは救いを求めて、救い主を捜して、さまよい続けていたことがありました。的を射ない捜し方をしていて、ちっともたどり着くことができなかったのです。しかし神の言葉を聴き、聖書を読み、信仰の友と語り合う中から、本当の救い主のことを知るようになります。そのお方を信じるようになります。

今日の聖書箇所では、「わたしを捜しても、見つけることがない」(三四節)と主イエスは言われます。一緒にいた弟子たちは、どのような思いでこの言葉を聞いたでしょうか。しかしやがてこの言葉は変わっていきます。十字架の直前の主イエスの言葉をいくつか挙げます。いずれもヨハネによる福音書の第一四章の言葉です。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(一四・一~四)。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(一四・一八~一九)。

「心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」(一四・二七~二八)。

これらの言葉は、このときは弟子たちだけが聞いた言葉です。主イエスは一方では去って行かれる。しかしきちんと私たちのための備えをして、戻って来てくださると約束してくださっています。主イエスは去って行かれるだけでなく、きちんと私たちが捜して、見いだすことができるようにしてくださいます。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箴言の箇所も言っています。「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす」(箴言八・一七)。

本当の救いを見いだすことができず、本物の救い主を捜し出すことができなかった私たちであります。今日の聖書箇所でも、ユダヤ人たちがまったく外れたことを言っていますが、私たちもそうでありました。そんな中でも、主イエスは十字架へとお進みくださり、私たちの罪や重荷をすべて背負って、十字架にお架かりになってくださいました。それが、私たちの嘆きに対する神からの答えです。

神は黙って私たちの嘆きを聞いていてくださいます。その上で、十字架にお架かりになった主イエスをお示しくださいます。説教によって、聖書によって、信仰の友の言葉によって、私たちは私たちの救い主である主イエスのことを知る。私たちの嘆きをすべて背負ってくださったお方です。だから私たちは安心して嘆くことができます。その私たちの嘆きを、神は喜びへと変えてくださるのです。