松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年5月17日(日)
説教題「救いはどこから来るのか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第7章25〜31節

さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

旧約聖書: 詩編 第121編

私が使っています手帳は「牧会手帳」と呼ばれているものです。牧師にとって便利な手帳です。もちろん使い勝手があまりよくないところもありますが、便利な機能もたくさんあります。その一つの機能として、教会の暦がきちんと入れられているということがあります。

先週の木曜日は五月一四日でありますが、この日の欄に「昇天日」と記されています。昇天とは天に昇るということです。主イエスが天に昇られた日、それが「昇天日」です。

使徒言行録の最初に、主イエスがお甦りになられて、四十日にわたって使徒たちと一緒に過ごされたことが記されています。そして天にあげられ、その十日後に聖霊が注がれて、ペンテコステの出来事が起こった。イースターから五十日目になります。ペンテコステとは、聖霊を受けた使徒たちが神の言葉である説教を語り、それを聴いたものが信じて洗礼を受け、そのようにして教会が生まれた。教会の誕生日とも言われています。先週の木曜日の「昇天日」から十日後、つまり来週の日曜日がペンテコステの日になります。

「牧会手帳」には、このような教会の暦がきちんと記されているわけですが、あまり「昇天日」については注目されないかもしれません。イースター、ペンテコステ、クリスマスを私たちは喜んで祝いますが、「昇天日」を特に祝うわけではない。特別な集会などは行われません。けれども出来事そのものは、私たちにとってとても重要な意味を持ちます。

主イエスが天にあげられた。ということは、今ここにはおられないということです。ということは、かつてはこの地上におられたということです。そしてかつて地上におられたということは、その前は地上ではないところにおられたということになります。

主イエスはいったいどこから来られたのか。今日の聖書箇所にこうあります。「「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」(二八~二九節)。

主イエスはこの言葉を「大声で」(二八節)言われました。なぜ大声を出されたのか。いろいろな考えができるかもしれませんが、とにかく大事なことだったからです。自分がいったいどこから来たのか。それは父なる神のもとから派遣されてきた。父なる神は天におられますから、言い換えると天から来られたということです。

そして次の聖書箇所になりますが、三三~三四節にこうあります。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(三三~三四節)。主イエスは自分をお遣わしになった方のもとへ帰ると言われています。つまり、主イエスは天から来られて、天にお帰りになられると予告しておられるのです。

天から遣わされて、天にお戻りになる。このことは私たちの信仰生活にとって、極めて大事なことになります。主イエスが十字架にお架かりになって死なれました。そしてお甦りになられた。その後、どうされたのか。今も地上におられるのか。そうではありません。天にあげられました。再び死なれたのではありません。だから主イエスは今も生きておられます。今も生きて働いておられます。どこにおられるかと言うと、天におられるのです。

天とはいったい何でしょうか。聖書の中でもしばしば「天」という言葉が出てきます。聖書の中で使われている天という言葉は、いろいろな意味が込められて使われています。例えば「天と地」というように使われます。神によって造られた被造物全体のことが考えられています。単に「空」というような意味で使われる場合もあります。

これとは対照的に「天の国」というようによく使われます。「天国」「神の国」と言ってもよいわけですが、これはどこかの場所を表しているわけではありません。この場合の「天」とは「神がおられるところ」という意味です。神がおられ、神がご支配されているところです。時間や空間に制約されないところです。そこに神がおられます。

主イエスもその天にあげられた。だから主イエスは今も生きて働いておられると私たちは信じることができます。全世界をご覧になり、私たちの祈りを聞かれ、必要な助けを与えてくださる。主イエスが天におられるからこそ、可能なことです。もし主イエスが今もなお地上のどこかにおられるとすれば、それは大変困ったことになります。もしも主イエスが地球の裏側におられたら、どんなに声を大にして叫んで祈ったところで、地球の裏側には届きません。

しかし主イエスは天におられる。時間や空間に制約されないところにおられる。だから主イエスの名によって祈る私たちは、いつでもどこでも祈ることができるのです。そして主イエスがその祈りを聞いていてくださるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第一二一編です。「都に上る歌」という表題が付けられています。これからエルサレムの都に礼拝をするために上る。巡礼の歌であり、出発前の祈りの歌です。

最初のところでこのように歌います。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」(詩編一二一・一)。これからエルサレムに向けて出発をする。険しい山を越えて行かなければならない。あの山々から私の助けが来るのか。いや、そうではない。「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」(一二一・二)と続けて歌う。助けの源が天地を造られた主、つまり父なる神から来るのだと、詩人は歌うのです。

私たちの助けがいったいどこから来るのか。救いの源はいったいどこにあるのか。そのことを踏まえていないと、今日の聖書箇所を理解することができないでしょう。今日のこの聖書箇所の舞台はエルサレムになります。このときのエルサレムには様々な人たちがいたようです。礼拝のために都に上って来ていた人たちもたくさんいました。

最初の二五節に「エルサレムの人々」とあります。この人たちはエルサレムの街の住人たちであり、最近の動きもよく知っていたようです。二五~二六節にこうあります。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」(二五~二六節)。この言葉に表れている通り、エルサレムの街の住人たちは、主イエスに対する殺意が芽生えていることを知っていました。

ところがその主イエスがエルサレムの街で堂々と語っている。誰からも咎められない。もしかすると、お偉い方の議員たちからも認められたのではなかろうかと推測するのです。それではイエスという男が本当に救い主メシアなのか。半信半疑ながらも、彼らが最終的に出した答えはノーでありました。なぜか。二七節にこうあります。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」(二七節)。

当時のユダヤ人たちには、隠れたメシアという考えがあったようです。例えば旧約聖書のマラキ書第三章一節にこうあります。「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」(マラキ書三・一)。こういう聖書の言葉から、自分たちの救い主は突如現れる。だからその出身地などあらかじめ知らないはずだと考えていたのです。

また、旧約聖書のミカ書第五章一節にはこうあります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ書五・一)。主イエスがお生まれになったクリスマスの出来事が、マタイによる福音書とルカによる福音書に記されています。両者ともに記されている通り、主イエスは「ベツレヘム」でお生まれになりました。

このミカ書の箇所には「ベツレヘム」という出生地がはっきりと書かれていますが、しかし「出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」とも書かれています。これらのことを踏まえて、救い主メシアは謎めいた人であり、出身地などベールに包まれていて、突如現れると考えられていたようです。

ヨハネによる福音書第七章の終わりの箇所に、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(七・五二)と言われています。ガリラヤは主イエスの育ちの地、出身地です。そういう出身地のはっきりと分かっているメシアはいないはずだ。だからイエスという男はメシアではない。結論としてはノーだ。エルサレムの街に住むユダヤ人たちはそう考えたのです。

今日の説教の説教題を「救いはどこから来るのか」と付けました。これは案外、大事な問いと言えるかもしれません。救いはどこから来るのか。単に出身地だけの問題なのか。明らかにそうではないはずです。では私たちは「どこに」救いを求めるのか。私たちも何らかの救いを求めます。人に対して求めたり、物に対して求めたりすることもあるでしょう。しかし本当の救いは「どこから」来るのでしょうか。謎めいたところから来るのでしょうか。その源はどこにあるのでしょうか。その源が確かでないと、本当の救いにはなり得ません。

主イエスは二八節のところでこう言われています。「わたしは自分勝手に来たのではない。」(二八節)。直訳すると「私は私自身から来たのではない」となります。つまり、自分の由来は自分自身ではないということです。そうではなく、私を遣わした方がおられる。その方が天の父なる神である。私はその方を知っているが、あなたがたはその方を知っているか。主イエスはそう言われているのです。主イエスの源は父なる神です。

当時のユダヤ人たちが思い描いていた救いとは、自分たちを支配しているローマ帝国からの解放でありました。その解放を成し遂げてくれる人が救い主メシアであったのです。そういう救い主メシアが現われないものか。ユダヤ人たちは突如、そのメシアが現われることを期待していた。

しかしよく考えてみると、ローマからの解放という救いは、別に神の元から遣わされなくてもできることです。優れた普通の人間でも、もしかしたら解放できるかもしれません。歴史を振り返ってみると、間もなくユダヤ人たちは反乱を起こし、エルサレムの神殿がローマ軍によって破壊されてしまいます。イスラエルは国を失う。その後、ローマの支配は続きましたが、次第に衰退していき、やがては滅亡します。

ローマ帝国はなくなった。それではユダヤ人は幸せになったかと言うと、そうではありませんでした。再び、何らかの救いを求めなければならなくなる。いったい救いとは何か。また考え直さざるを得なくなるのです。

私たちも同じです。何らかの救いを求め、それが与えられることを願う。突如、それが与えられることもありますし、与えられないままで終わることもあります。その救いの問題がひと段落したところで、果たして自分が幸せになっているか。そうではない。また別の救いを求めなければならない。私たちも二千年前のユダヤ人たちと大差ないことを願っているかもしれません。私たちも本当の救いの源がどこにあるのか、よく考えなければなりません。

今日はギデオン協会の方々が礼拝にご出席くださっています。毎年、恒例になっていますが、礼拝直後に短く証しを伺い、ギデオン協会の働きを覚えて有志の献金を募ります。ギデオン協会の働きの中心は、聖書を配布することです。聖書を配布するということは、救いの本当の源が何であるか、その答えを配布しているということにもなります。

昨年のクリスマスのことになります。ギデオン協会松本支部のクリスマス会にお招きを受けました。メンバーとご家族の方々と一緒に礼拝をし、食事を共にしました。メンバーの皆さまが一年を振り返って、また私と初対面の方々も多かったので、自己紹介をしてくださいました。

その中である方が、中学生に聖書を配布したときのことをお話ししてくださいました。ただ「おはようございます」と挨拶をして聖書を配るのではなく、何か一言添えて聖書を配った方がよいのではないか。そう考えて「ここにあなたの悩みの答えがあります」とか、「人生を豊かにする言葉があります」などという言葉をかけながら、中学生に聖書を配布したのだそうです。なるほどと思いました。私がもし配布するならば「世界のベストセラーの聖書をどうぞ」などと声をかけるかもしれません。

ギデオン協会の方々はそのように工夫をして、中学生たちに聖書を配布しておられる。聖書を配ることによって、本当の救いを知ってほしい、本物の救い主に出会ってほしいとの願いを込めてのことです。

中学生たちはいろいろな悩みや苦しみを抱えていることでしょう。それゆえにいろいろと願っていることもあるでしょう。中学生はどんな救いを求めているのか。どんな救い主を求めているのでしょうか。ギデオン協会の方々と私たちの願いは、中学生たちが聖書に触れ、本当の救い主である主イエス・キリストと出会うことです。主イエスもヨハネによる福音書の中で言われます。「聖書はわたしについて証しをするものだ。」(五・三九)。

聖書にはいろいろなことが書かれています。人間がいかに罪深いかということも書かれています。神とはどんな方なのか、信仰とは何か、そのことも書かれています。しかし何よりも聖書が伝えていることは、救いのことであり、救い主のことです。救い主である主イエス・キリストのことが書かれ、主イエスがいかに私たちを救ってくださるのかが書かれているのです。

主イエスは、悩み苦しみを抱え、救いを求めている私たちのために、天から来られました。ヨハネによる福音書の全体にも、そのことが書かれています。最初のところにこうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(一・一)。言とは主イエスのことです。言が最初からあった。そしてその言が天から私たちのところに来られました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(一・一四)。

続けて書かれているのは、主イエスの地上でのご生涯の様々なことです。その中で、主イエスはこう言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(三・一六)。主イエスが何を与えてくださる救い主なのかが、はっきりとここでは言われています。

十字架にお架かりになる直前には、こう言われます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(一四・二~三)。主イエスが天に私たちのための場所を備え、私たちを迎えてくださる。そのような約束をしてくださいます。

このように言われた後、十字架にお架かりになり、復活され、弟子たちに現れます。ヨハネによる福音書の最後のところで、このように記されます。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの何より命を受けるためである。」(二〇・三一)。

主イエスが天から来られたのは、私たちが抱えるあらゆる重荷を私たちの代わりに背負うためです。主イエスは十字架にお架かりになり、死んでくださいました。いろいろな悩みや苦しみを抱え、救いを求める私たちです。その悩みや苦しみがすべて主イエスによって背負われ、取り除かれている。主イエスはそのようにして私たちを救ってくださるのです。重荷を取り除かれた新しい命に私たちは生きることができます。

主イエスがこのことを成し遂げることができるのは、主イエスが天から来られたからです。私たち人間にはできないことです。すべてのものを造られ、支配しておられる天の父なる神から遣わされたからできるのです。そして主イエスは天にあげられ、今も天におられる。今もなお、私たちのために生きて働いてくださっているのです。