松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年5月10日(日)
説教題「うわべの判断、本物の判断」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第7章10〜24節

しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

旧約聖書: イザヤ書 第66章1~4節

本日の説教の説教題を「うわべの判断、本物の判断」と付けました。このような説教題を付けたのは、二四節のところにこのように記されているからです。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(二四節)。裁く、裁きという言葉がありますが、判断するということです。右と左のどちらに分けるのか、その判断をする。右の道に行くか左の道に行くか、その判断をする。その判断をうわべでするのか、それとも本当の正しい判断をするのか、主イエスはそのように問われています。

「うわべ」という言葉が出てきました。これはとても興味深い言葉です。元のギリシア語の言葉では、もちろん「うわべ」と訳せますが、「顔」とも訳することのできる言葉です。あるいは外観とも訳すことができます。新約聖書のほかの箇所でもこの言葉が使われていますが、それらの箇所では「顔」と訳されています。

ヨハネによる福音書では、主イエスが友ラザロを復活させられますが、ラザロの復活直後、「顔」は覆いで包まれていましたので、主イエスは「ほどいてやって、行かせなさい」(一一・四四)と言われます。ここで使われている「顔」という言葉が同じ言葉です。こう考えますと、「うわべ」を気にするとは、「顔」を気にすることであり、その人の「外観」を気にすることであるということが分かります。

顔とは不思議なものです。体の一部でありながら、ただの一部にすぎないということはありません。私たちは生きていく中で、顔を繕っていくことを覚えます。たとえ心の中は怒りで燃えていたとしても、顔を繕い、作り笑いさえすることができます。人間はそのようにして顔をコントロールする。顔を繕うのです。

主イエスはここでその「顔」という言葉を使われました。「うわべ」で裁くのを止めなさいと言われる。その直前の二三節にこうあります。「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」(二三節)。全身を癒したことが出てきますが、このことは第五章の最初のところに記されていることです。ベトザタの池で三十八年も病に苦しんでいた者を癒した。場所はエルサレムの神殿近くでありました。

今日の箇所でも主イエスはエルサレムに来られましたので、そのことがまだ人々の間で尾を引いていたことが分かります。なぜなら主イエスが安息日にその癒しを行ったからです。休まなければならない安息日に、労働をしたのではないか、そのようにとがめられていたからです。主イエスはそれに対して、あなたがたは「うわべ」で判断をするのか、それとも本物の判断をするのか、どちらなのだと迫られるのです。

人間として、どう気になるのがこのうわべです。顔や外観を気にするということです。私たちは人をうわべで判断しますし、人からうわべで判断されますので、自分もせめてうわべだけは整えようとします。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書の箇所にも、うわべの問題のことが記されています。形ばかりの礼拝を行うことに対する批判であり、うわべの礼拝に対する批判です。

第六六章の一節から二節の前半にこうあります。「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると、主は言われる。」(イザヤ六六・一~二)。

天地万物、すべてのものは神が造られたものです。それなのに、人間が神のための住まいである神殿を建てようとする。エルサレムに神殿を最初に建てたのは、ソロモンという王様です。ソロモンの父であり前の王であるダビデが、その計画を立てました。しかしその計画を立てたとき、神から言われてしまいます。私が今までに自分の住まいを建てよと求めたことが一度でもあるか、と。ダビデはそのとき神のその言葉に従い、神殿を建てませんでしたが、息子のソロモンのときに神殿が建てられることになりました。

このようにして神殿が建った。神殿が礼拝の中心地となり、人々の心のよりどころともなりました。それはそれでよかったのかもしれませんが、しかしそのような神殿に心を奪われてしまい、神への礼拝も見せかけの礼拝になってしまいます。

イザヤ書の続く箇所にこうあります。「牛を殺してささげ、人を打ち倒す者。羊をいけにえとし、犬の首を折る者。穀物をささげ、豚の血をささげる者。乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者。これらの者が自分たちの道を選び、その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。」(イザヤ六六・三)。

いくつかのことが言われていますが、最初のところで「牛を殺してささげ」とあります。牛は財産です。礼拝のときに牛を献げる。そのように礼拝をしながらも、裏では「人を打ち倒す」ようなことをしている。つまり、礼拝に心が伴わず、形ばかりになっていることが批判されているのです。

神が喜ばれるのはこういうことではありません。神はどのような人を顧みられるのか。二節の後半にこうあります。「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(イザヤ六六・二)。形ばかりの礼拝を献げるような者ではなく、心から神を慕う者が神から受け入れられるのだということが言われるのです。

このような記述はイザヤ書に限らず、旧約聖書の至るところに記されています。それだけ人間はうわべを気にしているとも言えるでしょう。礼拝でもどのようなことでも形だけになってしまう。とりあえずは顔を繕っておく。だから至るところに、そのことに対する批判が記されるのです。神が求められるのはうわべの礼拝ではなく、本当に神を頼り、礼拝する者を求めておられるのです。

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の箇所にも、うわべだけを繕う者たちのことが記されています。今日の聖書箇所の場面は、仮庵祭と呼ばれる祭りが行われていた最中のエルサレムでありました。先週、私たちに与えられた聖書箇所はこのひとつ前の箇所になりますが、そこでは主イエスははっきりとご自分の弟たちに、自分はエルサレムには行かないと言われています。ところが今日の箇所では一転してエルサレムに行かれている。しかしひそかに行かれたのであります。

大勢の人たちが集まる仮庵祭の最中、主イエスのことがエルサレムでも噂になっていました。いろいろな評価がなされます。「良い人だ」(一二節)、「いや、群衆を惑わしている」(一二節)という声が聞かれます。しかし一三節にこうあります。「しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」(一三節)。

みんなひそひそ声ではっきりと言わない。なぜ言わなかったのか。ユダヤ人たちを恐れたからだと記されています。はっきり言ってしまうと、ユダヤ人たちにとがめられるかもしれない、だからうわべを繕い、公然と言うようなことはしなかったのです。

ひそかにエルサレムに行かれた主イエスでありましたが、一四節のところから、神殿の境内に立たれて、堂々と教え始められます。それを聞いたユダヤ人たちと衝突することになります。うわべだけ律法を守っている人たちに対して、主イエスは「あなたたちはだれもその律法を守らない」(一九節)とはっきり言われるのです。

ユダヤ人たちは律法を持っていて、その律法を守って生活をしていた人たちです。少なくとも自分たちはそう思っているところがありました。しかし主イエスは守っていないと言われる。一九節の後半で「なぜ、わたしを殺そうとするのか」と主イエスは言われています。すでに主イエスに対する殺意が芽生え始めていました。それを見抜かれて主イエスはそう言われたのです。ところが律法の基本中の基本とも言える十戒に「汝、殺すなかれ」とあります。殺してはいけないとはっきり言われているではないか。それなのに私を殺そうとしているとは何事かと主イエスは言われるのです。

律法を守らないのはそれだけではありません。今日の聖書箇所の後半のところで、安息日の割礼のことが問題になっています。割礼とは、ユダヤ人男子として生まれてきた者が全員受けるべきものであり、体の一部に傷をつける儀礼です。生まれて八日後に割礼を受けることになっていて、主イエスもそれに倣い、割礼を受けられました。そのことがルカによる福音書にはっきりと記されています。

しかし子どもが生まれる日を、私たちは選ぶことができません。八日目がちょうど安息日になることもあるわけです。割礼をすることが労働にあたってしまう、それではまずいので、割礼だけは例外にする。割礼は安息日であってもよろしい、と定めるのです。これはまさにうわべだけを整えることになります。

安息日とは、そもそも神の救いの出来事を思い起こすために定められた日です。六日間の労働の手を止めて、単に休むだけでなく、日常忘れているような神の大事な恵みの出来事を思い起こして、原点に返るための日です。それなのに、全身が癒されるという救いの出来事が安息日に起こった、それは労働だと騒ぎ立てて、そのことで裁こうとしている。あなたがたはそのことで裁くのか、うわべだけで裁くな、正しい裁きをせよと主イエスは言われているのです。

対する主イエスは、うわべではありません。本物の判断をされます。対立したユダヤ人たちから、このように言われます。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(一五節)。ここでの「聖書」というのは、元の言葉では「もろもろの文字」という言葉です。なぜ文字を知っているのか、というのが直訳ですが、もちろんなぜ読み書きができるのかという程度の意味ではなく、もろもろの文字で書かれた聖書のことを、なぜこんなにもよく知っているのだろう、ということです。

主イエスのお答はこうです。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」(一六節)。二千年前の当時と現代では少し感覚が違うのかもしれません。現代ではどの学問の分野でも、オリジナリティーや独創性を求められます。もちろんオリジナリティーが求められるからと言って、過去の研究を無視するわけにはいきません。過去の研究を踏まえた上で、それではあなたの独創性はどこにあるのかということが問われます。

しかし主イエスの時代、特に聖書に関することはそれとはまったく違いました。より律法に忠実であることが求められる。より聖書に忠実、より神に忠実であることが求められたのです。むしろその人の独創性などない方がよい。いかに元のものに近いか、ずれが少ないかが問われたのです。

主イエスはあるときにこう言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ五・一七)。主イエスは元のものを廃止するのではありません。忠実でありました。それどころかまったくずれがない。逆に人間がそこからずれているのです。うわべだけを整えようとする。そこに人間の歪みが生じてくるのです。

私たちにとって、律法を少し難しく考えてしまうところがあるかもしれませんが、律法とは要するに、神が私たちにこのように生きなさいと定めたことです。「汝、殺すなかれ」もそうです。殺さない。いや、それどころか相手を生かす。そのような律法に従って生きる、そこからずれない。それが神によって造られた人間として最も幸いな生き方になります。しかし人間がそこからずれてしまう。

なぜずれるのでしょうか。主イエスがその理由を説明してくださっています。一八節にこうあります。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」(一八節)。「栄光」という言葉が使われています。栄誉や誉れということです。自分勝手に話す者は自分の栄光、つまり自分が褒められることを求める。主イエスはそう言われます。

私たちはどうしても自分がかわいいと思うところがあります。そのためにうわべを繕う。自分の誉れを求めるからです。そのようなときに、神が私たちに与えてくださった生き方からずれる。主イエスはそう言われるのです。

人間はそれゆえに罪を犯します。人間としての生き方からずれるからです。しかしたったお一人だけ、まったくずれることなく、神の栄光を求め、真実に、不義なき生き方をした方がおられます。それが主イエス・キリストです。主イエスは神に栄光を帰すために、十字架への道を進まれました。

なぜなら、この十字架によって私たちの罪が赦され、罪の赦しを得た私たちが神を信じ、神を褒め称え、神の御心を行い、神に栄光が帰されるようになるからです。ずれた生き方をしている私たちにとって、そのずれを赦し、修正してくださる主イエスがどうしても私たちには必要なのです。主イエスに救われて初めて、私たちは神に栄光を帰すことができる者となります。

神に栄光を帰すということを、私たちは難しく考える必要はありません。優れた教会音楽を作曲したバッハは、自分の書いた楽譜の最初と最後にこう書きました。まずは最初のところに“J.J.”と書く。これはラテン語で“Jesu Juva”の頭文字であり、「イエスよ、助けたまえ」という意味です。これから楽譜を書くにあたり、まず主イエスに助けを求める。そして終わりのところに“S.D.G.”と書きました。これもラテン語で“Soli Deo Gloria”の頭文字であり、「神のみに栄光あれ」という意味です。

自分がこの曲を作曲し、礼拝の中で演奏される。しかし褒め称えられるべきは、自分でも演奏者でもなく、神のみである。「神のみに栄光あれ」とバッハは書いたのです。バッハも優れた音楽家でありましたが、自分に罪があるということを何よりも知っていました。それゆえに“J.J.”と“S.D.G.”と書いたのです。

私たちも同じ生き方をすることができます。主イエスは父なる神の御心からずれることなく十字架にお架かりになりました。私たちの罪が赦される道を拓いてくださいました。そのことを私たちが信じたとき、私たちの生き方が変わってきます。もはや自分の栄光を求める生き方は過ぎ去ります。うわべの判断をするのではなく、本物の判断をすることができるようになります。私たちは神の御心が何であるかを問い、そこからずれずに、幸いな生き方をすることができるようになるのです。