松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年5月3日(日)
説教題「救いにも時がある」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第7章1〜9節

その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

旧約聖書: コヘレトの言葉 第3章1~17節

一昨日のことになりますが教会員の方が召されました。週報にも書かれている通り、明日、葬儀を行う予定です。

その方のところへは、今日からちょうど十一日前に、聖餐訪問に行ったばかりです。年に数回、その方が入所されている施設をお訪ねし、小さな聖餐礼拝を行ってきました。以前は会話をすることはできましたが、最近はこちらからの問いかけにうなずかれるだけとなっていました。お会いするたびにだんだんと弱られている、そのことを感じていながらも、すぐにこのようなことになるとは思ってもいませんでした。別れ際には「また来ます」ということも言いました。次の訪問はいつになるか、そんなことも考えていました。しかしその日が突然やって来てしまった。

いつかは召される。その方に限らず、私たち皆がそうであります。しかしその時があることを知りながらも、その時がいつなのかを私たちは知らないのであります。私たちが思っているタイミングで召されるべくして召されたというようなことはほとんどない。多くの場合、突然召されたという思いになります。その時はいつなのか。私たち人間には知らされていないことなのです。

今日は旧約聖書のコヘレトの言葉の聖書箇所から先に触れたいと思います。今日の第三章の箇所には、時のことが記されています。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト三・一)と始まります。その次に「生まれる時、死ぬ時」(三・二)と続きます。そのあとにも様々な時が列挙されていますが、人の生き死にも、定められた時があると言うのです。

私たち人間はあらゆる時にあらゆることをしています。自分がこのときにこれをしたい、それは私たちの自由とも言えるかもしれません。しかしコヘレトの言葉はそうは言わない。一見、人間が自由にしているかもしれないけれども、すべての出来事には定められた時がある。それは神の定められた時なのだと言うのです。

コヘレトの言葉は、この世に対しては非常に悲観的なところがあります。様々な時がありながらも、私たち人間はそれを知ることができないと言います。私たちがある時に何かをなしたとしても、それは真新しいことではなく、すでにあったことであると言います。そういう悲観的なことを書きながらも、神は人に永遠を思う心、神を思う心を与えてくださったと書く。

そしてコヘレトの言葉の最後には、このように書かれます。「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ」。これこそ、人間のすべて」(コヘレト一二・一三)。信仰を持って生きる人に、このような知恵を教えるのです。この世に救いはない。しかし「神を畏れ、その戒めを守れ」、それが人間のすべてなのだと教えるのです。

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の箇所にも、時の話が記されています。六節のところで主イエスはこう言われます。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」(六節)。

今日の出来事はどのような時に起こった出来事なのでしょうか。二節のところに「ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」と記されています。仮庵祭は文字通り仮の庵の祭りです。春の過越祭と並んで、ユダヤ人にとって大切な祭りです。仮庵祭は秋の収穫の時期に行われます。収穫感謝のような要素もあったようですが、それが一番の目的ではありません。仮庵祭には仮の庵を、つまりテントを作ります。

なぜそうするのか。イスラエルの歴史の中で、出エジプトの出来事がありました。エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民がエジプトを脱出し、荒れ野を四十年さまよって、ようやく故郷へ帰ることができました。荒れ野をさまよったのですから、定住をすることができません。仮の住まい、つまりテント暮らしを強いられたわけですが、そのことを思い起こし、神が故郷へと帰らせてくださったことを記念するのです。春の過越祭よりも盛大に祝われた祭りでもあったようです。

そんな祭りのときに、主イエスの弟たちが兄である主イエスに意見をします。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」(三~四節)。

「兄弟たち」(三節)とありますが、主イエスの弟たちのことです。主イエスの母はマリア、主イエスが長子でした。その後、弟や妹が生まれた。使徒言行録の中には「主の兄弟ヤコブ」という人が出てきます。教会のリーダー的な存在だった人ですが、それは主イエスの弟でした。

聖書学者の中には、弟たちだけでなく、いとこなども今日の箇所では含まれていたと考える人もいますが、いずれにしても弟たちが兄に向って言った言葉です。こんな田舎のガリラヤよりも、都会のエルサレムに行って、今までやって来たことと同じことをやったらどうですか。ガリラヤでは奇跡を行い、優れた話を語ってきたではありませんか。しかも今は盛大な祭りの最中です。ぜひエルサレムへ行ってご覧なさい。弟たちはそう勧めるのです。

先週の聖書箇所である第六章の終わりの箇所では、多くの弟子たちが主イエスのところから去って行ったことが記されていました。主イエスの深い話についていけなくなり、去って行った者たちが多かったようですが、弟たちはそのことに焦りを感じたのかもしれません。エルサレムで奇跡を行い、優れた教えを語って有名になれば、新たな弟子を獲得できるかもしれない。去って行った弟子たちが戻ってくるかもしれない。そんな魂胆があったのです。

ところが五節にこうあります。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」(五節)。すらっとは読めない言葉です。ひっかかる言葉です。弟たちは不信仰なのでしょうか。ある意味では兄を信頼していたとも言えます。優れた兄ならば、エルサレムへ行けば挽回することができるのではないか。弟たちはそう思っていた。ところが、聖書はこれを信じていなかった、不信仰であると言うのです。

これに対する主イエスの答えとして、六節のところにこうあります。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」(六節)。ここで時の話を主イエスはされるのです。わたしの時はまだだが、あなたがたの時は備えられている。どういうことでしょうか。

ヨハネによる福音書には、時に関する言及が実は多くあります。最初から順を追っていきますと、第二章四節にはこうあります。「イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」」(二・四)。今お読みした今日の聖書箇所の六節があり、また八節にもこうあります。「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」(八節)。

同じ第七章の三〇節にこうあります。「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。」(七・三〇)。続く第八章の二〇節にもこうあります。「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」(八・二〇)。エルサレムに行かないと言っておきながら、実はエルサレムに行かれるわけですが、誰も主イエスをとらえようとはしなかった。なぜか。時が来ていなかったからと言うのです。

第一二章になりまして、二三節で主イエスがこう言われます。「人の子が栄光を受ける時が来た。」(一二・二三)。続けてこうも言われる。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(一二・二四)。一粒の麦が地に落ちて死ぬ、つまり主イエスが十字架にお架かりになって死なれることがだんだんとはっきりしてきます。

第一三章の一節、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(一三・一)とあります。時が来たことを知り、弟子たちの足を洗ってくださる洗足の出来事が起こります。そして十字架にお架かりになる直前、主イエスはこう祈られます。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(一七・一)。

これらの時の記述から、この時とは十字架の時であることが分かります。主イエスはその時をご存知であり、まだその時ではないと言われたり、その時がやって来たと言われます。反対に弟たちはその時を知らない。いや、弟たちばかりでなく、誰一人その時を知ることはありませんでした。

そういう神の時がありながらも、その神の時を知らない、あるいは無視するとは、一体どういうことでしょうか。いつも自分の好きな時を持っているということです。言い換えると神を無視し、悪い意味で自由奔放であると言うことです。だから主イエスは「あなたがたの時はいつも備えられている」(六節)と言われます。ある意味では皮肉を込めた言い方です。あなたがたは神の時を知らない。だから自分の勝手になんでも自由にできる。エルサレムの祭りに行きたかったら行ったらよいではないか。しかし私は行かない。私は神の時をよく知っているのであり、今がその時ではないから行かないと言われるのです。

主イエスの六節の言葉は、私たちにとって思いもよらない言葉であったかもしれませんが、続く七節にも思いもよらない言葉が続いていきます。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」(七節)。時から憎むという言葉に代わっています。

主イエスはまずここで「世はあなたがたを憎むことができない」と言われます。不可能だと言われる。なぜならあなたがたが世の一部になっているのであり、世の時の従って生きているからだと言われる。世は自身の一部となっているなっているあなたがたを憎めないのだ、それほどあなたがたは世に溶け込んでいると主イエスは言われるのです。

ところが主イエスは世に溶け込んでいない。むしろ対立している。世は「わたしを憎んでいる」(七節)と言われます。説教の冒頭ではお話ししましたが、一昨日、教会員の姉妹が召されました。コヘレトの言葉に「死ぬ時」とありましたが、神が定められたこの時を憎むでしょうか。今回の場合は、突然の死であるとも言えますが、あまり憎むというようなことにはならないかもしれません。

ところが別のケースの場合だったらどうでしょうか。若くして亡くなる。最期は悲惨な死を遂げる。そういう場合だったらどうか。「死ぬ時」が定められていたなどと言われると、憎むということも起こるかもしれません。それは神の時に対する憎しみであり、神ご自身に対する憎しみであり、神の時に従って生きている者、つまり主イエスに対する憎しみなのです。

しかも主イエスは今日の聖書箇所で、なぜ自分が憎まれるのか、その理由まで言われています。「わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」(七節)。主イエスは今日の聖書箇所で弟たちを批判しています。やがてはユダヤ人たちを批判します。神の時を生きずに、自分の時間を自由奔放に生きている者たちを批判しているのです。

私たちも弟たちやユダヤ人と同じく、このようにつぶやいてしまう。この世の中に生きていくためには、世に歩調を合わせなければならないところがあるではないか。神の時などとは言っていられない。人間の様々な時がある。主イエスよ、あなたの言われることは分かるけれども、教えの美しさは分かるけれども、果たしてそれでこの世の中をうまくやって行くことができるか。その一部である私たちは、どうしてもそう思ってしまうのです。

コヘレトの言葉の著者は、「生まれる時、死ぬ時」(三・二)に始まり、様々な時を述べて言った後に、こう書きました。「人が労苦してみたところで何になろう」(三・九)。この言葉は逆に言うと、人はなんとか自分の好きなように生きたいと思いながらも、どうにもならない時に逆らい労苦をしていると言えます。それが神の時に逆らうということであり、神に逆らうということであり、その労苦をしていることになる。結局のところ、神を憎むことが私たち人間の労苦になっているのです。

この憎しみが、主イエス・キリストへの憎しみへと向かっていきました。神の時を知り、神の時に生きた主イエスです。この時はまだご自分の時ではなかったことを知っておられた。そしてご自分の時が来たら、その時に従って行動をした。そんな主イエスです。神の時を生きていない人間に対する批判もはっきりとしました。そのような憎しみが極まった。それが、やがてやって来る過越祭の時です。そして主イエスが十字架にお架かりになる時です。

神の独り子を十字架で殺す。これほど人間の罪が極まった時はありません。しかしその時が救いの時になったのです。神を憎むほどの罪を犯し、その罪が極まったところで、主イエスがその罪を背負い、十字架にお架かりになり死んでくださった。その罪が裁かれ、罪が過ぎ去った。私たち人間の罪が赦されたのです。聖書は私たち人間の罪が最も深まったところで赦しが起こったと告げます。それは主イエス・キリストの十字架の時に起こった出来事なのです。