松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年4月26日(日)
説教題「人間の選び、キリストの選び」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章60〜71節

ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

旧約聖書: サムエル記上 第16章1~13節

本日の説教の説教題を「人間の選び、キリストの選び」と付けました。同じ選びでも、人間側からの選びもあれば、キリスト側からの選びもある。そんな意味を込めて付けた説教題です。

選びのことだけではなく、私たちが礼拝に来ることについても同じようなことが言えます。今日の礼拝に、私たちは自分の意志でやって来ました。他の予定を入れずに、朝起きて、食事をしたり着替えをしたり支度をし、車やバスなどの交通手段を用いて、この教会へとやって来ました。私たちの意志によって礼拝にやって来た、それは紛れもない事実です。

しかしそれだけの説明で十分でしょうか。なぜ自分が礼拝に来ているのか。日曜日の予定としては他にいくらでも可能性があるのに、なぜか自分は教会に来ている。自分の意志の強さによって、信仰深さによって来たのだろうか。そう考えていくと、どうも自信がなくなっていく。そこでたどり着く答えは、礼拝に導かれたというものです。神が私を礼拝に導いてくださった。主語が自分から神に変わるのです。

洗礼を受けることに関しても同じことが言えます。私の意志で洗礼を受ける。誰かに強制をされたわけでもない。それは確かにその通りです。でも自分にそんな強い意志があるのだろうか。洗礼をなぜ受けるのか、誰かからそう聞かれても、合理的な説明もなかなかすることができません。気が付くとなぜか洗礼を受ける意志があった。そのときにたどり着く答えもやはり同じです。神が洗礼へと私を導いてくださった。洗礼もまたその二面性があるのです。

主イエスの十字架の出来事に関してもそうです。なぜ神の独り子が十字架に架かったのだろうか。洗礼を受ける前に、誰もが抱く疑問です。一方の側面では、人間が主イエスを十字架につけたのです。本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、ユダが後に裏切る者であることが記されています。弟子に裏切られたから。それが一つの理由となるでしょう。

あるいは、主イエスは言葉においても行いにおいても正しいお方でした。このお方と比べると、あまりにも自分との違いが際立ってしまう。主イエスから批判されると太刀打ちができない。指導者たちはそのように考え、主イエスを煙たく思い、ついには邪魔者として殺してしまった。それも一つの理由でしょう。

あるいは民衆は救い主の登場を期待していました。ただし、自分たちの国を強く立派な国にしてくれる、そんな救い主を求めていた。もしかしたらイエスという男がそうかもしれない。いったんは期待が膨らみましたが、実はそういう救い主ではないらしい。その期待が一気にしぼんで、十字架に架けられることになってしまった。そのようにも考えることができる。

しかしこれらはすべて人間側から考えた理由です。聖書が私たちに伝えているのは、主イエスの十字架が神のご計画であるということです。人間を罪から救うために、罪なき神の子が遣わされて、人間の罪を背負い、十字架にお架かりになってくださった。そういう神のご計画としての十字架です。

このように考えると、信仰の事柄はあれかこれか、一つのことでは説明がつきません。主イエスの十字架も、私たちが洗礼を受けることも、礼拝に来ることも、一方の側からだけでは説明がつかない。人間の業であると同時に神の業である。信仰においてはその二つの側面があるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書第六章の最後の箇所になります。ここしばらく第六章から御言葉を聴いてきました。わずかな食料で五千人以上の人たちを養う奇跡に始まり、そこから命の糧の話へと展開していきました。主イエスがたくさんの対話を重ねてくださり、様々なことを話してくださいました。

その結果、どうなったのでしょうか。多くの人が主イエスのことを信じたでしょうか。そうではありません。ショッキングな結果かもしれませんが、多くの人が信じませんでした。それどころか主イエスのもとから離れてしまった。二千年前もそうでしたし、今でもそれは変わりのないことかもしれません。

第六章には、群衆が出てきます。ユダヤ人が出てきます。そして今日の聖書箇所では「弟子」が出てきます。それまでは主イエスの奇跡を目の当たりにしたり、主イエスの話を聞いて感動したりして、ついて来る多くの弟子たちがいたわけですが、六〇節にこうあります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(六〇節)。弟子たちが言った言葉です。

そして六六節のところにはこうあります。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(六六節)。どのくらい多くの弟子たちが去ったのかは不明です。群衆が去り、ユダヤ人が去り、多くの弟子たちが去って行った。結果的に残った弟子が十二人だったのです。人間が去ったということは、人間が主イエスを選ばなかったということです。このときはたった十二人だけが主イエスを選びとったことになります。

他の福音書でも、この十二という数字が出てきます。どのようにしてこの十二人が出てくるのか。それは主イエスが選ばれた結果です。ある福音書では主イエスが徹夜の祈りをされて、そのうえでこの十二人が選ばれています。主イエスが十二人を選んだのです。

他の福音書では主イエスが十二人を選んでいる。ヨハネによる福音書ではどちらかと言うと人間が選んだ結果、十二人になっています。もっとも七〇節のところでは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」と主イエスが言われています。人間が主イエスを選んだとも言えますし、主イエスが選んでくださったとも言える。選びに関しても、二面性があるのです。

多くの弟子たちが去っていく際に言った言葉が六〇節に記されています。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(六〇節)。「ひどい」という言葉は、元の言葉では「固い」という意味もあります。「かたくなな心」などと言いますが、「かたくな」というのも同じ言葉です。固い、つまりとても噛み砕くことができないということです。

主イエスが今まで命の糧の話をされてきたことを思い起こすとよいでしょう。永遠の命に至るパンを食べよと主イエスは言われます。しかし多くの弟子たちはこの話を聴いて、そんなものは固くて食べられない、ひどい話だと言ったのです。

聖書の話や信仰の話というのは、ときに消化できないことがしばしばあります。心にすとんと来ない。腑に落ちない。頭では分かるけれども、どうも心がついていかない。そんな経験をすることがあるでしょう。つまり、何を言っているか知識としては分かっても、それを受け入れるかどうか別問題。実際に口に入れて食べて消化するかどうか、それは別問題というわけです。

私たちも聖書や信仰の話を、どこか固い話だと思うところがあるかもしれません。主イエスが聖書の中で言われていることは分かるのだけれども、果たして自分たちはそれを実践することができるのだろうか。そんなきれいごとで世の中やって行くことができるのだろうかと思ってしまう。「敵を愛せ」、「受けるよりも与える方が幸い」、「互いに足を洗い合いなさい」。そのような言葉を美しい言葉だと思いながらも、理想と現実を区別してしまう。

言葉としては分かるけれども、現実にそうすることの難しさを覚えてしまう。それをしたところで何になるか、自分が損ばかりをするのではないか、そう思ってしまうのです。そうなったときに、私たちも主イエスの言葉を固い言葉だと思っていることになる。もっと言えば、主イエスのもとから立ち去った弟子たちと同じ心が、私たちのうちにもあるということになります。

それでは、固い話を消化するために、どうすればよいでしょうか。六三節のところにこうあります。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(六三節)。霊と肉が対比をされて使われています。第六章のこれまでの箇所では、主イエスが私の肉を食べよと言っておきながら、「肉は何の役にも立たない」と言われます。

これは理由がはっきりしています。ヨハネによる福音書の中に「肉」という言葉が十三回使われています。肉は肉でも、主イエスの「肉」については肯定的に使われ、人間の「肉」は否定的に使われています。これはヨハネによる福音書の一貫した「肉」に対する考え方です。つまり、ここで主イエスが言われていることは、人間の「肉」によっては駄目なのだということです。肉を鍛えても、主イエスの話を消化できるようにはならない。言い換えると、人間の知性を磨いても駄目。頭に知識を詰め込んでも駄目。肉なる人間の努力によっても駄目ということです。

それではどうすればよいのでしょうか。主イエスは「命を与えるのは“霊”である」と言われています。霊を与えてもらう以外にはない。主イエスの言葉が「霊であり、命である」と言われているのですから、この言葉を聴く以外にはない。聴くためには弟子として選んでもらうしかないわけです。私たちが選んだように思っていても、選ばれるということがないと駄目なのです。

もうすぐ教区総会が行われます。昨年度の報告をまとめて教区に送りましたが、毎年、教区総会の資料に各教会からの短い報告の文章が載ります。百文字少しの短い文章ですけれども、松本東教会の昨年度の報告の文章として、最後のところにこのように書きました。「子どもたちを大人の礼拝につなげ、洗礼、信仰告白へ導くことが課題になっている」。

松本東教会には多くの子どもたちが与えられています。小さな子どもから、小学校高学年や中学生、高校生まで様々な年代がいます。私たちの教会に託されている子どもたちの信仰教育はどうすればよいでしょうか。子どもがいる家庭だけの問題ではありません。教会全体の大きな課題ですから、皆さまもよく祈り、この課題に取り組んでいただきたいと思います。

信仰教育をするために、知識を詰め込めばよいでしょうか。聖書を教えて、学ばせる。そうすれば子どもが信じるようになるか。必ずしもそうはならないでしょう。それではきちんとしつけをすればよいか。これもまた、うまくはいかないでしょう。主イエスが言われるように、「肉」による教育ということでは、うまくいかないのは目に見えています。

信仰教育について考える時、旧約聖書の出エジプト記のこの記述を思い起こすとよいでしょう。「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。」(出エジプト一二・二一~二五)。

大事なのはその次のところです。「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。」(一二・二六~二七)。

これはイスラエルの人たちが大切にし続けてきた過越祭に関することです。大人がこのような儀式、つまり礼拝を行う。家には子どもたちもいます。子どもたちも一緒に礼拝をします。その礼拝体験をする中で、子どもから質問されたときになって初めてこう答えなさいと言われている。子どもに知識として教えるのではなく、一緒に礼拝をする。その中で大事なことを伝えていく。単なる知識の伝達ではない。しつけでもない。「肉」による教育ではなく、一緒に神を礼拝する体験の中で、大事なことを伝えていくのです。

主イエスの言葉を聴いて、なおも留まった者はこのときたった十二人でありました。なぜこの十二人が残ったのか。この十二人が選んだからであり、そして何よりも主イエスが選んでくださったからです。こういう選びで難しいのは、選ばれる者がいるとなると、選ばれない者がいると考え出してしまうことです。

そこで、十二人の弟子たちのことをよくよく考えてみたいと思います。なんと悪魔とも呼ばれている者がその中に含まれていた。後に主イエスを裏切ることになるユダのことです。裏切りを企てたのはいつからなのか、それはよく分かりません。ヨハネによる福音書の記述としては、このような記述があります。「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(一三・二)。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(一三・二七)。

第一三章に入ってからは、はっきりと裏切りの企てがあったことが分かりますが、第六章の時点ではあまりはっきりしません。しかし主イエスはすでにユダの心をご存知でありました。そうはっきりと記されています。それにもかかわらず、主イエスはご自分の弟子としてユダも含めて選んでくださいました。

十二人の弟子の筆頭とも言えるペトロはどうでしょうか。ペトロは今日の聖書箇所でみんなの代表をして信仰告白をしています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(六八~六九節)。

ペトロが信仰告白をした話は、他の福音書にも記されていますが、マタイによる福音書ではこのようなやり取りがありました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ一六・一六)とペトロは信仰告白をします。そうすると主イエスから、あなたは幸いだと言われます。

しかし直後、主イエスがご自分の死と復活の予告をされたときに、ペトロはこう言います。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(一六・二二)。そうすると主イエスが言われます。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(一六・二三)。ペトロもサタン、悪魔呼ばわりされてしまいます。サタンとは神の邪魔をする者、神よりも人間のことを思うことです。主イエスの弟子たちも、ペトロやユダをはじめとしてそうでした。私たち人間も皆、そうであります。

このことから、つくづく主イエスは不思議な方だと思わされます。普通なら優れた弟子を選ぶはずです。役に立つ弟子を選ぶはずです。裏切りの兆候でもあろうものなら、弟子をやめさせるはずです。しかし主イエスはそのことを知りながらも、ご自分の弟子として召し抱えてくださる。選んでくださるのです。

何のために主イエスはそうなさるのでしょうか。弟子たちのいわば信仰教育のためです。霊の言葉を聴かせるためです。弟子たちは本当にバラエティに富んでいる者たちです。十二弟子の中で誰が一番自分に性格が近いか。そんなことも考えられるかもしれません。女性であれば、主イエスをとりまく女性たちの中で、誰が自分によく似ているか、そんなことも考えられるかもしれません。主イエスの周囲の人間は、私たち人間のすべてを代表しているところがあります。

そんな私たちは、一方では主イエスの弟子となることを自分で選びました。しかし他方で、サタンとも呼ばれ得る私たちですが、主イエスが弟子として選んでくださったのです。自分が選んだ、それだけが根拠ではありません。自分も選びましたが、主イエスが選んでくださった。それが何よりの根拠です。この二面性があるからこそ、私たちは主イエスと共に歩める。

ペトロは今日の聖書箇所で、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(六八~六九節)と信仰告白をしています。ペトロが代表してこう言ってくれました。私たちも同じく、主イエスの弟子であります。他の誰のところへ行く当てもない私たちです。行ったところでそこに救いはありません。主イエスこそが私たちの救い主、永遠の命の言葉を持っておられる。この信仰告白の言葉は、私たちの信仰告白の言葉なのです。