松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年4月19日(日)
説教題「キリストを味わう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章52〜59節

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

旧約聖書: イザヤ書 第28章23~29節

ヨハネによる福音書第六章から、御言葉を聴き続けています。本日、私たちに与えられた聖書箇所は、第六章五二~五九節です。二週間前のイースターはヨハネによる福音書ではない箇所から御言葉を聴きましたが、ここ数週間、私たちはずっと第六章に留まっています。一連の話の中で、同じような言葉が繰り返されているのを、お気づきの方も多いと思います。

後ろからたどっていきたいと思いますが、今日の聖書箇所の五八節の後半にこうあります。「このパンを食べる者は永遠に生きる」(五八節)。また五四節にもこうあります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(五四節)。

先週の聖書箇所になりますが、五一節にこうあります。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(五一節)。四七~四八節にもこうあります。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」(四七~四八節)。

さらに戻りまして三五節です。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(三五節)。二七節にもこうあります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(二七節)。

第六章の様々な箇所を取り上げましたが、いずれの箇所にもパンのこと、食べ物のこと、命の糧のことが語られていることが分かります。そのような共通点があります。そもそもなぜこのような命の糧のことが出てきているのかと言うと、こんな出来事があったからです。一三節のところにこうあります。「集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」(一三節)。主イエスがたった五つのパンで五千人以上もの人たちを満腹にしました。その奇跡を行いました。

その奇跡の出来事の余韻が残っているわけです。主イエスが五千人以上も満腹させることができた。その意味するところは何か。その力はいったいどこにあるのか。いろいろな問いを抱く私たちです。その問いに答えるために、主イエスがずっと話を続けていてくださる。そして主イエスが与えてくださるパンを食べるように招いていてくださる。それが第六章全体の話です。

今日の聖書箇所は五二節のところからですが、それに先立つ五一節のところから、聖書学者たちはここから少し話の内容が変わってきているのではないかと指摘しています。なぜかというと、五一節に二度、未来形の動詞が使われているからです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」(五一節)。ここまではよいのですがその次です。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる『であろう』。わたしが与える『であろう』パンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(五一節)。

『…であろう』という未来形にする言葉を補ってお読みしました。この二か所が未来形です。主イエスがこのとき将来のこととしてお語りになっているのは、明らかに聖餐のことが意識されています。五三節にも「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ」とあるように、聖餐にかかわる用語もたくさん出てきます。

ヨハネによる福音書の第六章では、同じような話が繰り返し出てきているかもしれませんが、少しずつ違う話へとその内容が移って行っています。そもそも主イエスと群衆やユダヤ人たちは、湖のほとりで話し合いを始めたはずでした。しかし今日の箇所の最後に「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」(五九節)とあるように、いつの間にか舞台が変わっています。

このことから、主イエスはたった一度だけこの話をされたのではなく、湖のほとりでも、カファルナウムの会堂でも繰り返し大事なことを語られたということが分かります。

そのように今日の話は聖餐にかかわる話です。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書には、ほかの三つの福音書とは違い、最後の晩餐において主イエスが聖餐を定めてくださった話は記されていません。

代わりに、最後の晩餐の席上でなされた他の話を記録してくれました。主イエスが弟子たちの足を洗われたり、「わたしは道であり、真理であり、命である」(一四・六)と語られたり、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(一五・五)という有名な言葉も残してくれました。実際の聖餐を定めたときのことは記されていませんが、しかしすでにヨハネによる福音書が最初に読まれた教会で、聖餐が前提とされていたことが今日の聖書箇所から分かります。

ヨハネの教会に生きる人たちにとって、また今日の教会に生きる私たちにとって、聖餐にはどんな意味があるでしょうか。パンと杯をいただくわけです。どれほどの意味を感じて、私たちは聖餐に与っているでしょうか。礼拝に来られない方には、聖餐を携えてご自宅で、あるいは病室で小さな聖餐礼拝をするくらいです。もはや話すことができなくなっても、死を間際にしても、わずかなパンの屑とスプーンに掬ったぶどう液を口に含ませることもします。その聖餐に私たちはどれだけ意味を見出しているでしょうか。

松本東教会の礼拝堂の中心は聖餐卓です。どこの教会であっても、礼拝堂を建てるに際して、やはりいろいろなことが問題になります。十字架は礼拝堂の中に掲げるのか掲げないのか、説教壇はどこに置くのか、椅子の並べ方はどうするのか、壁の色やカーペットの色をどうするのかなど、実に様々なことを話し合い、決めていかなければなりません。それらのことは、人間の思惑や好みが入りやすいところでもあります。そういうことで混乱をする場合もあるわけです。

しかし混乱しないために、大事なことはいったい何かということから考えなければなりません。礼拝堂は何をするところか。礼拝をするところです。それでは礼拝にとって大事なものは何か。聖餐卓です。説教壇や椅子やオルガンよりも大事なものなのです。

もちろん教会によっては十字架を一番大切にする教会もあるでしょう。あるいは前の方に聖書を置いておく。その聖書が一番大事だと考える教会もあるでしょう。しかし多くの教会にとって、私たちの教会もそうですが、一番大切なのは聖餐卓です。これを中心に据えます。中心に据えるということは、聖餐卓を囲んで礼拝をするということを大事にしているのです。

私たちの教会ではいつも聖餐を祝っているわけではありません。毎月第一日曜日とイースターやクリスマスなどの特別なときに聖餐を祝います。しかし聖餐がないときには、聖餐台をしまっておくということはしません。献金を置くためだけのテーブルではありません。いつも聖餐卓を囲んでいるのです。聖餐を大事にしながら、聖餐のない礼拝であっても聖餐のことを思い起こし、聖餐卓を囲んで礼拝をしているのです。

先月からハイデルベルク信仰問答の学びが始まりました。月に一回の学びでありますが、私の予想以上に多くの方が礼拝後に残ってくださいました。まだ一回学んだだけでありますが、やがて聖餐についての問答も学ぶことになります。問七五から、聖餐に関する問答が始まっていきますが、問八一にこうあります。

問八一 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。

答 自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです。

「主の食卓」、つまり聖餐の食卓のことですが、ここに来るべきなのはどのような人かと問います。聖餐の際に聖餐制定の聖書の言葉を聴きます。その中に「ふさわしくないままで」とか、「だれでも、自分をよく確かめたうえで」という言葉を聴かされます。そのときに別のことを考えてしまいがちな私たちです。自分はふさわしいのだろうか。神に対して、隣人に対して胸を張って生きているようなふさわしさがあるか。自分をよく確かめたら、ふさわしくないのではないか。聖餐に与ることを躊躇してしまうような、そんな思いを抱かれた方もあるかもしれません。

しかしハイデルベルク信仰問答の問八一の答えは、はっきりとそのふさわしさが何かを教えてくれます。罪のために自己嫌悪に陥る自分であるかもしれない。イエス・キリストによって赦されているものの、なおも弱さが残っている自分であるかもしれない。しかしなおもその弱さが覆われ、信仰が強められ、自分の生活が正されていくことを求める。つまり、自分の力ではなく神の力に生かされる者、その者こそがふさわしいと言うのです。もしも聖餐に与らないのであれば、「私は神様なんて要りません。自分の力でやっていきます」と言っているようなものです。

五三節のところで主イエスは言われます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(五三節)。最初の「はっきり言っておく」というのは、元の言葉では「アーメン、アーメン」という言葉です。ヨハネによる福音書で主イエスが特に大事なことを話される際に言われる言葉です。

もしも人の子の肉を食べないならば、その血を飲まないならば、つまり聖餐に与らないならば、あなたたちの内には命がないとまではっきり言われる。自分の罪のために自己嫌悪して、それでおしまいという人生になってしまいます。しかし主イエスはこれを食べよ、飲め、そして罪赦された新たな命を得よ、そう言ってくださいます。

五二節のところに、主イエスから聖餐に関することを聴かされたユダヤ人たちの反応が記されています。「それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。」(五二節)。「議論」という言葉があります。ちょっとした話し合いではありません。新約聖書のほかの箇所でもこの言葉が何度か使われていますが、すべて「争う」と訳されています。議論は議論でも「激しい」(五二節)議論なのです。

なぜユダヤ人たちはこのような激しい議論をしたのでしょうか。どうやら主イエスをそっちのけで、自分たちの間で「互いに激しく議論し始めた」(五二節)ようです。ユダヤ人たちにとって、人間の肉を食べ、血を飲むことは考えられないことでありました。もちろんすべての人間にとってそうなのでしょうけれども、旧約聖書に書かれている内容からしても、人の肉と血を食べることは考えられないことだったのです。人間の肉が食べられるとは、残虐な死が意味されていました。死んだ体が野にさらされて、獣に食べられるというようなことです。

また、血は絶対に飲んではならないということも記されています。レビ記第一七章一〇~一四節にこうあります。

「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。」(レビ記一七・一〇~一四)。

新共同訳聖書には「血を飲むな」という小見出しまで付けられています。レビ記だけでなく、他の旧約聖書の箇所にも似たようなことが何度か書かれています。おそらくここで議論していたユダヤ人たちは、このような聖書箇所をもとにして、激しい議論をしていたのだと思います。

しかし旧約聖書のこのような前提から考えると、主イエスの肉を食べる、血を飲むということは、主イエスの残虐な死が意味されているということに気づかされます。しかも今日の聖書箇所で繰り返し「食べる」という言葉が使われていますが、この言葉は単純に食べると言うよりも「噛む」というニュアンスのある言葉です。元来の意味は「獣が噛む」という意味だったようです。

英語のニュアンスだと“chew”という言葉が最もふさわしいのだそうです。「チューイングガム」と言いますが、あれを食べている間はガムをかみ続けるわけです。ほとんどの英語の聖書では“chew”ではなく“eat”という言葉が使われていますが、元来のニュアンスとしては「噛む」だったのです。

主イエスの肉を噛む。食べる。そして味わう。それが聖餐でなされていることになります。松本東教会では月に一度ほど、この聖餐が祝われています。日本の多くの教会では、月に一度の聖餐に落ち着いたところがあります。東京神学大学のかつての教授に、ジョン・ヘッセリンク先生という方がおられました。アメリカからの宣教師で、改革派という教会のグループの出身の方です。『改革派とは何か』(教文館)という日本語にも翻訳された本を書かれましたが、その中に「毎月一回の聖餐というのは、妥協案として適当なものかも知れない」(四八頁)と書かれています。

なぜ妥協案として適当なのでしょうか。私たちの松本東教会も改革派のルーツがありますが、もとをたどると改革者のカルヴァンという人がスイスのジュネーブの教会を改革したことが始まりです。今から五百年ほど前のことになりますが、当時のカトリック教会では、信徒は年に一回しか聖餐に与ることができませんでした。カトリック教会では今も昔も毎週必ず聖餐が行われますが、聖餐に与ることができるのは聖職者たちだけで、信徒は年に一回。しかもパンだけにしか与ることができませんでした。

カルヴァンはこれはおかしいと考えた。毎週、パンと杯の聖餐に与るべきだと考えた。しかし結局、毎週日曜日に聖餐を行うことはできませんでした。結果としては年に四回で落ち着いてしまったのです。

なぜでしょうか。ジュネーブの教会は長老制度という制度をとっています。牧師のことを「宣教長老」とも言いますが、牧師と長老たちがいます。聖餐に与るにあたり、長老たちが信徒の家を訪問して、きちんと聖餐に与る備えができているかどうか、その確認をしたのだそうです。

確認とはもちろん立派な生活をしているかどうかというようなことではなくて、先ほどのハイデルベルク信仰問答の問八一の答えのように、自分の罪を悔い改める心がきちんと整っているか、そのことを確認して回ったそうです。それを丁寧に行えば、とても毎週はできません。結局のところ年四回に落ち着いた。それがカルヴァンの毎週という願いが実現しなかった理由です。

この教会とも親しい交わりをしていただいている加藤常昭先生が、ドイツの教会でこんな体験をなさったそうです。ある土曜日の日の夜、知り合いの牧師がおられる教会の前を通ると、教会堂に明かりがともっていた。人が集まって集会をやっているらしい。いったい何の集会なのか。教会の中に入ってみると、祈祷会が行われていた。明日の日曜日の聖餐のために祈祷会をしているから、あなたも一緒にどうぞと言われたのだそうです。そのようにして皆が聖餐のための備えをしていた。カルヴァンの教会に通じるところがあると思います。

私たちはどうでしょうか。聖餐のある日曜日の前日だけではありません。聖餐が行われなかったとしても、聖餐卓を囲んで礼拝をしている私たちです。聖餐に与る心が整っているでしょうか。私たちにとって聖餐に与るとは、私たちの生き方そのものを問われていることでもあります。ハイデルベルク信仰問答の問八一の答えのように、自分の罪に自己嫌悪しながらもそれが赦され、よりいっそう信仰が強められ、生活が正されることを求めているでしょうか。思いを新たにして、新しい命に生かされているでしょうか。

五四節に「永遠の命」ということを主イエスが言われています。永遠の命とは、いつまでも生き永らえる命ではありません。私たちが罪のまま、弱さを抱えながらずっと生きるのではありません。罪赦された新しい命に生きる、それが永遠の命です。

五六節のところでは、主イエスが聖餐に与ることを言い換えて、こう言われています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(五六節)。続く五七節でも「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(五七節)と言われています。聖餐に与る者は、罪を赦してくださる主イエスと共に生きるようになるのです。

今日の説教の説教題を「キリストを味わう」と付けました。キリストを味わう、聖餐において味わうわけですが、噛めば噛むほど味わいが増す食べ物です。自らの生き方を見直し、悔い改め、罪赦され、それでもなお残る弱さを覆っていただき、信仰が強められ、生活が正されるように願う。そのことをさせていただけるのが聖餐です。キリスト者はこの幸いを得ながら、祝福された歩みをすることができるのです。