松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年4月12日(日)
説教題「天から降って来たパン」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章41〜51節

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

旧約聖書: 民数記 第11章1~34節

主イエスがお甦りになられたイースターの祝いから一週間が経ちました。先週の日曜日にはイースター礼拝を行い、受洗者も与えられました。聖餐も祝いました。礼拝後に祝会も行い、教会が大きな喜びに満ち溢れました。

イースター礼拝で行った聖餐において、パンが足りなくなるという事態になりました。私も先週の日曜日はいつも以上に集う人は多いだろうと予想していましたが、予想以上に大勢の方が集められました。長老がパンを配餐しましたが、おおかた配餐し終えたところで、トレーに乗せられている残りのパンが八つでありました。ところがまだパンを受け取っておられない方が十名以上もおられた。

そこで私はそこにおられた方々に「パンを裂いてください」と言いました。実際にいくつかのパンが裂かれて、もれなく聖餐に与ることができました。杯はパンよりも少し多めに用意があったことを知っていましたので、たぶん大丈夫だろうと思っていましたが、それでも聖餐を受けた方と杯の数が結果的にはちょうどぴったりでした。

イースター礼拝が終わった後で、教会員のある方から「パンを裂いて分け合ったこともまた大きな恵み」であったと言われました。私も本当にそうだと思いました。聖餐のパンは、日本の多くの教会でもそうでしょうが、私たちの教会でもあらかじめ切っておきます。それをトレーに並べます。

しかしもともとの聖餐のパンは一つの塊のパンで、それを裂いたのです。主イエスも聖餐を定めてくださった最後の晩餐の席上で、パンを取り、それを裂かれたことがはっきりと記されています。まさにこれからキリストの体が十字架で裂かれようとしていたわけですが、そのことをパンを裂くことによって表しているのです。

聖餐に関する大昔の教会の規定では、もしパンをどうしても用意することができないとすれば、それに準ずるものでもよいと定めています。日本の食文化に合わせて言うならば、何もパンやぶどう酒でなくてもよいのではないか、むしろごはんと日本酒の方がよいのではないかと、冗談ながらに言われている意見を聞くこともありますが、やはりパンが最もふさわしい。パンが裂かれる。そのパンに与っていることの意味こそが大きいのです。

今日の説教の説教題を「天から降って来たパン」と付けました。今日の聖書箇所の言葉をそのまま説教題にしています。今日の聖書箇所でも、今日の続きの箇所である来週の聖書箇所でも、聖餐に関する用語が多いと聖書学者たちが指摘しています。聖餐は主イエスが定めてくださったものです。この天から降って来たパンが、罪人である私たち人間にとってどうしても必要なものなのです。

聖書は私たち人間を罪人と見なしています。その罪人を救うために、主イエスがこの世に来られ、十字架にお架かりになり、肉を裂かれました。聖餐はそのことを思い起こすためのものです。教会は二千年にわたり、聖餐を行い続けてきました。

ここ一週間ほど、テレビのニュースでも新聞の記事でも、学校の教科書検定に関することをよく目にしました。なんでもいくつかの歴史の教科書に、政府見解の追記がなされたということのようです。最近の傾向として、日本のよいところばかりに目を留め、悪いところにはふたをするような、そんな傾向が見られると思います。

道徳の教科化のこともよく話題になっていますが、道徳においても方向性は同じです。立派なことをした日本人ばかりを偉人として取り上げる。こんな優れたことを語った日本人がいた。あんな立派なことをした日本人がいた。そのことで日本人としての自信を得るということが考えられているようです。

ところが、聖書はまるでこれとは正反対の方向性を持っています。聖書は私たち人間を罪人だと見なしている。主イエスだけが罪人ではなく、主イエスを除くすべての人間が皆、罪人であると断言している。それが聖書です。聖書にはたくさんの人間が出てきます。もちろん、立派な信仰者たちも出てくると言えるかもしれません。しかしその立派と思われる人たちといえども、こんな罪を犯した、こんな弱さを抱えていた。それが聖書の言っていることです。

神に従った優れた王であるダビデが旧約聖書に出てきます。そのダビデといえども、大きな罪を犯しました。その罪の結果がソロモンという子であり、ダビデを継ぐ王となりました。最も偉大な預言者であるエリヤもそうです。最近、祈りの会では列王記上を読んでいますが、エリヤが出てきます。エリヤは神々を拝む預言者たちとの戦いに勝利をし、預言者としての輝かしい実績を残しましたが、自分の命が危うくなることを知ると逃げ出し、自分の命が絶えることさえ願いました。

ダビデもこんな罪を犯した、エリヤもこんな弱さがあった。それが聖書が伝えていることです。聖書は人間をそのように見ている。どんなに優れた人物でもこんなところがある。いやむしろ、本当に罪なき人間など一人もいない。イエス・キリストを除いては。それが聖書の人間観です。

今の日本が作ろうとしている教科書の方向性と、聖書の方向性はまるで正反対を向いていると言わざるを得ません。本当にこのような教科書でよいのでしょうか。教科書には日本人が優れていると書いてある。しかし聖書には人間は罪人だと書いてある。私たちはこの違いをどう受け止めればよいでしょうか。

おおよそ自国民が優れているという思想は、とんでもない結果を生み出します。歴史がそれを証明しているところがあります。優れていると思われる人間の中にも、それ以上の優れていないところがある。救いは人間にはない。地上にあるパンの中にはない。そして聖書が人間の罪以上に伝えていることは、天から降って来たパンがあるということです。このパンを食べる以外に、人間の救いはない。それが聖書のもっとも強く伝えていることです。

罪人の人間が天からのパンを食べることと並んで、四五節にこうあります。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」(四五節)。預言者イザヤの書にこのように書かれている言葉があります。そしてこの言葉に続いて、「父から聞いて学んだ者」と主イエスは言われています。

「学ぶ」という言葉がここで使われています。新約聖書の元の言葉であるギリシア語では、学ぶ一般の意味がある言葉です。学ぶ、学問をする、覚える、知るというように訳すことができます。聖書に「弟子」という言葉が出てきますが、由来は同じ言葉です。つまり、弟子とは師匠にくっついて、その師匠からいろいろなことを「学ぶ」者ということになります。弟子の試験に合格して、弟子として認められてそれでおしまいというわけではないのです。弟子になってからがむしろ大事で、師匠から弟子として学び続けるのです。

洗礼を受けるとキリスト者になります。言い換えるとキリスト者は主イエスの弟子になるのです。弟子になってそれでおしまいというわけではない。学ぶことをやめるのではなく、むしろ弟子として学び続ける者です。主イエスはこの箇所で「聞いて学んだ者」と言われていますが、学ぶためにも聞かなければなりません。

礼拝で聖餐を行う際に、招きの言葉が読まれます。聖書の言葉です。複数の箇所をいつも私は朗読していますが、最後に朗読するのはこの言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ一一・二八)。一度聴いたら忘れることができないほど、力を持っている言葉です。

聖餐の際にはここまでしか読みませんが、続きはこうなっています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ一一・二九~三〇)。主イエスが「わたしに学びなさい」と言われている。今日のヨハネによる福音書の「学ぶ」と同じ言葉です。

主イエスのもとに来る者は、主イエスの軛を負います。軛とは、馬や牛などの家畜の首の部分に取り付けるものです。軛を付けることによってその家畜をコントロールすることができる。軛がない方が自由のように思いますが、軛なしで自由奔放にやりたい放題した挙句、取り返しのつかないことをしてしまう場合もあります。実際に取り返しのつかないことをしてしまったのが人間であり、主イエスは「わたしの軛を負いなさい」と言われます。軛を負い、そして「わたしに学びなさい」という言葉が続いているのです。

洗礼を受ける前の方を求道者と教会では言います。求道者とは文字通り道を求める者です。洗礼を受けますとキリスト者になります。もはや求道者ではなくなります。洗礼を受ける前までは、自分がどの道を歩むのか、そのことが定まらなかったところがあるかもしれません。しかしもう道は定まった。一つの道を歩き出した。主イエスの弟子となり、主イエスの軛を負う道のりが始まった。その道を歩むにあたり、学び続ける。そのために聞き続ける。そういう具体的な歩みが始まっているのです。

それにしてもなぜ私たちは聞き続ける、学び続けなければならないのでしょうか。それは、私たちはなおも罪との戦いが残っているからです。今日の聖書箇所に「つぶやく」あるいは「つぶやき」という言葉が二度出てきます。四一節に「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め」とあり、四三節には「つぶやき合うのはやめなさい」とあります。聞き続ける、学び続ける歩みは、このつぶやきとの戦いでもあります。

今日の聖書箇所でのユダヤ人たちのつぶやきが、四二節に記されています。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(四二節)。ここでのユダヤ人たちは、主イエスの父母をよく知る人たちでありました。生まれも育ちもよく知っている人たちがいたのかもしれません。

それなのに「わたしは天から降って来た」などとなぜ言えるのか。そんなに学問をしたわけではないのに、そのことを我々はよく知っているのに、なぜこのような優れた教えを語ることができるのか。なぜわずかな食料で五千人以上の人たちを養うなどという奇跡を行うことができるのか。ここでのユダヤ人たちのつぶやきはそういうつぶやきでした。自分の理解できる範囲内でしか物事を考えようとしないときに、このようなつぶやきが起こります。

新約聖書に「つぶやく」という言葉が何回か出てきます。その主語はすべて人間です。主イエスがぶどう園の労働者の譬え話をお語りになりました。朝早くから働いている者もいれば、昼ごろから働いている者もあり、夕方から一時間しか働いていない者もいます。しかし主人から皆に与えられた賃金は同じでした。一日一デナリオンの約束をしていたからです。朝早くから働いていた人たちが、もっと多く貰えて当然だと思い、しかし約束通りの一デナリオンしかもらえずに、つぶやくのです。神の気前の良さを理解できないのです。

また主イエスが徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていたときに、ファリサイ派と律法学者の人たちがつぶやきます。当時の徴税人は必要以上の税金を取り立てて私腹を肥やしていた人です。罪人の最たる者と思われていました。なぜそのような罪人たちと付き合って食事までするのかと、ファリサイ派や律法学者の人たちはつぶやくのです。主イエスの気前の良さを理解できないのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の民数記もそうです。第一一章の一節から三四節までをお読みしました。少し長いとも思いましたが、話の流れがありますので、途中で切るわけにもいきませんでした。最初の一節に「不満を言った」とあります。ヘブライ語で書かれた旧約聖書が古い時代にギリシア語に翻訳されました。七十人訳聖書と言います。その聖書を見ますと、一節の「不満を言った」という言葉がやはり「つぶやく」というギリシア語の言葉になっています。

このときのイスラエルの民はどんなことをつぶやいたのかと言うと、六節にこうあります。「どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数記一一・六)。イスラエルの人たちはエジプトでの奴隷生活から抜け出し、約束の地を目指して荒れ野の旅をしていました。旅の出発の頃は、お腹がすいた、のどが渇いたと言って、やはりつぶやいていた。神は「マナ」という食べ物を荒れ野で与え続けてくださいます。

ところが今度はマナばかりで他に何もないことにつぶやくのです。違うものが食べたい、肉が食べたいと言ってつぶやく。そのつぶやきを聞かれた神が、うずらを降らせます。「さて、主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上二アンマほどの高さに積もった。」(民数記一一・三一)。

アンマというのは長さの単位で、一アンマは四五センチほどです。つまり九〇センチのうずらが積もる。昨年、松本で七九センチの大雪が降りましたが、それ以上の鶏肉が積もったことになります。その鶏肉を食べ終わらないうちに、神が疫病で民を打たれ、その場が「貪欲の墓」(民数記一一・三四)と呼ばれるようになったのです。笑ってしまうような話かもしれませんが、イスラエルの人たちのつぶやきを決して笑えない私たちです。人間誰もがこのようなつぶやきを口にしているからです。

ヨハネによる福音書に戻りますが、そういう罪人の私たちにとって、何よりの救いになるのが四四節の言葉です。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(四四節)。

「引き寄せる」という言葉がここに出てきます。これはとても優れた翻訳であると思います。元のギリシア語の言葉は、「引き上げる」とか「引き抜く」という意味のある言葉です。例えば、漁師が網を打って、魚を舟に「引き上げる」というように聖書では使われています。あるいは、剣を「引き抜く」というように使われている。このヨハネによる福音書の箇所でもそのように訳してもよいわけですが、「引き寄せる」と訳しました。新共同訳聖書以外でも、ほとんどの日本語の聖書は「引き寄せる」と訳しています。

私たち人間は、軛を負わなかったがゆえに、海の中で潮の流れに流されるままに泳いでいました。しかし網にかかり、舟に引き上げられた。その引き上げられたということを、父なる神が主イエスのもとに「引き寄せた」と表現しているのです。教会という舟に乗せられた魚、それが私たちキリスト者です。自分から舟に乗ったわけではない。四四節の「引き寄せる」の主語は父なる神なのです。

その後に四五節の言葉が続いていきます。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」(四五節)。父なる神から聞いて学ぶ、主イエスの弟子となる、軛を負う、そのことが続いていきます。主イエスの弟子として、学び続け、聴き続ける歩みです。

それだけでなく、師匠の体であるパンを食べ続ける歩みも続けていきます。主イエスが私たちの罪を赦すために死んでくださった、そのことを覚えて命のパンを食べ続ける。その糧によって私たちは罪赦された新しい命に生かされ続けるのです。