松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年3月29日(日)
説教題「神の御心を知る」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章34〜40節

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

旧約聖書: 申命記 第8章1~10節

今日から受難週に入りました。主イエス・キリストが十字架にお架かりになった週のことです。教会にとって大切な一週間になります。今週の金曜日に主イエスが十字架にお架かりになり、三日目の日曜日に復活されました。主イエスの歩みをたどりながら過ごす一週間でもあります。

新約聖書の四つの福音書は、主イエスの十字架と復活がその中心的なメッセージになっています。当然、十字架と復活の出来事を記している箇所の分量が多くなります。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書はどうなのか。ヨハネによる福音書では、第一二章から受難週の一週間が始まります。第一九章のところで主イエスが十字架にお架かりになり、死なれ、埋葬されます。そして第二〇章で復活され、復活後の話が最後の章である第二一章まで続きます。そうなると、主イエスの受難週の歩みだけで十章分のページが割かれていることになります。ヨハネによる福音書の三分の一以上が、受難週の歩みを綴ったものになります。

毎年、松本東教会では受難週の祈りを発行しています。受難週の一週間の祈りの言葉をお届けしているものです。祈りの言葉だけではなく、その日に読むべき聖書の箇所も記しています。今年はマルコによる福音書から選びました。マルコによる福音書では、受難週の一週間の主イエスの歩みを、かなりはっきりとたどることができます。月曜日に何をして、火曜日に何を語ったかということがよく分かるのです。

特に木曜日の夜と金曜日の日は重要な出来事が記され、木曜日の夜は最後の晩餐などが行われ、金曜日は主イエスが十字架にお架かりになりました。そのことを覚えて、私たちの教会でも今週は木曜日の夜に洗足木曜日聖餐礼拝を、金曜日には受難日祈祷会が行われます。お時間のある方はぜひ教会の集会においでいただければと願っています。

十字架の前夜の木曜日の夜に、主イエスは最後の晩餐の食事を終え、ゲツセマネというところで祈られました。神の御心を選び取る祈りです。主イエスはこう祈られた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ一四・三六)。

杯を取りのけてくださいというのは、これから十字架に架からなければならない、その苦難を取りのけてくださいということです。しかし祈りの末に、その道を選び取ってくださった。「御心に適うことが行われますように」と祈られていますが、それが父なる神の御心だと分かったのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所にも「御心」という言葉が何度か出てきます。三八節から四〇節にこうあります。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(三八~四〇節)。

最初の三八節に「意志」という言葉がありますが、これと「御心」とは同じ言葉です。日本語で「御心」というとかしこまった感じがしますが、元の言葉では要するに「意志」ということです。主イエスは自分の意志で行動するのではなく、父なる神の御心を果たすと言われる。主イエスは父なる神の御心を知っておられた。私たちはどうでしょうか。今日の説教の説教題は「神の御心を知る」と付けましたが、果たして私たちはどのように神の御心を知ればよいでしょうか。

最近、新聞を読んでいましたら、ローマ・カトリック教会の特集が組まれていました。現在のローマ・カトリック教会の頂点に立っているのが、フランシスコ法王です。今までの法王にはないユニークなところがあり、注目されている面もあります。その特集の中に、つい数か月前の二〇一四年のクリスマスになされたメッセージの要約が記されていました。メッセージの相手は、ローマ・カトリック教会の枢機卿です。枢機卿とは法王を補佐する人たちのことであり、法王を選挙する際にも選挙権を持つ人たちのことです。カトリック教会の中心的な役割を担っている人たちと言ってもよい。その枢機卿の人たちに対するクリスマスのメッセージの題が「バチカンが患う十五の病気」という題だったようです。

フランシスコ法王がメッセージの中で十五の病気を挙げていきます。第一の病、自分たちが不滅で不可欠だという感覚。「自らを批判し改革できない法王庁は病気だ」と語ったそうです。第二の病、働き過ぎ。「仕事をしたら休むことが必要」と説く。第三の病、心が石のように頑固になること。「泣いている人と共に泣き、喜ぶ人と喜ぶ。人間的な繊細さを失うのは危ない」と語った。そして第四の病、計画しすぎること。「計画を変更しない方が楽かもしれないが、神のみ心に従う自由を失ってはいけない」と説いた。

第十五番目の病まで続けたいところですが、このくらいにしたいと思います。私も興味深くこの特集の記事を読みました。カトリック教会もプロテスタント教会も変わらないところがあるなどと、心の中で笑いながら読んだところもありますが、しかし本当のところはあまり笑えないわけです。特に第四の病として挙げられているところに、「神のみ心に従う自由を失ってはいけない」と言われています。ローマ・カトリック教会の中心に立つ聖職者ですら、神の御心が分からなくなってしまう。一度、計画を立てたら後は神の御心を問うことをしなくなる。その道を頑固に突っ走ってしまう。そういう病を患っていると言うのです。

それでは、一体どのようにしたら神の御心が分かるでしょうか。聖書の中で、御心という言葉は繰り返し使われている言葉です。たとえば詩編の中に、「御心に留めてください」という祈りの言葉がたくさん出てきます。あるいは旧約聖書の他の箇所に、「神が御心に留めてくださった」という表現がある。何らかの出来事が起こって物事がはっきりしたのちに、神の御心が分かった。神が御心に留めてくださっていたことが分かった。そういう表現で何度も繰り返し出てくるのです。

こういう聖書箇所を読んでいますと、神の御心がいったい何なのか、渦中の中ではそれが分からずに、後から分かるという場合がほとんどです。いや、それがすべてであると言ってもよい。それは新約聖書でも同じであり、例えばこのような箇所があります。「神の御心ならば、また戻って来ます」(使徒言行録一八・二一)。使徒パウロが次の場所へ旅立たなければならないときに、そこの教会の人たちが引き留める。その際にパウロは「神の御心ならば、また戻って来ます」と言うのです。戻って来られるかどうかは神次第ということになります。

同じ使徒言行録に、「「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。」(使徒言行録二一・一四)という箇所もあります。パウロと同伴者たちとの意見が対立します。パウロはエルサレムに行くと言ってきかない。同伴者たちは身の危険が及ぶから止めようとする。しかしパウロの決意が固いのを見て、「主の御心が行われますように」、そう言って口をつぐまざるを得なくなった。そんな話です。

ローマの信徒への手紙でも、イエス・キリストよって救われたキリスト者がどのように生きるべきかを語り始めたところで、パウロはこう書いています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)。

これらの箇所で、神の御心という言葉が繰り返し使われていますが、はっきりと神の御心はこれである、とは書かれていません。むしろ何が御心であるか分からずに、その御心を絶えず尋ねなさいということが言われる。私たちもいつも神の御心が分からずに悩んでいます。自分がどうすべきなのか、どう行動すべきなのか、行動しないでおくべきなのか、何を語るか、語るべきではないのか、そのことで悩みます。神は自分にどうせよと言われているのか。御心を問うことの難しさがあります。

そのような中で、神の御心とはこれである、そうはっきりと語られている聖書の箇所が何か所かあります。本日、私たちに与えられた聖書箇所がその一つです。三九~四〇節にこうあります。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(三九~四〇節)。

神の御心がズバリ示されている他の箇所もあります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ一・四~五)。

またこういう箇所もあります。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」(Ⅰテサロニケ四・三)。「聖なる者になること」をもっと具体的に言った箇所がこれです。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(ヘブライ人への手紙一〇・一〇)。

私たち個々人に対する神の御心は、あまりはっきりしないところがあります。しかしこれらの聖書箇所では神の御心がはっきりと示されている。個々人のことよりも、私たち人間の救いに直結する御心が示されています。私たちが永遠の命を得ること、終わりの日に復活させること、私たちを聖なる者にすること、そういう御心がはっきりと示されているのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所で主イエスと対話をしているのは、主イエスの奇跡を目の当たりにし、主イエスを追いかけてきた群衆です。しかし群集は無理解でした。主イエスが言われていることに対しても無理解でしたが、何よりも神の御心に対して無理解でした。

三五節のところで主イエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われています。主イエスが私のところに来なさい、私を信じなさいと招かれていますが、群集は無理解です。そうしようとはしていない。

群衆は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(三四節)と言っています。「いつも」というからには、来る日も来る日もパンを与えて我々のお腹を満たしてくれと言っているのです。主イエスが「命のパン」であり、その命のパンを食べるために、主イエスのところに行き、信じるということを理解していない。

そんな無理解の群衆たちのことを、主イエスはどう思われていたのでしょうか。私たちが主イエスの立場だったらどうでしょうか。自分が一生懸命説明しているのに、相手がまるで理解してくれない。相手の理解力のなさを嘆き、しまいには相手に怒りをぶつけるかもしれません。しかし主イエスはそうだったのか。今日の聖書箇所の続きを読みますと、決してそうではなかったことが分かります。

四一節のところで、主イエスの言葉を聴いて群衆はつぶやきます。五九節のところで主イエスの話が一区切りします。「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」(五九節)。続く六〇節にこうあります。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」」(六〇節)。このため、六六節のところで、弟子たちの多くのが主イエスを見限って、離れ去ってしまうのです。

六七節のところで主イエスは十二人の弟子たちに言われます。「あなたがたも離れて行きたいか」(六七節)。主イエスはこのときどんな思いでこの言葉を言われたでしょうか。せっかく父なる神の御心をはっきりと示したのにもかかわらず、こんな話を誰が聞いていられようかと多くの人が離れ去ってしまったのです。主イエスの心のうちは怒りよりも、悲しみに満ちていたと思います。

踏みとどまった十二人の弟子たちといえども、父なる神の御心を理解していたわけではありませんでした。そんな御心を知らない無理解な私たちに、御心を教えてくださった。なんとか教えたいと思われたのです。次々と人間の方は離れていってしまいました。主イエスは誰も追い出さなかった。三七節後半にこうあります。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(三七節)。追い出さずに、父なる神の御心を示してくださいました。

父なる神の御心がはっきりと示されている三九節と四〇節の言葉に、再び注目をしてみたいと思います。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(三九~四〇節)。四〇節は三九節の言い換えです。内容としてはほぼ同じです。

ここでの言葉は読んだだけでもその意味は明らかでありますが、もう少し丁寧に読んでみたいと思います。「失わないで」「復活させる」という言葉があります。これらの動詞の主語は「わたし」です。「わたし」はこの会話を語っている主イエスです。つまり、「わたしが一人も失わないで、わたしが終わりの日にその者たちを復活させる」と主イエスは言われているのです。主イエスがそのことに責任を負ってくださるのです。主イエスのもとに来て信じる者を、主イエスは決して拒まず、終わりの日まで責任を持ってくださる。それが父なる神の御心だと主イエスは言われるのです。

三九節と四〇節に、「終わりの日」という言葉が繰り返し語られています。この言葉は新約聖書ではヨハネによる福音書にだけにしか出てこない表現です。他の新約聖書の箇所の多くは「主の日」となっています。主の日とは、主イエスが再び来られる日であり、それは「終わりの日」のことです。その日に私たちが復活することが言われています。

今日は今年度、最後の日曜日です。この日曜日が終わったら、今年度一年間の集計をしなければなりません。今年度、教会員の葬りの葬儀をしたのは一回だけでした。私がこの教会に赴任した最初の年度には五回も葬儀があった。多い年、少ない年もありましたが、毎年、葬儀を繰り返してきました。

毎回、葬儀の度に一番厳しい思いをするのが、火葬場です。ご家族の方々は、愛する家族が召されてしまい、悲しみの思いを抱えています。愛する者が召され、牧師や家族に連絡をしたり、葬儀の段取りを整えたり、大勢の訪ねてくる人があったり、なにかとあわただしく過ごします。悲しんでいる余裕などないという場合もある。そのような中で葬儀の当日を迎えることになります。火葬場に赴く。火葬前に聖書を読み、祈りをします。今までは愛する者の体はすぐ近くにあった。しかしその体を火葬のために送らなければならない。一番厳しい思いをするところです。中には悲しみをこらえきることのできないご家族の方もあります。

その際、私が司式者としてすることは、死を死として受け止めていただくことです。決して死をごまかすようなことはしません。「この方は亡くなったけれども、死んでなんかいない…」、そんなことは言いません。「この方は死んだのではなく、風になってみんなを見守っている…」、そんなことも言いません。明確に、私たち人間は死ぬ存在なのだ。そしてこの方は死んだのだ。そうはっきりと告げます。

しかしそこでの私たちの慰めは、主イエス・キリストが今日の箇所で私たちに示してくださった父なる神の御心です。私たちが生かされている間はもちろんのこと、私たちが死んだ後も、主イエスが命のパンになってくださる。そのことに代わりはありません。地上の生涯の間だけのパンというわけではない。死の先まで主イエスが責任を負ってくださる。主イエスは一人も失うことなく、終わりの日に復活させてくださる。それが父なる神の御心であり、それを成し遂げるために、主イエスは十字架への道を進んでくださるのであります。