松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年3月22日(日)
説教題「永遠の命に至る食べ物」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章22〜33節

その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

旧約聖書: 出エジプト記 第16章1~16節

今日から『ハイデルベルク信仰問答』の学びを始めます。何名かの方から、学びをしたいという声が挙がったことがきっかけです。礼拝後の短い時間で行いますので、ぜひ多くの人に参加していただきたいと思います。毎月一回のペースで、学びを進めていきたいと思います。

『ハイデルベルク信仰問答』の詳しいことは、学びのときに話をしたいと思っていますが、ここでは問一の言葉を少し考えてみたいと思います。問一はこういう問いです。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。

皆様がこの問いを問われたら、なんと答えるでしょうか。考えてみていただきたいと思います。この信仰問答は「生きるにも死ぬにも」と言っています。「死ぬにも」という言葉が加わっているのが一つのポイントです。もしも「死ぬにも」という言葉がなく「生きる上でのあなたのただ一つの慰めは何ですか」だったら、もう少し考えやすいと思います。お金であったり、物であったり、頼りになる人であったり、地位であったり、名誉であったりします。これらのものが、何らかの慰めになると思われるかもしれません。

しかしこれらのものは、当たり前のことですが、死に対しては無力です。人間が死に向かっているということを真剣に考えたとき、答えが変わってくると思います。死につつある人間に、金や物が慰めだと説いても、説得力がまるでありません。まして死んだ後に、これらのものが大事だなどと考える人は誰もいません。

それでは本当の慰めは何でしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』はこの問一に明確な答えを与えているわけですが、ここでは今日、私たちに与えられた聖書箇所の中から、その答えを考えたいと思います。今日の聖書箇所には群衆が出てきますが、群衆が求めているものは「生きているときだけ」有効なものです。それに対して、主イエスが与えてくださるものは、「生きるにも死ぬにも」有効なものです。それが何なのか、どのようにしたら得られるのか、ご一緒に考えてみたいと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書第六章の中盤に書かれている話です。ヨハネによる福音書の前後の第五章も第七章もそうですが、第六章も一つの話としてまとまりを持っています。今日は第六章の一部だけですけれども、全体を視野に入れておいた方が、話が分かりやすいと思います。家に帰って第六章全体を読んでおくと、来週以降もよく話を聴けると思います。

第六章の最初のところに、わずかな食料で五千人以上の人たちを養う奇跡の話が記されています。よほどこの奇跡にインパクトが強かったのだと思います。この話をめぐって、第六章は物語が展開されています。

群衆はパンをお腹いっぱい食べさせてもらいました。こんな奇跡を行えるすばらしい人だ、群衆はそう思いました。ぜひ私たちの王様になってもらいたい、それが群衆の願いでした。群衆は無理やり主イエスを、自分たちに都合のよい王にしようとします。

ところが主イエスは一人で山に退かれます。弟子たちは主イエスに命じられて、湖の向こう側へ舟で渡ることになります。嵐に遭ってしまいますが、主イエスが湖の上を歩かれてやって来る。そうするうちに、舟が向こう岸の目的地に到着する。それが先週、私たちに与えられた話です。

今日の聖書箇所の最初のところに、「その翌日」とあります。パンの奇跡の翌日の話です。群衆は主イエスに逃げられてしまいましたので、主イエスを捜すわけです。二三節には湖の向こう岸のティベリアスという街から、たまたま舟がやって来たことが記されています。まさに渡りに船です。都合よく群衆たちは舟に乗ることができ、向こう岸に渡ります。そしてそこで主イエスに出会うのです。

「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」(二五節)。群衆は主イエスを見つけると、そのように問います。群衆たちは主イエスが舟に乗られていないことを知っていました。ところが向こう岸にいるのです。その主イエスに、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と問いただしているのです。

群衆はどんな感じ言ったのでしょうか。一つ考えられるのは、心底驚いて、この言葉を言ったということです。あなたは湖をいつの間にお渡りになったのですか。どのようにしてお渡りになったのですか。群衆たちはびっくりしてこの言葉を言った、これが一つの考え方です。

ところがこういうようにも考えられる。群衆たちは少し不満な心を抱えながら、文句を言うようにしてこの言葉を言っているのではないか。自分たちの王になってもらおうとしたのに、あなたは行方知れずになってしまった。ようやく捜し出すことができた。あなたはいつここに来たのか。私たちの思い通りに行動してくれないと困るではないか。そのように文句を言っている群衆の姿も思い浮かべることができると思います。

今日の聖書箇所には「しるし」という言葉があります。群衆はしるしを求めに、主イエスのところにやって来たところがあります。ところが主イエスはこう言われます。「「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(二六節)。しるしというのは奇跡のことです。ここでは明らかにわずかな食料で五千人以上の人を養った奇跡、しるしのことが言われています。

この奇跡を群衆は体験したはずです。しるしを見たはずです。しかし主イエスに言わせれば、群衆はしるしを見ていないと言われる。なぜなら群衆はまたしるしを求めているからです。三〇節にこうあります。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」(三〇節)。

このときの群衆の頭の中にあったのは、モーセのことです。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記第一六章の話です。イスラエルの民はエジプトでの奴隷生活を脱出し、これから荒野の四十年の旅が始まります。四十年です。定住生活をしたわけではありません。農作物を育てることはできない。荒れ野、砂漠のようなところを通ります。食べ物はどうしたのでしょうか。

ヨハネによる福音書では「マンナ」となっていますが、出エジプト記では「マナ」となっています。これが四十年間食べ続けた食料になります。イスラエルの民はモーセに食べ物のことで文句を言います。それを聞かれた神が食べ物を与えてくださるのです。「これはいったい何だろう」(出エジプト一六・一五)とイスラエルの人たちは言っています。英語で言えば“what is this?”です。ヘブライ語では「マーナー」となります。その言葉が、「マナ」あるいは「マンナ」になったのです。

モーセは四十年もマナで養ってくれた。イスラエルの人たちの頭の中にはそのことがあるわけです。三一~三二節のところに群衆の言葉がこう記されています。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」(三一~三二節)。モーセは天からのパン、すなわちマナで養ってくれた。毎日、食べるものが与えられた。それではあなたはどうなのか。群衆は主イエスにそう言っているのです。

今日の箇所の最初に、「その翌日」(二二節)とありました。昨日の夕方に、主イエスからパンを満腹になるまで食べさせてもらいました。翌日になり、ちょうどお腹がすいてきた頃だったのでしょう。またお腹がすいた。また奇跡を、またしるしを求める群衆たちの姿があります。自分のお腹を満たしてくれる王を捜しているのです。自分の願いを叶えてくれる救い主を求めているのです。

イスラエルの人たちは大昔はモーセに、二千年前は主イエスに、自分の願いを次から次へと求め続けました。昨日、満たされた。今日も満たされることを求める。その次の日もです。人間はちっとも変っていない。私たちもイスラエルの人たちを笑えません。

人間は本当に貪欲です。貪欲の「貪」の字、訓読みにすると貪る(むさぼる)と読みますが、「貪」の漢字の成り立ちはなかなか面白いところがあります。上に「今」と書き、下に「貝」と書きます。単純な漢字です。「貝」はお金を表します。そして「今」は何を表すのかと言うと、ふたを表します。つまり、自分の箱の中にたくさんのものを詰め込んで、ふたをするのです。

主イエスもあるとき「愚かな男の譬え」をお語りになりました。穀物が豊作で蔵に入りきらない。そこで新しい大きな蔵を建てて、そこに穀物を詰め込みます。そしてこれで一安心だと思い、自分の魂に向かって楽しめ、食べたり飲んだりして喜べと言います。ところがその男の命が今夜のうちに取り上げられる。主イエスは貪欲の話としてそのようなたとえ話をなさいました。

群衆は貪欲でした。私たちも貪欲です。しかしこのような貪欲によって得られるものは、私たちが「生きている間だけの慰め」にしかなりません。『ハイデルベルク信仰問答』の問一が言うような、「生きるにも死ぬにも」という問いの答えにはならないことが分かります。

それでは主イエスが与えてくださるパンとは、どのようなパンなのでしょうか。「生きるにも死ぬにも」、私たちを養うパンになるのでしょうか。二七節のところで主イエスはこう言われています。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(二七節)。

また三二~三三節のところでこう言われています。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(三二~三三節)。

主イエスが与えてくださるパンは、朽ちることのないパンであり、命のパンであることが言われています。特に二七節後半で、主イエスはこう言われています。「父である神が、人の子を認証されたからである。」(二七節)。日本的に言えば、ハンコが押されたということです。書類にハンコが押された。その書類になんと書いてあるか。わずかな食料で五千人以上の人を養った。主イエスにその力があったということは、主イエスには命のパンを与えることができる。その力がある。その書類に神がハンコを押してくださったのだ。主イエスはそう言われる。パンの奇跡というしるしから、私たちがわきまえるべきことはそのことです。

それを聞いた群衆が質問をします。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(二八節)。このような質問をしたのは、二七節のところで「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と主イエスが言われているからです。群衆の質問の言葉である二八節にも、実は「働く」と同じ言葉が含まれています。主イエスが永遠の命に至るために働けと言われる。それではどう働いたらよいか、何をしたらよいかというのが群衆の質問です。

日本語という言語は、単数か複数か、読んだだけではあまりよく分からないところがあります。外国語の言葉の多くは、読めば単数か複数かがすぐに分かります。二八節と二九節のところに、「神の業」という同じ言葉があります。日本語では同じ言葉ですが、元の言葉では実は単数と複数の違いがあるのです。群衆は永遠の命を得るためにはどんな「神の業」をすればよいかと尋ねています。これは複数形です。つまり、永遠の命を得るために、あれもこれも、いろいろなことをしなければならないと考えているのです。

ところが主イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(二九節)と言われています。ここの「神の業」は単数形なのです。あれやこれやではない。たった一つ。信じることだ。主イエスはそう言われるのです。

以前、私が求道者の方と話をしていたときのことです。その方は私にこう言われました。「キリスト教は信じるだけで救われると言う。そんな簡単に救いが得られてよいのか。考えが甘いのではないか」。そういうご意見をいただきました。確かにその方の言われる通りです。私たちは信じることによって救われます。善い行いをするとか、他の条件が加えられているわけではありません。「信仰のみ」ということが繰り返し強調されてきました。新約聖書のパウロが書いた手紙などでも見られる表現ですし、今日の聖書箇所で主イエスがはっきり言われている通りです。

私はその求道者の方にこう答えました。「それではあなたも信じたらどうですか」。そんなに簡単に救いが得られるなら、あなたも信じるだけでよいのだから、信じたらどうか。私はそう言ったのです。ところがその方は言いました。「いや、信じられません」。

実は信じることは、簡単なようで、いちばん難しいことかもしれません。あれもこれも行うよりも、ずっと難しいことです。自分が信じることもそうです。誰かを信じさせる、信仰者にする。これは至難の業です。いや、むしろ不可能であると言った方がよい。

パウロもコリント教会に宛てた手紙の中でこう書いています。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Ⅰコリント一二・三)。「イエスは主である」とは、イエスというお方を救い主であると信じる、そのように言うことです。それは聖霊の導き、神の導きなくしてはできないことだ、パウロはそう言います。信じること、信仰を持つこと、これは人間では不可能な業なのです。

ところがです。その不可能な業を、私たちはすでにしているのです。私たちは信仰を得ています。信仰者です。キリスト者です。二九節のところで「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と主イエスが言われていますが、「神がお遣わしになった」主イエスを、私たちは信じています。「イエスを主である」と告白しているのです。

ここにおられるまだ洗礼を受けておられない求道者の方々も、信じたいと願っている方々です。私たちは自分の力で信じるのではありません。それはできないことです。周りの誰かの力を借りて信じるのでもありません。聖霊の導きにより信じる。それしか道はない。そしてその道を私たちは歩んでいるのです。

主イエスは「天から降って来て、世に命を与える」(三三節)パンとして、来てくださいました。私たちの罪を背負い、十字架にお架かりになりました。そのようにして私たちの罪を赦し、命を与えてくださったのです。これが「生きるにも死ぬにも」私たちを生かすただ一つの慰めです。この慰めは死に際しても有効です。私たちが生きている間も、死につつあるときも、そして死んだ後も、この慰めは変わることはないのです。