松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20150315

2015年3月15日(日)
説教題「先導者キリスト」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章16〜21節

夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

旧約聖書: 出エジプト記 第13章17~22節

聖書には話の流れがあります。福音書は特にそうです。新約聖書の後半にはたくさんの手紙があります。その手紙も話の流れがありますが、中には思いつくままに書いたのではと言われる書簡もあります。しかしその書簡であっても流れがありますし、構造がやはりしっかりしています。

新共同訳聖書には小見出しが付けられています。いつも申し上げていることを今日も申し上げますが、小見出しはとても便利なところがあります。しかし元の聖書にあったわけではありません。特に小見出しが付けられてしまうと、小見出しごとのブロックで話が途切れてしまっているように感じます。しかしもともとは小見出しなどなく、間を空けられることもなく、段落すら分けられることもなく、つながっていたのです。

先週の話は、わずかな食料で五千人以上の人を養う奇跡の話でした。今日の話は主イエスが湖の上を歩かれるやはり奇跡の話です。新共同訳聖書でさらに便利なのは、小見出しの下に平行箇所がどこにあるかを記してくれたことです。

たとえば今日の湖の上を歩かれる話は、マタイによる福音書第一四章二二~二七節とマルコによる福音書第六章四五~五二節にあることがすぐに分かります。五千人を養う話も、マタイによる福音書とマルコによる福音書にもあることがすぐに分かりますが、やはりどちらの福音書でも、同じ話がつなげられていることが分かります。五千人を養い、直後に主イエスが湖の上を歩かれるという流れがあるのです。

なぜそのような順番なのか。言うまでもなく、実際の出来事がそうだったからです。しかしそれだけで済ませてしまうわけにはいかず、やはり内容的な話のつながりがしっかりとあるのです。たとえばマルコによる福音書では、主イエスが湖を歩かれて弟子たちが乗っていた舟に乗られるのですが、その個所にこうあります。「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(六・五一~五二)。

ヨハネによる福音書では、来週の聖書箇所になりますが、この後の箇所に「イエスは命のパン」という小見出しが付けられています。そこにこのような主イエスのお言葉があります。「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(六・二六~二七)。

またこういう記述もあります。「そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(六・三四~三五)。マルコでもヨハネでも、パンの話がまだ続いていることが分かるのです。

先週の説教では、イエスというお方はいったいどなたなのか、それがテーマであるという話をしました。大勢の群集が出てきましたけれども、この人たちは主イエスのことをすぐれた預言者だと思い、自分たちの王に仕立て上げようとしました。それでは弟子たちは主イエスのことをどなただと思ったのでしょうか。本日の聖書箇所は、主イエスが弟子たちに、主イエスとはいったい誰なのかを分からせようとした、そういう話であると言うことができます。

まずは今日の聖書箇所の状況を把握しておきたいと思います。わずかな食料で五千人以上を養った出来事を終えて、夕方になりました。主イエスは群集を避けて、一人で山に登られました。弟子たちとは別行動をしたのです。弟子たちは主イエスを乗せずに舟で出発をしました。なぜ自分たちの師匠を残して行ったのか。それはほかの福音書が説明をしてくれますが、主イエスがそうお命じなったからです。主イエスが強いられた、強制されたと書いてある福音書もあります。

ところが強い風が吹いてきます。湖が荒れてきます。弟子たちの中には元漁師もいましたけれども、なかなか思うように舟を操れませんでした。二五~三〇スタディオンほど漕ぎ出したところ、という記述があります。これは距離にして四~五キロメートルほどになりますが、聖書学者の意見として、ちょうど目的地まで中間地点だったのではないかとか、湖の真ん中あたりだったのではないかというものがあります。二五~三〇スタディオンという数字によって、そのことを表そうとしていると考えることができます。

そこに二つの奇跡が起こります。一つ目の奇跡はすぐに分かります。主イエスが湖の上を歩かれたということです。それでは二つ目の奇跡は何か。二一節にこうあります。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(二一節)。まだ中間地点でした。しかしそれでもすぐに着いた。それが第二の奇跡です。

このような奇跡を目の当たりにして、弟子たちは恐れました。恐れという言葉が一九節と二〇節で使われています。「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」(一九節)。「イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」」(二〇節)。

弟子たちは恐れたわけですが、何に対して恐れたのでしょうか。湖で起こった嵐に恐れたのではありません。確かに嵐に遭ったことは分かりますが、嵐のすさまじさとか、死にそうになったことはほとんど書かれていません。むしろ書かれているのは、主イエスが歩いておられることに対する恐れです。私は聖書でこういう箇所に出会いますと、漢字としては「恐」という字が使われていますが、「畏怖」の「畏」の字を使った方がよいのではないかと思うことがあります。

だいぶ前のことになりますが、私は教会学校の教師をしていた頃のことです。まだ牧師になる志が与えられる前だと思いますが、教師会の中で、あるベテランの先生がこのような意見を出されました。「子どもたちに、主イエスに対する畏れをもう少し教えた方がよいのではないか」、そんな意見でした。畏れは「恐れ」ではなく畏怖の方の「畏れ」での意味です。子どもたちに語られる多くの話は、イエスさまがいつもそばにいてくださる。私たちを導き、守ってくださるという話です。もちろんそれを教えることは大事です。難しいことを教えるよりも、「イエスさま大好き」と子どもたちに思ってもらえるのがよいと私も思います。しかしそればかりだと畏れが消えてしまうのではないか。そういう問題を提起する意見であったと思います。

先週の金曜日、家庭集会が行われました。そこでの一つのテーマが、キリストが私たちの友であるということでした。キリストの友情ということです。キリストは、私たちが悲しみの中にあるときに一緒に涙をしてくださった。嬉しいときに一緒に喜んでくださった。そのような聖書の箇所があります。主イエスは喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いてくださったのだ。そういう友情の話をめぐって、みんなで話し合いました。確かにキリストの友情が聖書に語られていないわけではありません。讃美歌でも「友なるイエス」という言葉が使われています。しかしキリストと私たちとの関係が、普通の友達止まりで終わるわけにはいきません。

ヨハネによる福音書ではっきり言われていることがあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(一五・一三~一五)。

主イエスが友という言葉をこのように使われました。キリストが友である私たちのために命を捨ててくださる、それ以上の大きな愛はないと言われます。そしてあなたがたは友であり、僕ではないと言われます。なぜかと言うと、大事なことは全部あなたがたに伝えたからと言われます。僕には全部を教えないけれども、友になら教える。その意味で主イエスは友という言葉を使われたのです。友は友でも馴れ馴れしい友というわけではありません。この友に対して、私たちは畏れを失うことはないのです。

もう一つ、弟子たちが心底、畏れを抱いたことがありました。二〇節にある「わたしだ」という言葉です。元のギリシア語では、「エゴー・エイミー」という言葉です。とても重要な言葉です。英語では“I am”という言葉になります。

このエゴー・エイミーという言葉は、旧約聖書でも大変重要な言葉です。モーセが出エジプトのリーダーに神から召されます。一本釣りのような形で召されました。モーセは不安を覚えます。当然のことです。自分にはそんな力があるとは思えないし、みんなが自分をリーダーだなんて認めないに違いない。そう思ったのです。

そこで神はモーセに言われます。「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」」(出エジプト記三・一四)。

旧約聖書はヘブライ語で書かれましたが、ギリシア語の翻訳の古い聖書があります。その聖書では、ここに出てくる「わたしはある」という言葉が「エゴー・エイミー」という言葉です。神は「わたしはある」「エゴー・エイミー」“I am”と言われた言葉なのです。

ヨハネによる福音書の中で、このエゴー・エイミーという言葉が繰り返し使われています。一〇回以上も使われています。しかもすべて主イエスが語られた言葉として使われています。もうすでに一回出てきました。主イエスがサマリアの女と対話をされましたが、サマリアの女が「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(四・二五)と言います。そうすると主イエスは「それは、あなたと話しているこのわたしである」(四・二六)と言われます。ここで使われている「わたしである」という言葉が「エゴー・エイミー」です。

そのほかの使われている箇所も挙げておきたいと思います。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(六・三五)。「命のパン」という言葉が加えられていますが、「わたしが…である」というように、「エゴー・エイミー」が使われています。同じように、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(八・一二)と主イエスは言われます。

また、ユダヤ人との論争においては、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(八・五八)。また、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(一〇・一一)と言われ、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(一一・二五)と言われます。

さらには「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)と言われますし、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(一五・五)とも言われます。

「わたしは…である」、主イエスはいろいろな言葉を「エゴー・エイミー」の中に入れて、ご自分のことを話してくださいました。その中で、今日の箇所に出てくる「わたしだ」というのは「エゴー・エイミー」だけであり、いちばん基本的な形ということになります。

弟子たちは、主イエスが湖の上を歩く奇跡によってだけではない。「エゴー・エイミー」、「わたしはある」という言葉によっても、この方が本当に神に等しい方であることを知ったのです。その畏れを感じたのです。

今日の聖書箇所の最後のところになりますが、二一節にこうあります。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」(二一節)。この記述はほかの福音書と違うのですが、主イエスは果たして舟に乗られたのでしょうか。乗る前にすぐに到着したような書かれ方もしています。この二一節を直訳するとこうなります。「そこで彼らはイエスを迎え入れることを欲した。そしてすぐに舟は彼らが行こうとしていた地に着いた」。

「彼らは欲した」というのは未完了形で書かれています。まだ完了していない。この記述からは、実際に主イエスが舟に乗ったのかどうかはよく分からないと思います。むしろそのことはあまり問題にされていないと言った方がよい。主イエスが山におられて不在であった間も、主イエスが湖を歩かれて舟のわきに立っておられた間も、主イエスが導いてくださった。そして最終的には目的地に着いたのだ。主イエスが舟に乗ったかどうかよりも、目的地に無事に着いたということの方がはるかに重要です。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所も、出エジプトの話です。エジプトを脱出した直後の話です。出発にあたってどの道を通ったのか。近道の大通りではなく、わざわざ迂回させられたことが記されています。迂回させられたことにより、葦の海に連れて行かれ、そこで海が二つに分かたれるという奇跡を目の当たりにすることになりました。その間、いつでも火の柱と雲の柱によって守られ、導かれたことが記されています。

主イエスもそうです。舟に乗っているかどうかは別に問題ではない。むしろ「エゴー・エイミー」と言ってくださることの方が重要です。「わたしはある」という言葉の方が私たちにとって重要なのです。この言葉には、たくさんの言葉を付けることができます。主イエスならば、どんな言葉をも付けることができます。私たちが暗闇におかれたときには、「わたしは世の光である」と言ってくださいます。道を失っているときには、「わたしは道である」と言ってくださいます。死のただ中におかれているときには、「わたしは復活であり、命である」と言ってくださいます。

今日の箇所では「わたしだ」、たったその一言ですが、神に等しい者であることを示してくださいます。そのように言ってくださる方が、神として、人として、そして私たちの友として、十字架に架かり命を懸けて、私たちを愛してくださる。それが主イエスというお方なのです。