松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年3月8日(日)
説教題「小さな献げものが、大きく用いられる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章1〜15節

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

旧約聖書: 列王記下 第4章42~44節

今日からヨハネによる福音書の第六章に入ります。先週までは第五章でした。第五章の全体で、全部で五回の説教をしました。第五章は一つの章として内容的に完結しています。第五章の一節に「その後」とあります。第六章の一節にも「その後」とあります。同じ言葉です。「その後」に書かれることは、前の内容とは違うということになります。第五章だけで完結しているのです。

聖書学の世界では、第五章の位置づけが一つの問題になります。なぜかと言うと、第四章から第六章まで、このような流れがあるからです。第四章で主イエスと弟子たちは南のユダヤから北のガリラヤへ旅をします。途中、サマリアを通り、サマリアの女の話があります。そしてガリラヤに到着をする。それが第四章です。

第五章はいきなりガリラヤからエルサレムへと話が飛んでいます。エルサレムの神殿にあるベトザタの池で三八年も床に臥せっていた男を主イエスが癒されます。この癒しをめぐり、ユダヤ人との間で論争がなされる。すべてエルサレムでの話です。ところが第六章に入ると、いきなりエルサレムからガリラヤに舞台が飛んでいる。場所だけを考えると、そういう流れになっているのです。

聖書学者たちの間では、いろいろな推測がなされています。もともと第四章の次に第六章という流れがあったのに間に第五章が割り込んだとか、第五章と第六章がひっくり返ったのではないかとか、様々な議論がなされています。

この説教では、聖書学的な議論を深めることが目的ではありません。私たちにとって大事なのは、なぜ第五章の後に第六章があるのかということです。内容的な流れをつかむことが大事です。第五章では三八年間床に臥せっていた男が癒されました。主イエスがその奇跡、しるしという言葉が使われていますが、しるしを行いました。そのことをめぐってユダヤ人との間で議論になる。イエスという男はいったい誰かという議論です。

その流れで第六章へ至っています。今日の聖書箇所で、主イエスに預言者という名称が使われたり、王という名称が使われたりしています。主イエスは預言者なのか、王なのか。そうだとすればどんな意味で預言者であり、王なのか。今日の聖書箇所はまさに主イエスが誰であるかという問いに答えているのです。ヨハネによる福音書の流れからすると、そういう内容的な流れがあるのです。

今日の聖書箇所の登場人物は、主イエス以外に、大勢の群集、弟子たち、一人の少年が出てきます。いろいろな人物たちが出てきますが、それぞれの登場人物にスポットライトを当てて、考えてみたいと思います。

まずは大勢の群集です。大勢の群集のことは、二節と五節に出てきます。「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(二節)。「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て」(五節)。主イエスがなさったしるしを見て、主イエスのところにやって来たわけですが、わずかな食料で五千人以上の人たちを養うしるしを経験することになります。

そうすると大勢の群集がどうしたかと言うと、一四~一五節にこうあります。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(一四~一五節)。大勢の群集は主イエスを王にしようとした。この一四~一五節をどのように理解するかが大事なポイントです。

毎週木曜日にオリーブの会を行っています。聖書や信仰の初歩的なことを学ぶことができる会です。毎週テーマを決めていますが、先週のテーマは「聖書を読むコツ」でありました。いくつかの聖書箇所を取り上げますが、先週取り上げた聖書箇所の一つが、主イエスが誘惑を受けられる箇所です。出席者の中から、大事なポイントを突いた質問が出されました。「なぜ主イエスは最初のところで誘惑を受けられたのか」という質問です。

その質問の通り、主イエスは洗礼者ヨハネという人物から洗礼を受けられ、すぐにサタンから誘惑を受けられます。荒れ野で四十日間を過ごすのです。そして誘惑を退けられ、本格的に宣教を開始されます。主イエスは至るところで神の国を宣べ伝え、そして最終的には十字架にお架かりになります。主イエスは人間の罪を赦す救い主です。罪を赦し、神のもとに人を立ち返らせる救い主です。誘惑後、その救い主としての道を歩まれました。

しかしサタンとしては、主イエスにそんなことをされてしまっては大変困るわけです。そこで最初のところで誘惑をした。全部で三つの誘惑がありましたが、第一の誘惑はこうです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ四・三)。それに対して、主イエスはこう答えられます。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ四・四)。主イエスは「…と書いてある」というように、聖書の言葉で答えられます。石がパンになる。これはすごいことです。世界の飢餓の問題が解決するかもしれません。

しかし主イエスはそのような意味での救い主に限定できません。私たち人間の胃袋を満たす救い主であったり、何か人間の必要なものを満たすだけの救い主ではないのです。サタンの誘惑はまさにこれがポイントでした。主イエスを本当の救い主から格下げをしたい。その誘惑は失敗しました。主イエスは誘惑を退け、本当の救い主としての道を進んでくださった。それが、誘惑の話が最初のところに置かれている理由です。

ここでの群集もサタンと同じようなところがあります。主イエスが五千人以上の人を養うという奇跡を行う。その結果、主イエスのことを預言者だと叫び、王にしようとする。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の列王記下には、預言者エリシャが出てきます。エリシャも大麦のパン二十個によって、百人の人を養った。イスラエルの出エジプトのリーダーであったモーセは、四十年にわたる荒れ野の旅の間、マナという食料によってイスラエルの人たちを養いました。もっともモーセが与えたわけではなく、神がマナを与え、養ってくださったのですが、そんなモーセの姿に主イエスを重ね合わせるところがあったのでしょう。モーセが現れた、エリシャが現れた。人々はそう思って、主イエスを自分たちの王にしようとしたのです。

今日の聖書箇所の最初のところに、「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」(一節)とあります。ガリラヤ湖だけでもよさそうですが、ティベリアス湖という別名が付けられています。当時のローマの皇帝の名をティベリウスと言いました。その人にちなんで付けられた湖の名前です。ユダヤ人たちにとっては、自分たちの湖をローマ皇帝の名前で呼ばなければならないのは、屈辱的なことだったでしょう。自分たちはローマに支配されている。支配を良しとしないユダヤ人たちにとっては、その支配から解放してくれる解放者が現れた。私たちの王が現れた。そんな思いがあったのだと思います。

二千年前の大勢の群集はそんなところがあったわけですが、私たちにもそんなところはないでしょうか。主イエスが本当はどういうお方なのか、どういう力をお持ちなのか、私たちにはわかっているでしょうか。主イエスの本当の力を見くびってしまうことはないでしょうか。神を本当の神から自分の都合の良い神へと格下げしてしまうようなところはないでしょうか。

一五節の言葉に注目をしてみたいと思います。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(一五節)。新共同訳聖書の翻訳は、少し柔らかすぎるところがあるかもしれません。かつての口語訳聖書はこうなっていました。「自分をとらえて王にしようとしていると知って」。さらに新改訳聖書ではこうなっています。「自分を王にするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って」。ある聖書学者はこう訳しています。「自分を王にするため、来て奪おうとしているのを知って」。

この聖書学者が翻訳をしている通り、元のギリシア語の言葉は、略奪する、強奪する、奪うという意味があります。暴力的な意味のある言葉です。ヨハネによる福音書では、今日の箇所を含めて四回使われている言葉であり、「奪う」と訳されています。主イエスがよき羊飼いであるという話をされている箇所では、狼が羊を「奪う」というように使われています。大勢の群集は主イエスを奪おうとした。王にするために無理やり強奪しようとした。そんな意味が込められています。私たちも主イエスを自分の都合のよい救い主として、強奪しているところはないでしょうか。

大勢の群集の次に、スポットライトを当てたのが弟子たちです。今日の聖書箇所ではフィリポとアンデレの二人が主に出てきています。フィリポとアンデレも、大勢の群集とあまり変わるところはありません。主イエスのことを強奪し、自分の頭で考えられる範囲でしか考えていません。フィリポの言葉はこうあります。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(七節)。アンデレの言葉はこうあります。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(九節)。いずれも主イエスの力を見くびっている発言です。

特に注目したい言葉は、六節の「フィリポを試みるため」という言葉です。主イエスがフィリポを試みられた。フィリポは試された。わざわざフィリポを試さなくても、いきなり少年からパンと魚を受け取って五千人を養ってもよかったはずです。主イエスは少しの時間をかけて、わざわざフィリポを試しておられるのです。このことをどう考えたらよいでしょうか。

年度末の歩みを私たちは歩んでいます。この時期は数字をまとめる時期でもあります。私たちが属しています日本基督教団の教区から、先日書類が届きました。書類に数字を記入して提出しなさいと言われています。教会の人数を書き入れ、会計の数字を書き入れなくてはなりません。そういう数字を、この場でフィリポは即答することができました。

考えてみると、今日の聖書箇所にはずいぶんたくさんの数字が出てきています。フィリポは二百デナリオン分のパンでは足りないと計算しています。アンデレは一人の少年を見出し、五つのパンと二匹の魚を持っていると報告しました。群集を座らせて数えてみると、男だけで五千人であった。そして余ったパンを集めると、十二のかごがいっぱいになった。そんな数字が出てきます。

これらの数字のうち、二百デナリオンと五つのパンと二匹の魚はすぐに分かった数字です。五千人は、群集を座らせていくうちに、だんだんと分かってきた数字です。最後まで分からなかった数字が十二かごという数字です。最初に十二かごという数字が出てくるというのは、誰も思っていなかった数字です。

主イエスはわざわざフィリポを試みました。その結果、フィリポは駄目でした。そういうことを主イエスはお考えになったわけではありません。フィリポも弟子の一人として、かごを背負い、パンを集めたのだと思います。十二かごの一人になった。だんだんと重くなっていくかごを担ぎながら、主イエスの本当の力を実感していったことでしょう。主イエスに試みられたことによって、フィリポに変化が生じた。主イエスの試みの理由がそこにあります。

フィリポが試みられている間に、アンデレが登場しています。一人の少年を連れてきたアンデレです。この人はヨハネによる福音書の中に、全部で三回登場しています。一回目は第一章です。「シモンをイエスのところに連れて行った。」(一・四二)。兄弟であるシモン、つまりペトロのことを主イエスのところに連れて行ったことが書かれています。二回目は今日の箇所です。少年を主イエスのところに連れて行っている。三回目は第一二章です。ギリシア人が「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(一二・二一)とお願いをしてきます。「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」(一二・二二)。このときはフィリポと一緒ですが、ギリシア人たちを主イエスのところに連れて行っています。

三回出てくるアンデレが、いずれも主イエスのところに人を連れて行っている。これは偶然でしょうか。おそらく偶然ではないと思います。それ以外にもあったのかもしれませんが、アンデレは人を主イエスのところに連れて行っている。そのことが得意な人だったのかもしれません。主イエスの本当の力を見くびりながらも、こんなことをしていた。それがアンデレです。

アンデレが連れてきた一人の少年は、ヨハネによる福音書だけにしか出てきません。この五千人を養う話は、マタイ、マルコ、ルカにもあります。すべての福音書にある話ですが、五つのパンと二匹の魚を持っていたことを記しているのは、ヨハネによる福音書だけなのです。次はこの少年にスポットライトを当ててみたいと思います。

「少年」というように訳されています。何歳くらいだったのでしょうか。実は聖書の元の言葉では、「少年」というよりも「子ども」と訳した方がよい言葉です。しかもわざわざ「大麦」のパンであったと記されています。これもヨハネによる福音書だけにしか記されていないことです。パンは普通、小麦で作ります。当時もそれが一般的でした。しかしわざわざ「大麦」ということが強調されている。なぜか。一つの理由は、本日の旧約聖書に記されているように、エリシャのときと同様、大麦だったという関連性を主張するためです。しかしもう一つの理由は、小麦でパンを作ることができなかったから、大麦で作らざるを得なかったからという理由が挙げられます。

この少年、いや子どもは、貧しい家庭の子どもだったのか。そうすると親が持たせてくれた食料ということになります。あるいは少年奴隷だったと考える人もいます。そうすると、主人から与えられた一日分ないし数日分の食料ということになります。いずれにしても少年にとっては大事な食料です。自らが進んで献げたというわけでもなさそうです。アンデレに見出されて、大人から言われて差し出さざるを得なくなったのかもしれません。

このように、今日の聖書箇所には、大勢の群集、弟子たち、少年が出てきます。誰も主イエスの本当の力を知らなかった。その力を信じて、わずかなものを差し出したというわけでもない。人間としての手立てや力は何一つありませんでした。しかし主イエス自らが力を発揮され、ご自分が本当は誰かということを示してくださいました。

一〇節のところからが、五千人以上を養う奇跡の本題に入っていくところです。「そこには草がたくさん生えていた」(一〇節)とあります。ヨハネによる福音書にしかない記述です。どうでもいいような記述ではありません。マルコによる福音書には、代わりに「大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ六・三四)とあります。主イエスが羊飼いとして、草に羊たちを導き、羊たちを養う話になっているのです。

もう一つ注目したのが一二節の言葉です。「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。」(一二節)。主イエスのこの会話を記録してくれたのは、ヨハネによる福音書だけです。「無駄にならないように」と主イエスが言われている。この言葉には主イエスの強い意図が込められている言葉です。

有名な第三章一六節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(三・一六)。「滅びないで」という言葉が同じ言葉です。同じ第六章の三六節にもこうあります。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(六・三九)。「失わないで」という言葉が同じ言葉です。「少しも無駄にならないように…」と主イエスが言われる。それは「一人も失われないように」「一人も滅びないように」、そういう主イエスの強い思いが込められた言葉なのです。

私たちは今、礼拝をしています。礼拝をする、行う、守る、献げる。いろいろな言い方があります。いずれにしても、私たちが献げている礼拝は小さな礼拝です。ここに五十人くらいの方がいらっしゃるでしょうか。しかしその人数がたとえ一人でも、五人でも、それこそ五千人でも、主イエスは私たちを養ってくださいます。どんなに大人数でも、もちろん少人数でも、その恵みは変わることがありません。主イエスは私たちの羊飼いとして養ってくださいます。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、主イエスはサタンからの誘惑の際に、聖書の言葉でそのように答えてくださいました。その意味を改めて噛みしめたいと思います。主イエスがいったいどういう救い主なのか。お腹を満たすための救い主でもなければ、自分の理想の王としての救い主でもありません。自分の願いをかなえてくれる救い主でもなければ、自分の必要だけを満たす救い主でもありません。

そうではなく、主イエスは私たちの罪を赦し、死を乗り越えさせてくださる救い主です。そのために、私たち人間の罪をすべて背負い、十字架にお架かりになってくださった。私たちが頭の中で考えられる範囲に収まる救い主ではない。強奪された王でもない。私たちの考えをはるかに超え、はるかに超えたことをしてくださる救い主なのです。