松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年2月22日(日)
説教題「聖書を味わう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第5章31〜40節

「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

旧約聖書: エレミヤ書 第31章31~34節

教会の暦では、すでに受難節に入っています。主イエスの十字架でのご受難を覚える季節です。受難節のことを外国語でレントと言いますが、レントは先週の水曜日から始まっています。毎年、イースターの時期は変わります。それに合わせて受難節の始まりも変わるわけですが、変わらないこともあります。それは、受難節が必ず水曜日から始まるということです。

イースター前の四十日間、主イエスのご受難を覚えて断食をする習慣がありました。主イエスも荒れ野で誘惑を受けられた際に四十日間、断食をされました。四十というのは、何かと聖書では意味のある数字です。その期間中、断食をする。しかしその期間中でも、日曜日は主イエスの復活された日でありますから、日曜日は断食をしない。イースター前の日曜日を除いて四十日を数えると、必ず水曜日になるわけです。先週の水曜日からレント、受難節に入りました。

エルサレムにキリスト者が旅行に行きますと、必ず「ヴィア・ドロローサ」という道を歩くことになります。私は行ったことがないのですが、「ヴィア・ドロローサ」とはラテン語の言葉で、日本語に翻訳をする「悲しみの道」となります。受難節に私たちが思い起こす主イエスの十字架への足取りと、同じ道を実際にたどることになります。

この「ヴィア・ドロローサ」には「留」と呼ばれる停留所のようなところがいくつもあります。第一留から第十四留まであります。実際のその場所にプレートがあるそうですが、第一留はピラトに裁かれる場所です。第二留は有罪に定められ、鞭で打たれる場所。第三流は十字架を背負い、最初に倒れた場所。第四流は悲しむ母マリアと出会った場所。第四流はキレネ人シモンが主イエスの一時的な代わりに十字架を背負った場所。

少し間を飛ばして、第十一留は十字架が立てられた場所。第十二留は主イエスが死なれた場所。第十三留は十字架の下の母マリアがいた場所。最後の第十四留が主イエスの埋葬された墓になります。最後の方はほとんどが同じ場所になりますが、きちんとそれぞれの留があるのだそうです。そのようにしてエルサレムを訪れたキリスト者は、主イエスのご受難をたどっていき、主イエスの十字架での死を覚えるのです。

私たちは月に一度、聖餐を祝います。聖餐の最初に朗読する聖書箇所に、こういう言葉があります。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント一一・二六)。この箇所を書いたのは使徒パウロですが、パウロは主イエスが十字架で死なれたことを忘れるな、聖餐を祝うたびに思い起こせと言います。主イエスが十字架で死なれたことを、受難節のときだけでなく、いつでも忘れるわけにはいかない私たちです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、十字架の出来事よりもずっと前の話です。しかし十字架のことが視野に入っていないわけではない。いつでも十字架を目指して、主イエスは歩みを続けておられます。

今日の聖書箇所に「証し」という言葉が何度も使われています。証しとはいったい何でしょうか。教会でも「今日は誰々の証しを聴きます」と言うことがあります。その場合、証しをしてくださる方の話を聴くわけですが、多くの場合、洗礼を受けた時の話などが出てくることになります。でもそれは自分の話であって、自分の話ではないのです。神が自分を導いてくださった話です。神の話がなされることになります。証しとは自分が主語になるのではなく、神が主語になる。そんな特徴があります。

説教も実はそれと同じところがあります。昔の説教と比べると、最近の説教は力がなくなっているなどと言われることもあります。実際にそうなのかはきちんと考えなければなりませんが、もしそうだとすれば、一つの原因は神を主語としない。人間が主語になってしまう。それが原因であると言われることがあります。「私たちも…しましょう」という、所詮、この世の話で説教が終わってしまう。そうではなく、説教とは神が私たちを救ってくださる話でなければならない。神が主語にならなければいけないのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所において主題となっているのは、主イエスのことを誰が、あるいは何が証しをしているのかということです。証しという言葉を言い換えると、証言と言い換えることができます。証言というのは、少し硬い表現かもしれませんが、裁判用語です。実際にこの聖書箇所でも、裁判用語として使われているところがあります。

三一節にこうあります。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」(三一節)。主イエスご自身がこのように言われています。自分で証しをする、つまり自己証言をするならば、それは真実ではないと言われる。どいうことでしょうか。

参考になる聖書箇所として、同じヨハネによる福音書第八章一二~一八節をお読みいたします。「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」」(ヨハネ八・一二~一八)。

この箇所では、主イエスがまず「わたしは世の光である」と言われています。いわば自己証言をしているわけです。そのことをファリサイ派から突っ込まれます。しかし主イエスは「二人が行う証しは真実である」という旧約聖書の律法の言葉を引用し、私の自己証言だけでなく、父なる神も私について証しをしてくださっている。一人の自己証言ではなく二人ではないかと言われるわけです。

それを踏まえますと、本日、私たちに与えられた聖書の箇所で、まず主イエスが言われていることは、自己証言だけだとしたら問題かもしれない。しかしほかにもたくさん証言がある、そう言われているのです。

まず主イエスが挙げている証言者は、洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは、主イエスの少し前に現れた人で、人々に悔い改めの洗礼を授けていた人です。これから救い主、メシアが来られるから、あなたがたは悔い改めよと洗礼を授けていた人です。主イエスもこの人から洗礼を授かりました。

この洗礼者ヨハネのことが、三三節と三五節で挙げられています。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」(三三節)。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」(三五節)。今、再び三三節と三五節の朗読をいたしましたが、お気づきになられたでしょうか。これ以外の節はほとんど現在形で書かれているのに対して、この三三節と三五節だけは、過去の形で書かれています。

つまり、洗礼者ヨハネは主イエスのことを証言したのですが、過去の証言です。もうすでに終わってしまった証言です。証言には証言なのですが、過ぎ去ってしまったもの。完全なものに比べると不完全なものと言うことができます。主イエスが三六節のところで、「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と続けられている通りです。

それでは、完全な証言として、どんなものが挙げられているのか。まず挙げられているのが、「業」です。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」(三六節)。「業」というのは教会用語で、教会以外ではなかなか通用しない言葉であるかもしれません。英語の聖書では“works”となっています。働きということです。

しかも複数形です。主イエスがなさった一つだけの業ではなく、たくさんの業、働きです。第五章の最初にあったような、三八年間も床に臥せっていた男を起き上がらせた業だけではない。聖書に書かれているたくさんの業も含まれます。しかもこの箇所は過去形ではなく現在形で書かれていますから、今もなおなされている業であると言えます。それらのたくさんの業によって、主イエスのことが証言されていることになります。

続く三七節では、父なる神ご自身が証しをしてくださることが言われています。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」(三七節)。ここも現在形で書かれています。父なる神は今もなお証しをしてくださっているということになります。

そして三九節のところには、聖書が主イエスを証ししていることが言われています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(三九節)。これもまた現在形です。聖書が今も主イエスを証言している。日本基督教団信仰告白の言葉はこのように始まります。「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証しし…」。

私たちが信じ告白していることとして、まず挙げられているのが、聖書のことです。聖書は神の霊感、つまり神の導きのもとに書かれ、キリストを証しするものである…。信仰告白の言葉には必ず聖書の根拠があります。このキリストを証しするという根拠の聖書箇所が、今日の聖書箇所になります。

まとめますと、主イエスが言われているのは、決して自分の証しは自己証言ではないということ。そのほかに何があるかと言うと、洗礼者ヨハネからの証言、これは不完全な証言であると言えます。しかし、業の証言、父なる神ご自身の証言、そして聖書の証言。たくさんの証言があることを主イエスはここで言われているわけです。

今日の説教で特に目を留めたいのが、聖書からの証言です。三九節を改めてお読みいたします。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(三九節)。「研究している」という言葉があります。かつての口語訳聖書では「調べている」となっていました。他の多くの聖書も「調べている」となっています。聖書のほかの箇所でもこの言葉が使われていて、そこではやはり「調べる」となっていたり、「究める」となっているところもあります。研究の「究」の字が使われているわけです。

聖書を究めるということは、当時のユダヤ人たちが実際にやっていたことであるそうです。ユダヤ人たちにとって、とにもかくにも重要なのは、エルサレムの神殿であり、聖書に書かれている律法でした。しかしヨハネによる福音書が書かれた時代は、すでに神殿が破壊されていた時代です。主イエスの十字架の出来事が起こった後、ヨハネによる福音書が書かれる前に、エルサレムの神殿はローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいました。今でも嘆きの壁という一部が残るのみです。

そうなってくると、律法がますます重要となってきます。ユダヤ人は律法依存の時代へ突入していくことになります。文字通り、聖書に書かれている律法を究めつくす。研究するのです。その律法を守って生活することが、命を得ることだと考えるのです。

しかし聖書を読んでいますと、律法を守ることができない人たちがたくさん出てきます。律法を守ることができないこと、それが罪を犯すということですが、罪人たちがたくさん出てくるのです。そういう聖書箇所を読んでいると、他人事のように思えなくなってくる。自分も同じではないかと思うようになる。自分も律法を守り得ない、神に従って生きることができない者であることが分かってくる。聖書を究めることなどできないのです。

主イエスが言われているのは、まさにそのことです。究めることができない。究められないのだから、命も得られない。だから、私のもとに来ることがどうしても欠かすことができなくなります。聖書を本当に読んだとすれば、主イエスとかかわりを持たざるを得なくなる。それが聖書の読み方だと主イエスは言われます。

主イエスは二千年前のユダヤ人たちにそのようなことを語られましたが、今の私たちも同じです。今の私たちが聖書を読み、聖書に親しみ、聖書を味わうとするならば、いったい何が起こるのか。聖書に触れた私たちは、どういうふうに変わっていくのでしょうか。

加藤常昭先生が『説教論』という本を出されています。その中に「黄色いキリスト」という論文があります。もともとこれはドイツでなされた講演でありまして、それを日本語に書き直したものになります。とても面白いタイトルですが、日本人の肌の色は黄色です。黄色人種です。そんな日本人がイエス・キリストの絵を描くとしたら、どんな絵になるか。たいていの場合は、金髪で、少し髪が長く、凛々しい顔をした主イエスが書かれます。それは白人のキリストです。ヨーロッパやアメリカで描かれるのと同じキリストになります。

しかし主イエスはユダヤ人です。近頃、コンピューターの技術を駆使して、主イエスの顔がこんな顔だったのではないかとシミュレーションした画像を観たことがあります。それはおおよそ絵画の中で観るようなキリストとはかけ離れています。アフリカではキリストが描かれると黒人のキリストが描かれるそうです。それでは日本は黄色いキリストが描かれるのかというと、そんなことはない。このことから、日本にはまだキリストが自分たちの救い主として馴染んでいないのではないか。いつまでも外国の宗教だと思われているのではないか。ドイツ人からそんな批判を受けたことがあったのだそうです。

しかし加藤先生はさらなる問題提起をしています。黄色いキリストを日本の画家たちが描きさえすれば問題が解決するのか。いや、決してそれだけでは済まない。むしろ大事なのは、黄色い私たち日本人が、聖書を読んで神を信じるようになり、黄色いキリスト者になったら何が起こるのかということではないか、そう言われるのです。

加藤先生もそこで挙げられていますが、明治時代のキリスト者に内村鑑三という人がいました。この人の墓は東京にあります。その墓と同じ墓碑銘、墓に刻まれている言葉が、軽井沢の石の教会にあります。教会の建物の傍らに、同じ墓碑銘があるのです。そこにはこうあります。“I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God.”(私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、すべては神のために)。

この言葉を自分の墓に刻むように、生前から内村鑑三はこの言葉を用意していました。この言葉に生きていたのです。内村鑑三は、真の意味での愛国者であったと言えます。キリストのため、神のために、日本を献げようと本気で思った。そのために働いていたのです。

ところが明治二四年のことになりますが、内村鑑三の「不敬事件」と呼ばれる事件が起こってしまいます。当時、内村は第一高等中学校に勤務していました。明治天皇から授かった教育勅語に最敬礼しなければならない。そういう場面で、内村は最敬礼しなかった。そのことがマスコミに大きく「不敬事件」として取り上げられてしまい、最終的には辞職せざるを得なくなった。内村は真のキリスト者であり、真の愛国者であったがゆえに、迫害されたのです。

今、私たちが生きている時代においても、内村鑑三の時代と同じことが起こるかもしれません。主イエスを信じ、聖書を味わう黄色いキリスト者である私たちです。日本人でありながらも、天に国籍を持つ、いわば日本人とは違う日本人になっている。黄色いキリスト者である日本人と、多くのそうではない日本人との衝突も起こるかもしれません。それでも私たちは黄色いキリスト者である日本人として生きなければなりません。

黄色いキリスト者として、ほかの多くの日本人が知らなかったとしても、私たちは忘れるわけにはいかないことがあります。主イエスが「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)をたどってくださったこと。その道の先に十字架の死があったこと。神の子が十字架で死んでくださったということ。パウロもその主の死を告げ知らせよと書いたのです。それこそが聖書に書かれていることです。聖書を味わう中で、聖書に貫いて書かれていることこそが、神の子が十字架にお架かりになったということです。

いったい何のために神の子が十字架にお架かりになったのでしょうか。私たちの罪を赦すためです。聖書を究めて決して究めきれず、律法を守ろうにしても決して守りきれない私たちの罪を贖うためにです。罪を赦す唯一の方がおられる。それがイエス・キリストであり、そのイエス・キリストを聖書が証ししています。聖書を味わう私たちは、聖書を通して主イエスに近づき、主イエスを信じ、罪赦された命をいただくことができるのです。