松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年2月15日(日)
説教題「キリストの権威」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第5章19〜30節

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

旧約聖書: ヨブ記 第37章14~24節

本日の説教の説教題を、「キリストの権威」と付けました。その理由は二七節にあります。「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。」(二七節)。「権能」と訳されていますが、「権威」ということです。他の聖書箇所では「権威」あるいは「力」という意味で用いられています。

主イエスに権威が与えられていたということですが、何の権威かというと裁く権威です。普通、裁判官というのは、資格を得て、そして裁判官として任命されて初めて、裁きを行う権威、権能を授かります。主イエスの裁きを行う権威とは、いったいどういうことなのでしょうか。

一九節に「彼らに」とあります。彼らとはいったい誰か。この前の文脈からわかることですが、彼らとはユダヤ人たちのことです。ユダヤ人一般であるというよりも、ユダヤ人たちの中でも何らかの権威ある者たちだったようです。その権威あるユダヤ人たちに、主イエスが語られた内容が今日の聖書箇所に記されています。

ここでのユダヤ人たちにとって、主イエスは田舎から突然現れたような人物に映ったようです。たいそうなことをしているようだけれども、いったいお前は何者だ、何の権威があるのか、そんなことが問われているわけです。主イエスが行かれるところ、いつでもどこでも主イエスの権威のことが問題になると言っても過言ではありません。この男はいったい誰だ、それが問われる。

私たちも主イエスの権威のことを、あまりよく考えないかもしれません。普段、なんとなく主イエスの言葉を聴いているところがあります。しかしなぜ主イエスの言葉を聴くのか。主イエスにどんな力があるのか。どんな権威があるのか。本当にそのことをわきまえて聴いているか。私たちも問われています。

主イエスの権威についての問答が、ヨハネによる福音書だけでなく、他の福音書でも記されています。マタイとマルコとルカによる福音書、どの福音書にも「権威についての問答」の同じ話が記されています。どの福音書でもよいのですが、ルカによる福音書の第二〇章一~八節をお読みしたいと思います。

「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」」(ルカ二〇・一~八)。

このとき主イエスはご自分の権威をお答えになりませんでした。しかし本日のヨハネによる福音書の聖書箇所で明確に答えていると言えます。ある聖書学者はこう言っています。この聖書箇所ほど、主イエスが明瞭に自己紹介をしておられる箇所はない、と。今日の聖書箇所から、主イエスの権威を聴き取りたいと願います。

本日の聖書箇所に至るまでの流れをまず確認しておきたいと思います。第五章からずっと話が流れて続いています。ベトザタの池で三八年も床に臥せっていた男が主イエスによって癒されました。床を担いで歩きなさいと主イエスから言われたので、その通りにしました。しかしこの日が安息日で床を担いで歩くことが労働とみなされた。床を担いで歩けと命じたのは誰だということになり、主イエスがとがめられた。

そして先週の箇所になりますが、主イエスが一七節のところでこう答えられています。続く一八節も合わせてお読みします。「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(一七~一八節)。

主イエスのこの発言から、彼ら、つまりユダヤ人たちのことですが、彼らは神と等しいなどという権威がこの男にあるはずがないと思ったわけです。そこで、主イエスがご自分の権威のことを語り始めた。第五章の一九節から始まって、第五章の終わりまでずっと続いていきます。

ヨハネによる福音書の特徴として見られるのは、長々とした論争が途中に挟まれていたり、主イエスが長い話をされていることがあります。ある牧師はヨハネによる福音書の説教をしたそうですが、その際に有名なところだけを取り上げ、長々としたところは全部省いたのだそうです。そういうやり方だと、今日の聖書箇所などは飛ばされてしまう箇所ということになります。

そのような説教の仕方もよいかもしれませんが、大事なところを読み飛ばしてしまうことになるかもしれません。安息日に癒しをしたというのはどういうことか、安息日に主イエスが働いておられるとはどういうことか、父なる神と等しいとはどういうことか、それらの問いは主イエスが今日の箇所で明瞭に説明しておられることです。私たちはその個所を飛ばすわけにはいきません。

ついでも申しますと、今日の聖書箇所には「はっきり言っておく」という言葉が三回も出てきます。この表現はヨハネによる福音書の中に繰り返し出てくる表現ですが、一九節のところと、二四節のところと、二五節のところに三か所、集中的に出てきます。かつての口語訳聖書では「よくよくあなたがたに言っておく」となっていました。さらに古い文語訳聖書では「まことに誠に汝らに告ぐ」でした。

ギリシア語の言葉を直訳すると「アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う」となります。アーメンという言葉が二度にわたって使われている。そのような言葉を主イエスが三度も繰り返し話されている。今日の聖書箇所がいかに大事かということが分かってくると思います。

主イエスの権威がどこから来るのか。まず言われていることは、こういうことです。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。」(一九節)。父なしには自分は何もできないと主イエスは言われる。今日の聖書箇所の最後の三〇節にも同じような言葉があります。「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。」(三〇節)。

主イエスが言われていることは「父のなさることを見なければ」「父から聞くままに」という言葉に表れているように、父なる神の行為と言葉を完全に知っているということです。それが主イエスの権威の源であります。

これと対照的なのが、旧約聖書のヨブ記です。ヨブ記の主人公はヨブという人物です。信仰深く、多くを恵まれていた人でしたが、あるときヨブに悲劇が襲います。財産を失い、家族の多くを失ってしまいます。そのような悲劇の中で、ヨブはなぜ自分にそのような出来事が起こったのか、その意味を問います。

友人三人が見舞いにやって来ましたが、友人たちと論争になります。なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないのか。ヨブがそのように言ったかと思えば、友人たちはお前にも悪いところがあったのではないかと言います。そんなことはないとヨブは言い返す。まったく慰めにならない論争が続いていきますが、ヨブはなぜ自分がこのような苦悩に遭っているのか、その答えをまったく知ることができません。

エリフという人がこの論争を聞いていたようです。エリフは最初、黙っていましたが、第三二章から語りだし、今日の旧約聖書の箇所である第三七章の箇所まで語っています。「ヨブよ、耳を傾け、神の驚くべき御業について、よく考えよ。あなたは知っているか」(ヨブ三七・一四~一五)。

このようにエリフが語り終わったのちに、神が沈黙を破り、口を開かれます。神もいろいろなことを語られていますが、一言でそれをまとめるならば、「私が世界を造ったのだ。その時、お前は何をしていたか、それを見ていたのか」ということになります。そのように神から言われたヨブは悔い改めました。私は何も分かっていませんでした。私は神ではありませんでした。そんな権威はありませんでした。知りたかった苦難の意味も分からないままですが、自分は神ではなく人間であったことをわきまえた。そして悔い改めたのです。

ヨブ記は苦難の意味を問うている書ですが、結局、答えは与えられません。むしろヨブ記が私たちに教えてくれることは、私たち人間は神ではないということです。しかし主イエスはそうではない。人間とはまったく違う権威が父なる神から与えられている。自分は何もしない、できないと言われる。しかし神と等しく、すべてを見聞きして知っておられ、その通りにすると言われている。二二節に「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と言われている通りです。

裁くということはどういうことか。はっきりと区別するということです。二三節にこうあります。「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」(二三節)。父を敬うかどうか、それは子を敬うかどうかで分かる。つまり父なる神を信じるかどうかは、主イエスを信じるかどうかで分かる。その意味で違いがはっきりとすると言われるのです。

先週の水曜日に、原発の問題に関する講演会が行われました。日本基督教団ではありませんが他教派の教会の牧師で、古くから原発問題に取り組んでおられる方がお話をしてくださいました。いろいろな問題点を明るみに出して教えてくださいました。原発を推進しているのは、単にエネルギーの問題だけで推進をしたいというわけではありません。原発を推進する何よりの原動力となっているのは、とにかく金になるということです。原発を輸出することによって金を得る。将来的に核兵器を転用できるようなものを作るために原発を推進する。これは莫大な金になるわけです。

主イエスは神か富に仕えるかのどちらかだと言われました。原発というのは、富に徹底的に仕える道を追求したものであるということが、つくづくよく分かりました。その道を追求したときに、地が汚染されることも、人が被害を受けることもお構いなしになってしまうわけです。

原発は奥に潜んでいるものがなかなか明るみにでないようにしているところがあります。講演会では講師がそれを明るみに出してくれたわけですが、裁きというのはそういうことが全部明るみに出されるということです。どんなにうまく人間の目には隠せたとしても、ごまかせたとしても、神の前には明るみに出される。現代人は特にそのことを忘れてしまいがちです。しかし私たちも人を笑うわけにはいきません。私たちもどこか神が見ておられることを忘れてしまう。つまり神の裁きを忘れてしまうのです。

二八節から二九節にこうあります。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(二八~二九節)。「驚いてはならない」というのは、これから驚くべきことを言うけれども驚くなということです。時が来ると、つまり終わりの時、裁きの時に皆が復活すると主イエスは言われます。皆です。ある者は裁きを免れ命を得、別の者は裁かれるために復活をするのです。裁きのために皆が復活をする。皆が裁きとは無関係でいることはできないのです。

使徒信条で「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と私たちは唱えていますが、まさにそのことがここで言われています。主イエスが再び来られて、今生きている者もすでに死んだ者も、すべての者を裁くというのです。私たちも裁きを受け止め直した方がよいと思います。

しかし裁きを決して恐ろしいこととして受け止め直す必要はありません。二四節にこうあります。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(二四節)。主イエスの言葉を聴くことによって父なる神を信じる者には、永遠の命が与えられます。

永遠の命とは何か。ヨハネによる福音書の中に何度も繰り返し出てきました。これからも繰り返し出てきます。なかなか言葉ではっきり言い表すことができないかもしれませんが、ここでの主イエスの言葉ははっきりしています。永遠の命とは何か。永遠の命を言い換えておられます。「裁かれることなく、死から命へと移っている。」(二四節)。

永遠の命とはいつまでも生きながらえるような命ではない。病が癒されたり、死が先延ばしにされるわけでもない。そうではなく、主イエスがはっきりと言われているのは、裁かれないこと。裁きを免れ、裁きの結果の死を免れ、命を得ること。主イエスは永遠の命をそう説明してくださっています。

二五節には「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」とあります。死んだ者とは、普通の意味で死んだ者ということではありません。ある牧師が「罪に死んだ私たちもここに含まれる」とはっきり言われています。罪に死んだ私たちが主イエスから言葉を聴く、今がその時だと言われるのです。二千年前の今だけではありません。今の今もそうです。主イエスの言葉を聴くことを先延ばしにしてよいのでもない。主イエスの言葉を今聴く。神を信じる。それゆえに裁きを免れる。これが唯一の救いの道になります。

私たち自身も、この社会も、罪に歪み、死んでいる状態です。命がある、まして永遠の命が自分にもこの社会にも存在するなどとは到底言えないような状況です。しかしそんな私たちのために、主イエスが裁かれ、十字架で死んでくださった。私たちの罪を赦し、救うためにです。これが主イエスの権威です。この権威をお持ちの唯一の方がキリストです。私たちにとって裁きを免れる、そんな夢のような話ですが、夢を実現するために主イエスが働いてくださった。主イエスにその権能がある。私たちも主イエスから恵みとして、罪の赦し、裁きを免れ、永遠の命をいただくことができるのです。