松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年2月1日(日)
説教題「健やかになりたいか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第5章1〜9節

その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。)さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。

旧約聖書: エレミヤ書 第17章5~14節

今日からヨハネによる福音書の第五章に入ります。私たちに与えられた聖書箇所には、ある男の癒しの話が記されています。癒された男はたった一人だけです。ところが三節にはこうあります。「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」(三節)。

癒しを必要としている人はたくさんいました。しかし癒されたのはこの男だけです。主イエスは全員を癒したわけではない。他の聖書箇所では、主イエスのもとに癒しを求めてきた人をこぞって癒す話も記されていますが、ここでは全員を癒したわけではない。また、全員に説教を語ったわけでもない。たった一人だけの人が選ばれて、癒しを受けたのです。

このことを不公平に思われるでしょうか。ある意味ではそうかもしれません。ある人だけが癒されて、別の人たちは癒されないのです。しかしそのようなことが起こっているのは、何もここだけの話ではありません。この世界に目を向けると、ある人は恵まれ、別の人は恵まれていないことがあります。生まれた時代や場所によって左右される、そんな不公平とも言えるようなことが起こっています。

最近のニュースでは、シリアで拘束されている日本人の人質事件のことが繰り返し報道されています。拘束されているのは日本基督教団の教会に属する教会員です。キリスト者で、しかも友を助けに自らが危険な目に遭うこともいとわず行ったのにもかかわらず、なぜあのような不条理なことになってしまうのか。そのような問いを抱いておられる方もあるかもしれません。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、もちろんそのような不公平、不条理を伝えるための話ではありません。むしろ私たちが抱くような問いに対する答えを与えてくれる聖書箇所です。たった一人の男が癒された、よかったですねという話ではない。いったい今日の話を私たちに何を語っているのでしょうか。

今日のこの聖書箇所は、キリスト教会の歴史の中で、実に多くの人が説教を語ってきました。私たちの教会の礎を築いた改革者であるカルヴァンという人もそうです。この人は五百年前にスイスのジュネーブの教会を改革しただけでなく、その改革を御言葉の説教によって行った人です。カルヴァンが語った説教、聖書の注解というのも多く残されています。

その中にヨハネによる福音書の注解もあります。今日の聖書箇所の注解で、カルヴァンはこんなことを書いています。「このあわれな病人は、わたしたちのほとんどすべてがいつもしていることをやっている。それというのも、かれは、自分の考えにしたがって神の助けに枠を定め、限界づけをして、自分の悟性に抱懐できるより以上のものは、認めまいとしているからである」。カルヴァンはこの男と私たちを同一視しています。私たちはこの男そっくりだ、いや同じだと言うのです。どういうところが同じなのでしょうか。それは、この男も私たちも、神の力を過小評価しているところです。

六節のところで主イエスは「良くなりたいか」と聞かれています。それに対して男はこう答えています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(七節)。この男がなぜこんなことを言っているのか。

お気づきになられた方もあるかもしれませんが、今日の聖書箇所は四節が抜けています。代わりに十字架のようなマークがついています。なぜこうなっているのか。それは、聖書は古い写本がたくさんあるのですが、写本の中で微妙に食い違っているところがある。ある写本には四節があるが、別の写本には四節がない。

そこで新共同訳聖書では、四節を載せていないわけですけれども、代わりに十字架のマークをつけて、ヨハネによる福音書の最後のところに、四節の言葉を載せています。そこにはこうあります。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」。おそらくこれは説明のための言葉であります。なぜ癒しを求める人たちがここに集まっていたのか。そのための説明です。

男はこの癒しを求めていました。主イエスから「良くなりたいか」と聞かれたのに、イエスかノーかで答えずに、この癒しのことだけを話しました。この男には、この癒しのことしか頭になかったのです。

このベトザタの池は、世界の縮図のようなところだと思います。人間の罪があふれているところと言えます。池が動くときに一番先に入れば癒される。皆がそう思っていました。ユダヤ教で公式な癒しの方法として認められていたわけではありません。むしろ異教信仰なのではないか、そう考えている人もいます。それでもここにいた人たちはこぞって、このような方法で癒しを求め続けていました。

この男は主イエスの問いかけにも適切に答えることができなかったくらい、頭の中はその癒しでいっぱいでした。三十八年も病気であったと記されています。三十八とはいったいどういう数字か。聖書で意味のある数字として四十年があります。十分長い、一区切りの年数という意味です。この癒しを求め続け、もう間もなく四十年になろうとしていたのです。

三十八年間も競争し続けた男です。人がいつも先に入ってしまう。自分の病のゆえにうまく動けない。そのことを恨めしく思っていたことでしょう。そんな自分を助けてくれる人もいない。そのような文句も言っていたことでしょう。ここに小さな競争社会がありました。人間の罪がそれゆえに渦巻くような社会です。世界中の罪とまったく同じような現実がここにある。それがベトザタの池だったのです。

主イエスは「良くなりたいか」と言われます。ここで使われている言葉は、身体の健康さを指す言葉です。健康になりたいか、ということです。ある聖書学者がこんなコメントを書いています。

「健康になりたいか、主イエスはそう問われる。当たり前である。しかしよく考えなければならない。この男が治ったらどうなるのだろうか。五体満足になったら、どのように生活をしていくのだろうか。この男はおそらくベトザタの池で、人々の施しを受けながら生活をしていたと思われる。しかし癒されたらどうなるか。五体満足な人に、誰が食べ物を恵むのだろうか。しかもこの人は三十八年もこのような生活をしていたのである。これから仕事に就くにしても、職業的な訓練を受けていなかったこの男はいったいどうなるのだろうか」。

この聖書学者は冷静に、しかも現実的に考えているところがあります。それでも確かにこの聖書学者の言っていることを考えないわけにはいきません。この男はベトザタの池という小さな競争社会の中で生きていました。癒されて健康になる。そのときには、もうベトザタの池を離れなければなりません。そして今度はもっと大きな競争社会の中に身を置かなければなりません。

そう考えますと、この男が思ってもみなかったことかもしれませんが、心の奥底にあった、本人すらも気付いていない本当の願いはいったい何だったのでしょうか。健康になる、それは大事なことですけれども、健康になって何をするのでしょうか。この男は本当の願いを分かっていなかった。それは私たちも同じであります。

先週の初め、日本基督教団の議長から一枚のはがきが届きました。シリアで拘束されている日本人のことを覚え、東京で祈祷会を行うというお知らせです。全国の日本基督教団の教会に送られたものと思われます。そのはがきの中で、祈るべき祈祷課題としてこう挙げられていました。「無事に帰国されることとシリアの平和を願い…」。

拘束されている日本人のために祈っている方は多いと思います。安否は不明ですけれども、仮に解放されたとする。ああ、よかった、そう思って祈ることをやめてよいのだろうか。日本人以外にも拘束されている人は大いに違いない。その人たちのために祈らないのか。そもそもなぜそのような事態になってしまったのか。そのためにも祈らないのか。議長は「無事に帰国されること」と合わせて「シリアの平和」を挙げました。私たちが本当に何を願い、祈るべきなのか、私もいろいろと考えさせられました。

そうするとこの男は一体何を本当に願い求めるべきだったのか。そして私たちは主イエスになんとお答えするべきなのか。何を願い求めればよいのでしょうか。

この奇跡が起こった地名は「ベトザタ」であると記されています。発掘調査が進み、この場所がほぼ特定されているのだそうです。本当に五つの回廊があった。二つの池があり、その周りに四つの回廊がある。二つの池の間にもう一つの回廊がある。そんな地形です。二つの池の間に、多くの癒しを求めている人たちがいたのだと思われます。

新共同訳聖書では「ベトザタ」となっていますが、かつての口語訳聖書では「ベテスダ」となっていました。新改訳聖書でもカトリックのフランシスコ会訳聖書でも、「ベテスダ」になっています。これは採用している写本が違うからです。新共同訳になる前まで、「ベテスダ」であり、多くのキリスト教社会福祉施設の名称に「ベテスダ」が付けられています。

その中に「ベテスダ奉仕女母の家」という団体があります。『ローズンゲン』、日々の聖句をお使いの方も多いと思います。この『ローズンゲン』はヘルンフート兄弟団という外国の団体がドイツ語で出版しています。それの日本語版を「ベテスダ奉仕女母の家」というところが発行をしているのです。『ローズンゲン』の日本語版にも、きちんとそのことが書かれています。

この「ベテスダ奉仕女母の家」ですが、一九五四年に一人の牧師と四人の奉仕女が立ち上げました。保育園一つと婦人保護施設二つを運営しています。婦人保護施設というのは、女性に対する様々な暴力から女性を保護し、立ち直らせるための施設です。そこで働く奉仕女たちは、生涯独身を貫き、文字通り献身し、「ベテスダ」という名がついた施設を中心にして働いています。尊い働きです。

しかしそこに入居してくる女性たちを取り巻く罪の現実を見なければなりません。懸命に奉仕をしても、自分たちにできることは少ない。弱さと力のなさを嘆かなくてはならない現実があります。大勢の入所者の中でも、癒され、立ち直る方もいらっしゃると思いますが、相変わらず傷を抱えたままである方も多い。その意味では、ベトザタの池と同じ現実があると言えます。そんな中にあって、奉仕女たちは何を求めているのでしょうか。

「ベテスダ奉仕女母の家」がローズンゲンの日本語版を発行していることからも分かる通り、奉仕女たちを支えているのは祈りです。一九五四年に立ち上がった団体ですが、そのわずか三年後の一九五七年に日本語版を出版しています。『ローズンゲン』の最後のあとがきの部分の最後のところに、このような言葉が記されています。「日々の祈りを通して、主なる神が与えてくださっている希望に目を向け、神の国の完成と世界の平和の一刻も早い実現を希求する者でありたいと願ってやみません。 ベテスダ奉仕女母の家」。

小さなことしかできない自分たちではありますが、自分たちは大きなことを願い求めることができる。そのことがよく分かっている言葉です。自分たちの行っている業は小さいかもしれない。世の中を変えるどころか、一人の人さえ変えることができない、そんな中で「神の国の完成と世界の平和」を願い求めているというのです。

先ほどのカルヴァンの言葉には続きがあります。この男も私たちも神を過小評価してしまう、その言葉の続きです。「しかし、キリストは、かれの不完全さを大目に見ている。…だれでも毎日経験していることだが、わたしたちの方では、自分に近い手段だけにとどまっているのに、キリストは、すべての期待に反して、ひと知れないところから手をさしのべ、かれの善意が、わたしたちの信仰の狭さ、小ささをどんなにうわまわるものであるか、明示するのである」。

イエス・キリストは、この男が小さく考えていた以上のことをしてくださいました。この男と同じように、私たちも小さな頭で、自分の今までの経験に即しながら、狭い範囲で考えています。しかし主イエスは私たちの考え以上のことをしてくださる。カルヴァンは、それは「だれでも毎日経験していること」であると言うのです。

今日の聖書箇所の中で注目すべきなのは、主イエスが「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(八節)と言われたことです。単に「起き上がりなさい」だけではない。「床を担いで歩きなさい」とまで言われた。なぜそこまで言われたのだろうか。その後、床を担いでいた行為が問題になります。この日が労働をしてはいけない安息日だったからです。この男はとがめられて、担げと言われたから担いでいたと言うことになります。この行為によって、主イエスというお方が人々の間に知れ渡ることになる。これは来週の説教の内容です。

いずれにしても、この男は床を抱えて歩きました。床は病の象徴です。ずっとそこで体を横たえなければならなかったのです。それを担ぐ。担いで歩く。他の病人たちが相変わらず横たわっている中で、床を担いで歩く。この男はそんなことすら思っていなかったでしょうけれども、病に勝利をなさる方がいる。その方を証ししながら歩いているのです。

私たちもこの男と同じです。ベテスダの奉仕女たちも同じです。そんなに大きなことができるわけではありません。小さな業しかできない。しかし主イエスが私たち人間の抱える病や罪に打ち勝ってくださった、その奇跡の御業を信じています。それを信じるとき、私たちはどんなに大きなことでも、神の国の実現でも世界平和でも、どんなことでも信じて願い求めることができるようになるのです。なぜなら、神がいつも私たちの思いを超えて大きく働いてくださるからです。