松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年2月8日(日)
説教題「神が働き、人が安息する」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第5章1〜9節

その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。)さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。 その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

旧約聖書: 申命記 第5章6~21節

先ほど聖書朗読の箇所として、ヨハネによる福音書第五章一~一八節を朗読いたしました。先週は一節から九節前半から御言葉を聴きましたので、今日は九節後半から一八節を中心にして、御言葉を聴きたいと願っています。

九節の後半に「その日は安息日だった」とあります。ここから安息日のことが話題になっていきます。安息日というのは、ユダヤ人たちにとって土曜日です。創世記の最初に、神が七日間で天地創造をされたことが記されています。六日間での創造の業を終えられ、七日目、つまり土曜日に、神は創造の業から離れられ、安息をなさいました。それゆえ、この日が祝福され、聖別されたものとなっています。

安息日の起源はここにあるわけですが、最初に安息日が定められたのは、もう少し後のことです。イスラエルの人たちはかつてエジプトで奴隷生活を強いられていました。そこからモーセというリーダーが立てられ、神によって導き出され、故郷へと戻ります。その戻る最中に、十戒という十の戒めが与えられました。エジプトの奴隷生活から神によって救われた者として、いかに生きるべきかが書かれた戒めです。

この十戒が与えられたときの様子は、出エジプト記第二〇章に記されています。モーセがシナイ山という山に一人で登り、十戒を授けられました。本日、私たちに合わせて与えられた申命記にも、同じ十戒のことが記されていますが、状況が少し違います。申命記はいよいよこれから故郷の地に入る前に、モーセがイスラエルの人たちに語った言葉が収められています。モーセはこの後すぐ死にます。告別説教であるとも言える。神から与えられた十戒をきちんと守りなさい、そんな言葉として整えられているのが、今日の旧約聖書の箇所である申命記第五章です。

今日は朗読の聖書箇所として、十戒の全文をお読みしましたが、安息日に関することは、第五章一二~一五節に記されています。他の戒めに比べ、長く記されていることが分かります。安息日には、あなたは休みなさいと言われている。あなただけでなく、家族も、外国人も、家畜さえも休ませなければならないとあります。いったい何のために休むのか、その理由も明確に記されています。

「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記五・一五)。

休む理由は、神を思い起こすためです。神がしてくださったことがある。そのことを思い起こす日が安息日です。神とあなたとの間に平和がある。健やかな関係になっている。そのことを思い起こすために休む。それが安息日の意味であります。

このような形で一週間の生活をし続けていれば、どんなにすばらしい生活か。そのように思われる方も多いと思います。神が与えてくださった恵みを思い起こして感謝し、これから始まる新しい一週間において神の恵みに応えて生きようと思う。たいそう人間として健全に生きられそうです。しかしそれをなかなかすることができないのが人間です。

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の箇所には、ユダヤ人たちが出てきます。一〇節にこうあります。「そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」」(一〇節)。ここでのユダヤ人たちの発言によれば、安息日に床を担ぐことは許されていなかったようです。これが労働にあたるとみなされたからです。

ところが、聖書学者が教えてくれることですが、旧約聖書のどこにもそんなことは書いていないのです。これはどういうことかというと、律法の細かな規定が定められていたのです。その数なんと六一三もあったという話もあるくらいです。安息日を守って神のことを思い起こしなさいというシンプルな戒めが与えられたわけですが、そのシンプルなものが複雑化していき、細かな規定が定められたのです。

細かな規定というのは便利な場合もあります。これは良いのか悪いのか、はっきりと決められていた方が楽であることは確かです。このような場合はどうしたらよいのか、聖書を読んで調べてみたり、牧師に尋ねてみたとしても、明瞭な返事が返ってこない場合も多い。そういうときに、細かな規定があれば、あれこれ考えたり悩まなくて済むのにと私たちは思います。

しかし細かな規定が定められたときに、大事なことを見失ってしまうことがあります。どういうことを見失ってしまうのかと言うと、神のことを忘れてしまうのです。細かな規定さえ守っていれば安息日を守ったことになる。床を担いで歩かないことや、その他の規定さえ守っていればそれでよい。そうしたときに、細かな規定を守ることだけになってしまい、神のことが抜け落ちてしまう。教会の私たちはこれを律法主義と呼んでいます。

この律法主義は決して他人事ではありません。ここに出てくるユダヤ人たちを笑うわけにはいかない。むしろ私たちの間に忍び込んでくるものです。これを守ってさえすれば安心と思う。私たちはそのようにして自分の安心感を満足させるのです。さらに悪いことに、規定を守れない人たちがいる。それが目につくと、その人たちはとんでもない人だと裁くことが始まっていく。人を裁き、自分を正当化する。それが律法主義の恐ろしいところです。

そしてもっと恐ろしいのが、神のことを忘れるということです。主イエスも鋭く激しい言葉で、律法主義を批判しておられます。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイ二三・二五~二八)。

主イエスの批判は、外側は美しく飾っているだけで、内側は目も当てられないくらい汚れているということです。一見すると律法を守っているように外からは見えるかもしれないけれども、しかし肝心な神のことを忘れてしまっている。そういう批判であります。

ここに出てくるユダヤ人たちも、そういう律法主義者たちです。三八年間も寝たきりの男が立ち上がった驚きよりも、細かな律法の規定の方が頭の中にあるくらいです。床を担いで歩いていることを非難します。そうするとこの男は「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」(一一節)と答えます。そこでユダヤ人たちは言います。「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」(一二節)。ところが、この男は答えることができませんでした。「しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。」(一三節)。

この男は、自分を癒してくれた人が誰であるかを知らなかったのです。知らなかったどころか、その方の名前すら知りませんでした。聖書にこんな話が記されている。ある意味では大きな驚きかもしれません。私たちが普通に考える考え方とは真逆なところがあります。

普通の考えならば、私たちが善い行いをするとか、信じてお祈りをするとか、そういうことをしたら、その見返りに癒しが与えられるとなります。手を合わせて祈ったり、お賽銭を入れたりして願い事をする人は多いわけです。その結果、よい報いを期待する、普通はそういう考え方で、こちらの方が理にかなっていると考える。けれどもこの話はそれとは真逆なのです。初めから信仰があったわけではない。信じて祈り願ったわけでもない。それどころか主イエスの名前すら知らなかったのです。

もっともこの男ばかりを責めるわけにはいきません。仕方のない部分は確かにありあす。一三節の後半に「イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」とあります。主イエスから「床を担いで歩きなさい」(八節)と言われ、この男はその通りに忠実に実行しました。一回りしてきて戻ってきたら、主イエスは姿をくらませていた。お礼すら言えない、名前すら聞けない、そんなところも確かにありました。

しかし話はそれだけでは終わりませんでした。主イエスが再び出会ってくださる。「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。」(一四節)。それに始まり、一四節以下へと話が続いていきます。主イエスに癒してもらいながらも、まったく主イエスを知らなかった男が、だんだんと主イエスのことを知っていく。そんな話が展開されていくことになるのです。

ここでよく考えなければならないことは、罪の問題です。一四節で主イエスがこう言われています。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(一四節)。

聖書が言っている罪とはいったい何か。いつもそのことが問題になります。私たちは罪というと、少し抽象的に考えるところがあるかもしれませんが、聖書で罪はかなり具体的です。もちろん罪の一般論の話もありますが、具体的に何が罪であるかが記されています。人類最初の人殺しは、兄のカインが弟アベルを殺してしまう、そんな兄弟殺しでした。カインがアベルを殺してしまった後に、神に対してカインは答えます。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(創世記四・一三)。具体的には、弟アベルを殺してしまった罪、そのことで神との関係が崩れてしまった罪、聖書はかなり具体的に罪を描写しています。

今日のヨハネによる福音書の箇所で主イエスが言われている罪とは、具体的になんでしょうか。当時の一般的な考え方として、何らかの病やハンディを負う。それはその人や近しい人が罪を犯したからだと考えられていました。今でも、そのような因果応報的な考え方は根強いかもしれません。

しかし主イエスははっきりとその考えを否定なさいます。ヨハネによる福音書第九章に盲人の癒しの話が記されています。その中で最初のところにこうあります。

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(九・一~三)。

この聖書箇所の説教のときに改めて聴くことになりますが、主イエスははっきりと因果応報的な考え方を否定されておられます。

この第九章では、盲人の男の癒しに始まり、盲人だった男とファリサイ派とのやり取りの様子が記され、最後は主イエスとこの男とファリサイ派の人たちとの対話になっています。その最後の対話のところをお読みしたいと思います。

「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」」(九・三五~四一)。

少し長い引用になりました。主イエスはここでも罪のことを言われています。見えなければ罪はないが、見えたからにはその責任が問われると主イエスは言われています。見えたならばそれなりの応答をしなければならない。知ったからにはそれなりの生き方をしなければならない。それによって罪に問われることにもなると言われるのです。

主イエスが今日の第五章の箇所で言われている罪も、同じように考えることができます。何が罪なのか。三八年間も床に臥せっていた男は癒してもらいましたが、主イエスの名前すら知りませんでした。主イエスが言われる罪とは、私とかかわりを持ったのだから、私にかかわりのない生き方をするなということです。癒しをした私の恵みに留まりなさい。留まらないことのないように。そのようにして罪を犯すな。まるで安息日の本当の意味を忘れ、神の恵みを忘れてしまったかのような生き方をして、罪を犯すなということです。

癒された男に再び主イエスが出会ってくださり、男は主イエスのことを知るようになりました。一五節にこうあります。「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。」(一五節)。読み方によっては、この男が主イエスのことをユダヤ人たちに密告したと読めるかもしれません。

しかし本当にそうなのか。「知らせた」という言葉が使われています。この言葉は、単に報告した、告げたという意味の言葉です。しかし聖書では、重大な報告をしている場合にも用いられることがあります。たとえば、同じヨハネによる福音書の主イエスの復活の場面で、こう書かれています。「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ…」(二〇・一八)。マグダラのマリアが最初に復活の主イエスに出会い、弟子たちに伝えています。その「告げる」という言葉が同じ言葉です。主イエスの復活という重要なことを伝えている。

この男も、信仰にかかわる重大な報告をしているとも考えることができます。自分を癒し、救ってくださったお方がいる。イエスというお方だ。喜びながら、伝道をするように報告をしたかもしれない。実際の男の様子がどうだったのかは、聖書の文章だけではよく分かりません。しかしその結果だけは分かっています。男は報告をしました。それが悪く受け止められてしまった。ユダヤ人たちは主イエスを迫害するようになり、殺意を抱くようになったのです。

ここに、ヨハネによる福音書の一つの大きな特徴が表れています。どの福音書も書簡もそうですが、ヨハネによる福音書も私たちが考える以上によく考えられて書かれています。癒しなどの奇跡が起こります。そのようにして人間が命を得ます。その一方で、主イエスの十字架がだんだんと近づいてきている。そんな書かれ方がされているのです。

今日の聖書箇所でもそうです。主イエスが三八年間も病だった男を癒す。命を与える。そのことによって主イエスが迫害され、殺意を抱かれています。第一一章にラザロの復活の話があります。今日は詳しくお話しすることはできませんが、ラザロは主イエスの友でした。そのラザロが死んで、四日目に主イエスがラザロを復活させられます。その結果、何が起こったか。

「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(一一・四五~五三)。

これも長い引用になりました。ここでも言われていることは、主イエスがラザロを復活させられたがゆえに、主イエスの十字架が近づいてきたということです。人間が命を得ているところで、主イエスが十字架の死が近づいている。私たちの命と主イエスの死というコントラストが見られる。それがヨハネによる福音書の一つの大きな特徴なのです。

イスラエルの人たちは出エジプト以来、安息日を守り続けてきました。律法主義に陥ることももちろんあったわけですが、それでも安息日の本来の意味に立ち返り、七日ごとに神の恵みを思い起こした。神が何をしてくださったのか、そのことを思い起こして力を得て、一週間ごとの生活をしていったのです。

私たちにも安息日が与えられています。私たちキリスト者にとって、安息日が土曜日から日曜日になりました。イエス・キリストが十字架にお架かりになり、そこから復活されたのが日曜日だからです。主イエスの復活の記念として、そのことを思い起こすために、日曜日ごとにキリストの教会は礼拝をし続けてきました。違う意味での出エジプトが起こった。私たちが罪や病や死の支配から解放された、日曜日ごとに神が私たちにしてくださったことを思い起こし、力を得て、一週間ごとの生活をし続けているのです。

罪を犯す私たちであります。神を忘れ、イエス・キリストの名前すら忘れてしまうような、そんな私たちです。しかし主イエスは言われます。私を忘れるな。私なしでやっていこうとするな。そのようにして罪を犯すな。むしろ私のもとに、恵みのもとに留まりなさいと言ってくださるのです。

私たちもこの男と同じように、神から癒され、導かれ、恵みを与えられ、希望を得ます。主イエスは言われます。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(一七節)。そのように主イエスも神も働いておられます。神の働きのもとで、私たちは安息をすることができる。神のもとで安息をした新しい命に生きることができるのです。