松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年1月4日(日)
説教題「霊と真理による礼拝」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第4章7〜26節

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

旧約聖書: 列王記上 第8章26~34節

主の年二〇一五年を迎えました。今年最初の日曜日の礼拝です。すでに一月一日、元日に元旦礼拝を行いました。出席された方にとっては二回目の礼拝です。今年も私たちは礼拝を行っていきます。そして本日、私たちに与えられた聖書箇所の主題もまた、礼拝であります。

今日の聖書箇所に、礼拝、あるいは礼拝者という言葉が一〇回も出てきました。ヨハネによる福音書全体ではこれらの言葉が一二回使われています。それだけ、このわずかな箇所に集中していることが分かります。特に二三節後半に、「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」とあります。礼拝は私たちが集まり、神を拝む礼拝をしています。しかし私たちから神への一方通行かというと、そうではないのです。父なる神が私たちを求めておられる。礼拝者を求めておられるのです。

一二月にクリスマスの祝いが様々な形でなされました。一二月一三日にはこどもクリスマスが行われました。こどもと大人合わせて百名ほどが集まってくださいました。そのこどもクリスマスで、私がこどもたちにお話をしました。お話の最初のところで、四択クイズをしました。「クリスマス」という言葉を二つに分割することができる。二つに分割をしたら、一体どこで分けることができるか、そんな四択クイズです。答えは「クリス」と「マス」の二つです。「クリス」とはキリストのこと、「マス」とは礼拝です。カトリック教会では礼拝のことを「ミサ」と言いますが、それと同じ言葉です。

クリスマスという言葉の意味が、キリスト礼拝である。そのことを覚えたいと思いますが、なぜキリスト礼拝なのでしょうか。それは、クリスマスの話そのものが、幼子である主イエスを拝む、礼拝することに他ならないからです。クリスマスの話は、マタイによる福音書とルカによる福音書に記されています。マタイでは、東方の学者たちが出てきます。星に導かれて、幼子イエスのところに辿り着き、礼拝をします。ルカでは、羊飼いたちが出てきます。天使に導かれて、幼子イエスのところに辿り着き、やはり礼拝をします。クリスマスとは、まことの礼拝者が誕生した話でもあるのです。

クリスマスは一二月二五日です。教会の暦でそう定められています。日本では一二月二五日が過ぎると、クリスマスから突然お正月モードになりますが、教会の暦では、実はクリスマス期間は一月六日までとなっています。ですから今日もまだクリスマス期間ということになります。

一月六日は特別な日でありまして、外国語でエピファニーと呼ばれています。日本語だと顕現日。顕微鏡の顕の字、この字は「あきらか」と読むこともできますが、「顕」の字に「現」れる「日」という漢字を書きます。主イエスが顕かに現れてくださった日であります。今では東方の博士たちがやって来た日と定められています。もちろん定められていますと言っても、聖書には日付のことは何もないので、はっきりとは分からないのですが、教会の暦としては一応、そうなっています。

クリスマスの話は、なんとなく羊飼いたちも博士たちも一緒に主イエスのところにやってきたような気がします。実際にクリスマス劇ではそういう演出になっています。しかしマタイによる福音書とルカによる福音書を合わせて総合的に考えるならば、羊飼いたちが最初に主イエスのところにやって来て礼拝をした。その後、少なくとも一週間以上経ってから東方の博士たちがやって来た。そう考えないと、前後の話が合わなくなります。

しかしそういう日付のことは、聖書は特に何も教えてくれませんので、そんなに重要なことではありません。むしろ、クリスマスに真の礼拝者が現れた。そのことを覚える方が重要であります。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、主イエスとサマリアの女との対話の続きであります。先週は一五節まででした。生ける水、尽きない泉の話を聴きました。「水をください」、最初は主イエスがそのように求めましたが、最後にはこのサマリアの女が「水をください」と求めました。

一六節のところから、話が急展開をします。主イエスが言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(一六節)。「わたしには夫はいません」(一六節)、女は短くそう答えます。サマリアの女は今まで五人の夫がいたこと、そして今連れ添っている男は夫ではないこと、そのような自分の経歴を隠そうとして、短く答えたのかもしれません。しかし主イエスはすべてそのことを明らかにされます。そのように明らかにされて、この女は主イエスを預言者であると直感しました。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(一九節)。そしてすぐに礼拝の話に入るのです。

サマリアの女は、やはりこれも突然ですが、急に礼拝の話を始めています。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(二〇節)。赤裸々なことを明らかにされて、すぐにも逃げ出してもよさそうな状況でした。ある説教者は、この女が話を逸らそうとして、突然、礼拝の話を持ち出していると考えています。しかし私はそうは思いません。本当はこの人も礼拝を慕う人であったと思います。

この女はシカルという場所にある井戸に水を汲みにやって来た人です。たくさんの夫がいた、そんなわけありな女でした。井戸端会議に参加できず、誰も水を汲みに来ないような正午ごろに一人でやってきた女です。当然、人々が集まる礼拝にも参加できなかった女です。そんな女が水を汲みに来ていたのが、シカルの井戸です。この井戸からゲリジム山という山が見渡せた。地図の六番が参考になると思います。

この山はサマリア人の礼拝の場所です。この女は、おそらく自分が住んでいる場所のすぐ近くにも井戸があったにもかかわらず、一キロか二キロほど離れた場所に、わざわざ水汲みにやって来ていました。あの山には自分は行けないが、せめて水汲みをしながら、あの山を仰ぎ見たい。せめてここから礼拝を、という思いがあったと思います。

五人の夫に裏切られて、今は六人目。あの人もこの人にも裏切られた。男のところには、人間には慰めはなかった。しかし本当の慰めを得たい。そう思っていたことでしょう。礼拝に行きたい。でもいけない。山の前で立ち止まり、山を仰ぎながら、しかしそれでも礼拝への思いを募らせていた。しかしここで預言者なる主イエスに出会う。そこで真っ先に、他のどんな願い事よりも先に、礼拝のことを問うているのです。

サマリアの女の礼拝に対する考え方は、二〇節に記されています。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(二〇節)。ゲリジム山なのか、それともエルサレムの神殿なのか。あれかこれかで女は考えています。しかし主イエスの答えは違いました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(二一節)。主イエスの答えは、あれでもこれでもありませんでした。

二三節から二四節にかけて、主イエスはこう答えておられます。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(二三~二四節)。ここに「霊」という言葉が出てきています。あれかこれか、ゲリジム山なのかエルサレムの神殿なのか、それらはいずれも「肉」なるものです。目に見えるものです。サマリアの女はそのレベルで話をしています。

私たちも礼拝の「肉」的なことにこだわることがあります。礼拝の中に取り入れられている要素、プログラム、スタイル、順番。それらは教派によって異なります。同じ教派でも教会によって異なります。しかしそれらは全部、目に見えるもの。肉的なもの。霊的なものではありません。ユダヤ人とサマリア人はその「肉」によって争っていました。あれかこれか、どちらが正しいのか。しかし主イエスはあれでもこれでもないと言われる。「霊」という言葉を使われるのです。

ところで、教会探しをされる方にとって、教会探しというのは大変なことだと思います。引越や何らかの理由によって、新たに自分が教会生活をすることができる新たな教会を探さなければならない。考えてみると、私は今までに一度もそういうことがありませんでした。しかし松本東教会に転入会される方々の話を伺っていると、これはなかなか大変なことであります。いろいろな教会へ行ってみる。「はじめまして」と言うと、「ようこそ」という言葉が返ってくる。自己紹介をして、教会の様々な案内をされて、実際に礼拝に出てみる。礼拝のスタイルや雰囲気など、自分に合うところを探すわけです。それはいわば「肉」的なことと言えるかもしれません。

しかし「肉」的なことだけでなく、「霊」的なことに及んでまで探さなければならない。最終的にはやはり一つの教会に決めなければならない。自分で決める。そういう「肉」的な決め方だけでなく、神に教会へと導かれたのだ。そういう「霊」的なことも合わせて考えなければなりません。そのときに初めて、主イエスが言われている「霊」という言葉が分かってくるようになると思います。

この「霊」という言葉をどう考えるかが極めて重要になります。二三節と二四節のいずれにも「霊と真理をもって」という言葉遣いになっています。「…をもって」という言葉をどう理解すればよいでしょうか。多くある誤解は「もって」という言葉に「持って」という漢字をあてて理解してしまうことです。私たち人間が霊と真理を持ち合わせると、真実の礼拝になるという誤解です。特に真理という言葉には、かつての口語訳聖書では「まこと」となっていました。これを人間の「まごころ」だと誤解してしまう。人間が心を込めれば真実の礼拝になる、心の持ち方次第で真実の礼拝になる。聖書はそんなに人間を楽観的には見ていません。

そうではなく、「…をもって」という言葉をどう理解すればよいのか。元のギリシア語の言葉では「エン」という前置詞の言葉です。英語では ”in” です。ある聖書学者がこの箇所を「霊と真理のうちにあって」と訳しています。一番適切で分かりやすい訳であると私は思います。私たちが霊と真理の内側に入れられている。霊と真理はもちろん私たちが作りだした私たちの所有物ではありません。神の賜物です。その神の賜物である霊と真理の内側に入れられている。それが真実の礼拝だと主イエスは言われるのです。

礼拝は一方の側面からすれば、私たち人間が神に献げているものです。しかしそれだけでは主イエスの言われていることは分からないと思います。神が私たちにしてくださったことがある。霊を与えてくださり、私たちをその内側に置き、真理の礼拝にしてくださっている。その他方の側面も合わせて考えなければなりません。

英語で礼拝を何と言うか。一つの言葉は ”worship” という言葉です。しかし別の言葉もある。それは私たちがよく知っている ”service”(サービス)という言葉です。サービスとは、日本語でもそのまま使われていますが、仕えること、奉仕することという意味です。私たちが神を礼拝し、神に仕え、奉仕をしている。それが私たち人間から神に向かう一方の矢印です。しかし反対向きの矢印もある。神が私たちにしてくださる奉仕、サービスがある。こっちの矢印の方がずっと太いわけです。礼拝というのは、その双方向の矢印で成り立っている。双方向性があるのです。

そこで改めて「霊」という言葉を捉えなおしてみたいと思います。ヨハネによる福音書のこれまでの箇所の中に、何度か「霊」という言葉がすでに出てきました。これからも何度も繰り返し出てきます。この「霊」という言葉がどういうことを意味するのか、「霊」のうちに置かれると私たちに何が起こるのか。そのことはこの福音書全体のテーマの一つであると言えます。

第三章のところに、主イエスとファリサイ派であり議員であるニコデモという人との対話が記されていました。主イエスはニコデモにこう言われます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(三・五~七)。

ヨハネによる福音書には、ずいぶん多くの対話が記されています。他の福音書は、たくさんの出来事が次々と取り上げられていくのですが、ヨハネは一つの出来事やテーマをめぐって、対話が続いていきます。これがこの福音書の特徴の一つです。対話が行われると何が起こるか。それは、人が少しずつ変えられていくということです。ニコデモもそうでした。ニコデモはこの福音書の後半のところにも出てきますが、主イエスのお体を十字架から降ろし、墓に埋葬した人です。新しく生まれ変わることを最初はピンとこなかったニコデモが、主イエスの十字架に直接立ち会った。自分の生まれ変わりと主イエスの十字架を結び付けて考えるように変えられたのです。

サマリアの女もそうです。主イエスとサマリアの女との対話が続いていきます。来週も、再来週も、サマリアの女の話が続いていきます。来週の聖書箇所になりますが、このように記されています。「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」」(四・二八~二九)。

サマリアの女は人々を避けて、たった一人で水汲みにやって来た人です。そんな人だったにもかかわらず、主イエスとの対話を経て、水がめを置き去りにして、人々のところに出かけ、このお方がメシア、キリスト、救い主であるかもしれませんと人々のところに伝えに行きました。この人も新しく変えられたのです。

礼拝というのは、私たちが新しく生まれ変わる場所です。主イエスがおられ、主イエスとの対話の中に入ることが起こります。霊の内側におかれ、霊によって新たに生まれることが起こるところです。それが真理の礼拝です。

松本東教会では、礼拝前に奉仕者たちが集まり、短く祈りをしています。特に献金の奉仕をされる方から、礼拝前の祈祷のときに何と祈ったらよいのかと聞かれることがあります。そのときには、こう祈ればよいのです。「私たちを新たに生まれ変わらせてください」、「私たちを霊の内側に置いてください」、「この礼拝を真実なものにしてください」。

イエス・キリストの十字架によって、罪赦され、新たにされている私たちです。その内側に置かれている、それが真実の礼拝です。父なる神が私たちを生まれ変わらせるために、礼拝者を求めておられる。私たちのことを招き、新たにしてくださるのです。