松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年1月25日(日)
説教題「信じる者は希望と喜びに生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第4章43〜54節

二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

旧約聖書: 列王記下 第20章1~11節

聖書に書かれている奇跡をどのように受け止めればよいか。私たちの信仰にとって極めて大事なことになります。本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の箇所にも、命の奇跡が記されています。実際には「奇跡」という言葉はありません。「しるしや不思議な業」(四八節)と主イエスは言われています。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所にも、命の奇跡が記されています。ヒゼキヤという王さまがいました。この王の寿命が尽きるこということが知らされる。ヒゼキヤは涙ながらに祈りました。その祈りに神が応えてくださった。寿命を十五年、延長してもらいました。その際に、ヒゼキヤはしるしを求めたのです。自分の寿命が本当に十五年も延びたのか。実際に十五年生きてみなければ、本当なのかどうかは分かりません。だからしるしを求めた。影が十度後戻りする、不思議な業です。それがしるしです。そのしるしを見たことにより、ヒゼキヤは本当に自分に命が与えられたことを知ったのです。

このように、しるしというのは、あくまでもしるしです。しるしを見極め、そこから何を本当に知るべきか、何を信じるか、そのことが大事です。主イエスが今日の聖書箇所で問われているのもまさにそのことです。奇跡というのは単純なものではありません。ヒゼキヤ王が寿命を延ばされてよかったですね、役人の息子が病から癒されてよかったですね、それだけではないのです。そこから何を知るか、信じるかです。

聖書には様々な奇跡が記されています。奇跡を目の当たりにする人たちの様子が記されています。人々はどうしたのでしょうか。みんなが奇跡を見て信じたでしょうか。もちろんそういう人もいます。しかし同じ奇跡を見ながらも、信じなかった人もいます。奇跡を起こした主イエスに、あれは悪霊の力で行っているのだと文句を言ったりする者もいます。あるいは、同じく信じるにしても、本当の意味で主イエスを信じるのではなく、別の形で受け止めて信じてしまう人もいます。

人間というものは、奇跡を目の当たりにしたとしても、どうもうまく信じられないようです。主イエスもそういう人たちを懐疑的に見ておられます。例えば四五節にこうある。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」(四五節)。

歓迎したとは言っても、主イエスが奇跡を行った実績があるから歓迎をしたわけです。向こう町で奇跡をしたように、この町でも奇跡をしてくれてしかるべきだ、人々のそのような考えが浮かんでくるかのような記述です。しかし人々は奇跡というしるしによって、何が指し示されているのか、何を信ずべきなのかをよく分かっていなかったのです。これが奇跡というしるしの落とし穴です。

主イエスはサマリアの町に二日間、滞在をなさいました。サマリア人たちから、ぜひ泊まってくれと頼まれ、その求めに応じて、主イエスは二日間をそこで過ごされた。四三節の「二日後」というのも、そのことを表わしています。

主イエスはこのとき、ユダヤからサマリア経由でガリラヤに向けて旅をしているところでした。南のユダヤからサマリアを通り北のガリラヤへ。そして今日の箇所のところでガリラヤ地方に到着されます。ガリラヤ地方にはいくつもの町があります。主イエスがお育ちになった街の名前がナザレです。そのため主イエスは「ナザレのイエス」とも言われていました。

四四節に「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と主イエスが言われています。この箇所は、聖書の読み方が分かれる箇所でもあります。故郷とは一体どこか。その解釈が分かれるのです。先ほども申し上げた通り、「ナザレのイエス」と言われていたくらいですから、主イエスの故郷はガリラヤ地方にあるナザレという町と言えそうです。

ところが、クリスマスの話で私たちが聞きますのは、主イエスがユダヤ地方のベツレヘムでお生まれになったということです。故郷とはユダヤ地方のことではないか、そう考える人もいます。四四節を主イエスが故郷のユダヤ地方では敬われなかったと読む。そして四五節でガリラヤの人たちはユダヤの人たちとは対照的に主イエスを歓迎したのだ。そのように読むこともできるのです。

ここで主イエスが言われている「故郷」とはガリラヤなのかユダヤなのか。甲乙つけがたいところがありますが、もう一つ別の理解もあります。ヨハネによる福音書の最初に、こんな言葉がある。「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。」(一・一一)。

本日、教会報であります『おとずれ』二五八号が発行されました。その中に、転入会をされた方の文章が載せられています。転入会をするとは、住民票を移すようなもので、私たちキリスト者の国籍は天にある、だからどこの教会員であったとしても、国籍は天なのだ、そういう文章が載せられています。主イエスは天からこの地上に降って来てくださった。

ところが、ヨハネによる福音書の最初の箇所にありますように、人々は主イエスを受け入れなかった。もはやガリラヤなのかユダヤなのかの話どころではなくなる。どっちへ行ったとしても敬われない、主イエスが言われているのはその意味なのではないかと考えることができるのです。

主イエスが言われている「故郷」がどこなのか、聖書学者たちはいろいろと論じていて私たちにいろいろなことを教えてくれますが、私たちがその論争の中にどっぷり浸かりこんでもあまり意味はないと思います。むしろ、私たちはどうなのか、そのことが問われています。私たちは主イエスを敬うのか。四五節の言葉で言えば、ガリラヤの人は奇跡を行った人だからという条件付きで「歓迎した」と書かれていますが、私たちは主イエスを救い主として心から歓迎するのか、それともやはり条件付きの主イエスを歓迎するのか、そのことが問われています。

そこで、もう少し四四節に留まって、「敬う」という言葉を考えてみたいと思います。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という四四節の主イエスの発言は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書にも似たような言葉が記されています。やはり主イエスが言われた言葉です。ただ、ルカによる福音書では「歓迎されない」となっていて、別の言葉が使われています。

ヨハネと、マタイとマルコによる福音書は「敬われない」と記されています。新共同訳聖書の日本語としては同じ言葉なのですが、実はヨハネによる福音書だけ、元の言葉としては別の言葉が使われています。ヨハネによる福音書の「敬う」という言葉は、「価値」という意味のある言葉です。「預言者は自分の故郷では価値を置かれない」、そう訳してもよいのです。主イエスの本当の価値を私たちは知っているのかと問われているのです。

この価値という言葉は、聖書で使われている言葉の中で重要な言葉でありまして、「代価」と訳されることがあります。例えば、コリントの信徒への手紙一第六章二〇節にこうあります。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(Ⅰコリント六・二〇)。

あなたがたとはコリント教会の人たちで、私たちキリスト者のことです。私たちは代価が支払われた。誰が払ってくれたのか。神です。どこで払ってくれたのか。十字架においてです。実際の代価とは何か。キリストの血です。私たちはキリストの命と引き換えに買い取られたのだ、私たちはキリストの体である教会の一部とされているのだ、だから自分の体で神の栄光を現しなさい、神のために生きなさい。この手紙を書いたパウロはそう言っているのです。

キリストは神の子です。当然、価値ある者です。キリストの価値を知る者は、自分自身の価値をも同時に知ることになります。旧約聖書のイザヤ書に、「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ四三・四)とあります。キリストの十字架を知ったとき、イザヤ書の本当の意味がよく分かります。神の独り子の命という代価が私たちのために支払われている。その価値が私たちに分かっているか。それほど神の目に私たちは値高い。その価値が分かり、本当の意味で主イエスを敬っているか。私のために血を流して命を懸けてくださったキリストを私は敬っているか。そこまでのことが問われているのです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、主イエスの十字架が起こる前の話ですので、ここに出てくる登場人物たちは、当然、その価値をまだ知らないわけです。その意味で、誰も主イエスのことを真に敬っていない。ガリラヤの人たちに対して、少々否定的なことが記されています。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」(四五節)。役人に対しても、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(四八節)と否定的なことを言われています。

この役人が一体どういう人物なのか、はっきりとは分かりません。ある人は、この地方の領主であったヘロデ・アンティパスという王の役人だったのではないかと考えています。しかし聖書にはっきりと書かれていませんので、よく分からない。いずれにしても、この役人はある程度の力があった人です。息子が病になってしまった。医者にかかる、薬を調達するなどのことはできたはずです。手は尽くした。しかし駄目だった。

最後の手段として、自らが主イエスのところに出かけて行きました。同じガリラヤ地方であっても、役人が住んでいる町カファルナウムから、主イエスがこのときおられたカナまで、およそ三〇キロメートルの道のりがあります。少しでも瀕死の息子のそばにいたかった、そう思ったことでしょう。部下に行かせてもよかったはずです。それでも自らが行った。この役人の切実さがよく伝わってきます。

この役人の願いは、とにかく来てくれ、というものでした。一応、主イエスの力は信じているわけです。しかし距離を隔てていたのでは、癒すことはできないと思っていた。自分の息子のところに来てもらって、手を置いていただくなどして癒してもらおうと思っていたのです。それに対し、主イエスは言われます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」(五〇節)。とても短い言葉です。

役人はどうしたでしょうか。不思議なことが起こります。役人はこの言葉を受け入れた。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(五〇節)とあります。そして注意深く読んでいますと、五三節にも同じ信じるという言葉が使われています。「彼もその家族もこぞって信じた。」(五三節)。信じるという言葉が二度も繰り返し使われているのです。

この役人は、そして家族は、一体何を信じたのでしょうか。一回目ははっきりしています。「イエスの言われた言葉を」信じたのです。具体的には「あなたの息子は生きる」という言葉です。それでは二回目はどうでしょうか。「こぞって信じた」としか書かれていません。何を信じたかは書かれていない。書かれていませんけれども、当然、主イエスというお方を信じた。主イエスから切り離されたその言葉だけを信じたのではない。主イエスというお方そのものを信じた。今日の聖書箇所を見ただけでも、信仰の変化がよく分かります。

奇跡によって、信仰が変化する。成長するのです。奇跡が起こる前にも、この役人は信じた。そして奇跡を目の当たりにした。そしてまた信じた。信じ方が変わります。この役人と家族は、奇跡というしるしによって、何を知り、何を信じたのでしょうか。

本日の聖書箇所に記されている奇跡は、命の奇跡です。説教者として、少々大胆な発言かもしれませんが、この奇跡自体が最も重要なことではありません。命が助かった、そのことが最重要ではない。なぜなら、このときこの役人の息子の命が助かったとしても、いずれは死んでしまったからです。さらに説教者として大胆な発言かもしれませんが、私たちの病が癒されること、それが最重要なことではありません。もし癒されたとしても、また病になります。同じ病か、別の病か、それは分かりませんが、再び病になります。そして最後は師を迎えます。その度に、私たちは何度も奇跡を願わなければならなくなる。そう考えますと、奇跡というしるしが最重要ではないということが良く分かります。

そうではなく、命の奇跡によって、私たちに示されたことがあります。奇跡というしるしが指し示しているものがある。それが、主イエスが今までにずっと語ってこられた永遠の命です。永遠の命のことは、今までの説教の中でも何度か繰り返し語ってきました。しかし、どうもつかんだようでつかみ切れていない、そんな思いを抱かれている方も多いと思います。それは説教者の私の責任であるかもしれません。しかしこれからどんどん明らかにされていく、ヨハネによる福音書全体のテーマでもあります。

永遠の命とは、不老不死のことではありません。時間がいつまでも延長されることでもありません。地上の病の癒しでもありません。地上の死を免れることでもありません。そのようにしていつまでも生きながらえることでもありません。今日の聖書箇所に至るまで、「永遠の命」という言葉がこのようにして出てきました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(三・一六)。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(四・一四)。「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」(四・三六)。

主イエスを信じることによって、主イエスから水を与えられることによって、刈り取られた実りを共に喜ぶことによって、永遠の命に至ることが繰り返し言われています。

本日の聖書箇所は、役人とその家族が信じた話です。まずは主イエスの言葉を信じた。奇跡を目の当たりにし、主イエスご自身を信じるようになった。このお方には命がある、永遠の命のことを知り始めました。

やがて、役人もその家族も、主イエスの十字架を知ることになります。「あなたの息子は生きる」、その命の宣言をしてくださった方が十字架で死なれた。それに一体どのような意味があるのか、そう考えて、改めて主イエスというお方を受け取り直したことと思います。この役人も家族も命を与えられた息子も、十字架にお架かりになった主イエスを信じるようになったのです。

そう考えますと、本日の聖書箇所に記されている話は、永遠の命をしるしとして指し示している奇跡の話ということになります。役人の息子が癒されてよかったねという話ではない。この奇跡によって、このお方に永遠の命がある。そのことを知り、信じる話として記されています。私たちが抱える罪、病、死、それらを乗り越える力がこの方にはある、しるしによってそのことを私たちは知り、信じることができるのです。

今、病を抱えておられる方もあると思います。今、死に直面している方もあると思います。奇跡を私たちも願います。役人の息子と同じ奇跡が起こるかどうか、それは分かりません。しかしたとえ同じ奇跡が起こらなかったとしても、その奇跡以上の奇跡が私たちに与えられています。病や死で終わることなく、それらを乗り越えることができる永遠の命が与えられている。その奇跡中の奇跡が主イエス・キリストによって与えられている。それこそが私たちの信仰であり、希望であり、喜びなのです。