松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年1月11日(日)
説教題「喜びの実りにあずかる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第4章27〜38節

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

旧約聖書: アモス書 第9章11~15節

福音書には主イエス・キリストのことが書かれています。主イエスが行ったこと、語った言葉が中心です。しかしふと思うことがあります。主イエスはあの奇跡を行ったときに、あの譬え話を語ったときに、一体どのような表情をされていたのだろうか、ということです。喜怒哀楽の様子はあまり書かれていません。もちろん、大いに喜ばれた姿や、涙を流された姿が書かれることはあります。しかし普段の表情はあまり記されない。嬉しそうだったとか、悲しそうだったとか、大きな声で語られたとか、そういうことはほとんど記されていません。

本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、主イエスの表情や感情のことはほとんど記されていません。しかし主イエスはどのような様子だったのか。想像することはできます。サマリアの女との対話が終わります。そして弟子たちが買い物から戻ってきます。三一節に「その間」とありますが、サマリアの女が去り、町の人たちがやって来るまでの間です。主イエスはその間に弟子たちと対話をされた。

このとき、おそらく主イエスは喜びながら、弟子たちと語られたと思います。三六節に「共に喜ぶのである」という言葉もあります。弟子たちにも一緒に喜んでくれと主イエスは言われる。自分がまず喜んでいなければ、決して言うことができない言葉です。

主イエスは一体何にお喜びになられていたのでしょうか。それは、サマリアの女の実りに対してです。サマリアの女と主イエスの対話は、「水を飲ませてください」(四・七)と主イエスが言われることによって始まりました。サマリアの女は主イエスのことを、最初は普通のユダヤ人の男性として、次に預言者として、そしてもしかしたらこの方がキリストと呼ばれるメシアではないかと思うに至りました。サマリアの女は信仰者になり、そしてサマリアの町の人たちにキリストを伝える伝道者になったのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所のテーマの一つは伝道です。サマリアの女は小さな伝道者になった。二八節に「水がめをそこに置いたまま町に行き」とあります。そもそも女は水を汲みにやって来ていました。しかしそれを中断し、伝道に出かけていきます。もちろん、後で水がめを回収し、水汲みを再開したと思います。しかしこのときは即座に伝道をした。この女は、皆と顔を合わせることができない事情を持った女でありました。人々の前に出ることもためらい、たった一人で水を汲みに来ていた女です。しかしそういう言い訳はしなかった。あれこれ考えずに、伝道に駆り立てられたのです。

サマリアの女は、何気ない日常生活から伝道者になった。私たちの信仰生活に「伝道者」という言葉があるでしょうか。ある牧師は、「キリスト者であるならば、一度は自分が『伝道者』になることを考えてみるべきである」と言っています。そういわれてみて、あれこれと考えてみる。しかしいろいろなことを考えると、伝道者にはなれないと思うかもしれません。けれども神学校というところには、本当にいろいろな人がいます。若者もいれば、定年退職後にやって来る人もいる。七〇代の方もいます。男も、女も、会社を途中で辞めた人も、主婦もいます。そんな中、伝道者として自分が召されていないか、一度は考えてみるべきだと私も思います。

「伝道者」という言葉はなかったとしても、「伝道」という言葉がないわけにはいきません。信仰のことが自分の中で完結してしまっているとしたら、それはどこかおかしいということになります。自分の家族、知人、あるいは教会の求道者の伝道を願う、そのことを祈る。それはキリスト者なら誰もが召されていることです。

ある牧師が、伝道についてこんなことを言っています。伝道を「おろそかにしているならば、それは瀕死の病人に高価な薬をとどけるようたのまれた人間が、それをなおざりにしているようなもの」(大宮溥『伝道』、教団出版局、一一頁)。厳しい言葉であるかもしれません。しかし私たちの手の中に与えられているものは、ものすごい宝です。その自分の手の中にある宝の本当の価値に気づいていないことになります。神はその宝を独り占めにすることを望んではおられません。

主イエスも言われます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ一〇・八)。これは、弟子たちを伝道に派遣されるにあたって主イエスが言われた言葉です。私たちはこの宝を共有し、共に喜ぶことが求められているのです。

伝道という言葉は、英語ではミッション(mission)と言います。この言葉は使命、あるいは任務とも訳せます。この言葉は、もともとラテン語の遣わす、派遣する(mitto)という言葉に由来します。伝道とはつまり遣わされること、派遣されることを意味します。自分がいる場所から、人のいる場所へと出掛けて行くことです。

三四節で主イエスはこう言われます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(三四節)。いろいろなことが言われていますが、主イエスは自分は父なる神から遣わされた、派遣されたことを言われています。派遣されて何をするか。伝道です。「その業を成し遂げること」と言われる。そしてそのことがわたしの食べ物だと言われるのです。

このとき主イエスは弟子たちと食べ物をめぐる対話をなさっていました。弟子たちはお昼ご飯を買いに町に出かけていました。弟子たちは肉体を満たすための食べ物の話をしているつもりだった。しかし主イエスは違いました。主イエスは霊的な、魂を、心を満たすための食べ物の話をしていた。

私たちもお腹いっぱい食べて、お腹が満たされても、なんだか物足りないことがあります。衣食住が満たされていても、心が満たされていないことがあります。なぜそうなるのでしょうか。主イエスの答えはこうです。お遣わしになった方の御心を行っていないから、その業を行っていないからです。

私たちの信仰生活、教会生活、あるいは日々の生活に喜びがあるでしょうか。もしもないとすれば、少し立ち止まってみて、主イエスのお言葉に照らし合わせて考えなければならないでしょう。神の御心とずれていないか、神の業を行っていないのではないか、だから喜びがないのではないか、そう吟味してみなければなりません。

しかしもし仮に喜びが今、感じられなかったとしても、心配する必要はありません。本日、私たちに与えられた聖書箇所で主イエスが言われていることは、喜びへの招きだからです。あなたも一緒に喜んで欲しいと、主イエスは私たちを喜びへと招かれているのです。

私たちを招くために、主イエスは三五節のところから、実りや刈り入れの話を始められます。ヨハネによる福音書には何度か実りの話が出てきます。この箇所もそうです。本日の聖書箇所ではどんなことが言われているのでしょうか。まず一つのことわざが引用されます。「刈り入れまでまだ四か月もある」ということわざです。普通は種を蒔いてから実りを刈り入れるまでに四か月かかります。四か月経って初めて実りを目にすることができる。刈り入れることができる。

しかし主イエスが言われていることは、これとはかなり違います。「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」(三五節)。目を上げて畑を見ると、種を蒔いた直後だというのに、すでに色づいて刈り入れができる状態であると言われる。今はまだ実りどころか芽すらも出ていない状態なのに、すでに色づいていることが分かる。主イエスは四か月先の実りを、種蒔き直後から見ておられるのです。

「色づいて」という言葉が使われています。元のギリシア語では「白く」という言葉になっています。私たちは黄色とか黄金色になっているようなイメージを抱きますが、主イエスは「白く」なっていると言われた。ある聖書学者がこのことに関していろいろなことを調べています。白くなる穀物とは一体何か。自分で調べてもよく分からない。そこで知り合いの農業をやっている人に尋ねてみる。「この穀物ならこういう条件で白くなるかもしれないが…」と言われる。やはりよく分からないのです。主イエスはどういう意味で「白く」と言われているのか。

そこでこの聖書学者も含めて、多くの者たちがこう考えています。聖書の中に、白い衣を着た人たちがときどき出てくる。これは今の話ではなく、終わりのとき、終末における神を信じ、礼拝する者たちの姿です。主イエスはそういう実りを見ておられるのではないか。「白く」というのは実際の畑の穀物の実りのことではない。そうではなく、神の言葉を聴き、神を礼拝する者たちが実るということだと考えられるのです。

サマリアの女は主イエスのところに水がめを残し、町に出かけて行きました。そして町の人たちを連れて帰ってきたのです。来週の聖書箇所になりますが、三九節にこうあります。「さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」(三九節)。サマリアの女の働きによって、サマリアの町にたくさんの実りがもたらされた。主イエスはその実りをすでに見越しておられた。

いや、もっと先の実りも考えられるかもしれません。使徒言行録第八章に、サマリアの町での伝道の様子が記されます。最初に伝道に派遣されたのはフィリポという人です。フィリピに続き、ペトロとヨハネもサマリアの町に伝道の応援のために遣わされた。ここでもやはり多くの実りがありました。主イエスは四か月先、いや、それ以上先の実りを見越しておられた。まだ種蒔き段階にもかかわらず、主イエスの目には多くの実りが「白く」見えたのです。

サマリアの町はこのようになることができました。しかしサマリアの町に限った話ではありません。どこの町においてもそうです。日本においてもそうです。日本はなかなか実りが少ない、そう思われている方も多いと思います。しかし主イエスが今の日本をご覧になったらなんと言われるか。私は同じ言葉を言われるのではないかと思います。目を上げよ、白く輝いているではないかと言われるに違いないと思います。

日本のキリスト教会の伝道は、大きく分けて今までに二つの流れがあります。一つは江戸時代前からの時代の話です。一五四九年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが初めて宣教師としてやって来ます。その後、続々と宣教師たちがやって来ました。九州や日本の中心地であった京都だけではありません。東北地方までキリストを信じる者たちがいた。一説によれば二〇万人くらいの信者がいたのではないかとも言われています。しかしだんだんと迫害をされるようになる。隠れキリシタンなども存在したようですが、信仰の火が一旦は消されてしまうことになります。

伝道のもう一つの流れは、明治時代になってからです。明治六年に、キリスト教禁令の高札が撤廃になりました。海外から宣教師が再び来ることができるようになる。ブラウン、ジェームス・バラという宣教師や、ヘボンという信徒でありながら伝道を志す者たちも来日しました。その多くの者たちが熱心に伝道をし、教会を建て、学校を建てていきます。

私が神学生だった時代に、三重県に夏期伝道実習に行きました。派遣先の教会は、ヘール宣教師という人物が建てた教会でした。この人は明治時代に来日し、女学校を作ります。今の大阪女学院という中学、高校、大学になっています。その学校が軌道に乗ると弟に任せて、自分は大阪から始めて、紀伊半島の海沿いを半周、ぐるりと巡回をして伝道を行い、次々と教会を建てていきました。三重県の教会もその一つです。

このような江戸時代から明治時代、その後もそうですが、多くの人の働きがあり、全国各地に教会が建てられ、学校が建てられ、施設が建てられ、そして多くのキリスト者たちの実りが実ったのです。

ザビエル、ヘール、そして私たちもここに含めることができますが、いろいろな働き人が起こされています。日本の畑の状況はどうでしょうか。実際には畑はまだ白くなっていないかもしれません。まだ途上です。しかし主イエスは白くなっているではないか、目を上げてご覧なさいと言われます。主イエスの目線の先には、白い畑があるのです。

畑を白くするために、いろいろな働き人が今でも派遣されています。種を蒔き、水をやり、肥料をやり、手入れをし、そして最後には刈り取るのです。主イエスの願いは、刈り入れられた実りをみんなが共に喜ぶということです。三七節のところで、主イエスはもう一つのことわざを言われています。「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(三七節)。すべての作業を一人で出来るわけではありません。みんながそれぞれの部分を担う。しかし最後はみんな一緒に喜んで欲しい、主イエスはそう言われるのです。

考えてみますと、弟子たちはこのとき、食べ物を買いに行って戻ってきただけでありました。サマリアの女のように、伝道の「で」の字もしていないと言えるかもしれません。しかし主イエスは言われる。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」(三八節)。労苦をしたのは主イエスであり、サマリアの女です。弟子たちは伝道の労苦はしていない。しかし一緒に喜んでくれと言われるのです。

私たちの喜びはどこにあるでしょうか。私たち一人だけの喜びというのは、本当の喜びではありません。場合によっては他人を蹴落としてでも自分が喜んでいる場合がある。自分だけの喜びというのは、自己満足にすぎません。本当の喜びは誰もが、どんな状況であれ、一緒に共有することのできる喜びです。

主イエスはこの喜びの実りを、「永遠の命に至る実」(三六節)と言われています。同じ実りのことを、別の箇所でこう言われています。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(一二・二四)。主イエスが十字架にお架かりになる直前に言われた言葉です。一粒の麦とは主イエスのことです。私たちの罪を背負い、十字架にお架かりになり、地に落ち、死なれます。

しかしそれで終わりではなかった。そこから多くの実りが生まれます。それが神を信じ、神の言葉を聴き、主イエスと共に労苦をし、一緒に喜ぶ私たちです。主イエスがまず大きな労苦してくださったことにより、私たちの罪が赦され、「永遠の命に至る実」(三六節)が畑に実りました。その実りを、私たちの喜びの実りとして、共に刈り取ることができるのです。