松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年12月14日(日)
説教題「キリストだけが天国を知っている」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第3章31〜36節

「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

旧約聖書: イザヤ書 第1章18~20節

アドヴェント第三の主日を迎えました。クランツにも三つ目の火が灯されています。昨日はこどもクリスマスが行われました。クリスマスの生誕劇などが行われました。また今日もこどもの教会のクリスマスの行事が行われました。そして来週はいよいよクリスマスのときを迎えようとしています。

このクリスマスのときにも、私たちは礼拝で御言葉を聴いています。今年の八月から、ヨハネによる福音書から御言葉を聴き始めました。ずっと連続して御言葉を聴き続けてまいりまして、本日、私たちに与えられたのが第三章の終わりの箇所になります。ヨハネによる福音書は第三章で一つの区切りを迎えます。来週のクリスマス礼拝のときは、ヨハネによる福音書から離れまして、また年末にヨハネによる福音書の第四章から御言葉を聴きます。特に、本日私たちに与えられた聖書の箇所は、クリスマス、アドヴェントにふさわしい箇所が与えられたと思っております。

一体どういう意味で、今日の箇所がクリスマスにふさわしいのか。たまに、私たちはこんな話を聞くことがあります。この世の中に様々な宗教があるけれども、宗教というのは山の頂上を目指すものだ。頂上は一つであり、登山道がいくつもある。諸宗教はそれぞれ登山道が違うけれども、結局、上り着く頂上は同じである。そんな話です。なんとも納得させられるような気分がする方もあると思いますが、立ち止まってよくよく考えなければならないと思います。

あえてこの山登りの譬えを用いて考えるならば、頂上が一つであることをまず考えなければなりません。本当に諸宗教の目的は一緒でしょうか。同じ頂上を共有しているでしょうか。そして何よりも考えなければならないのは、山の登り方です。私たち人間は山に登ろうとしますが、すぐに足を踏み外してしまいます。少し登ったと思ったら、すぐに転がり落ちてきてしまいます。登るための装備が不足するからと言って、いつまでもちっとも登ろうとしません。それが人間である。聖書は人間のことを、そう理解しています。いつまでも一合目に留まっているのです。

そんな私たち人間のところに、神の子であるイエス・キリストが上から降りて来てくださった。それがクリスマスです。なんと、神が人となってくださった。それが「上から来られる」(三一節)ということです。私たちキリスト者にとって、クリスマスの意味は極めて大きいのです。もはや山登りなどという宗教的なことも吹っ飛んでしまう。宗教という言葉では言い表せないことが、ここに起こっている。それがクリスマスの神秘です。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、まず主イエスが上から来てくださったことが記されています。「上から来られる方」(三一節)とは、主イエス・キリストのことです。「地から出る者」(三一節)とは、この文脈で言うならば、洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネは、先週の聖書箇所でも出てきましたが、救い主である主イエスが来られる道備えをした人です。

先ほど、聖書朗読をいたしました。それをお聴きになられて、あるいは予め読んで来られて、どのように思われたでしょうか。ずいぶんと難しい箇所だ、よく分からないと思われた方もあると思います。そのように聖書を読んでみて分からない場合にどうすればよいか。一つの方法は、ここに出てくる言葉を言い換えてみることです。自分で言い換えることが難しいならば、別の訳の聖書を読んでみることです。新共同訳聖書だけでなく、かつての口語訳聖書や文語訳、新改訳、あるいは外国語が読める方は、そういう聖書を用いて読んでみる。そして、たくさんの聖書に助けられながら、最終的には自分の言葉で言い換えてみることです。

私が神学校で学んでいた頃、教育実習を経験しました。キリスト教主義の学校で聖書を教えるための教員免許の取得のための実習です。そのとき私は、中学一年生に主の祈りを教える授業を受け持ちました。主の祈りの言葉は古い、中学生にとっては少し難しい言葉です。まず何の説明もなしに、主の祈りの言葉を現代語訳させてみました。自分の言葉で言い換えてみるのです。私たちも主の祈りの言葉や、使徒信条の言葉や、聖書の言葉を自分の言葉で言い換えてみるとよいと思います。

実は説教を語っている説教者も、説教の準備にあたって、同じことをしているのです。聖書の言葉がどうもよく分からない、それは毎週のことであります。そのようなときに、別の翻訳の聖書を読んでみたり、それこそ原文のギリシア語を調べてみたり、聖書の語句の解説をしてくれる注解書や辞書を読んだりし、それらに助けられながら、聖書を読んで、理解し、自分の言葉で言い換えてみている。そのような中から、説教の言葉が与えられるのです。

ためしに、ごく簡単にですが、今日、私たちに与えられた聖書の箇所を、言い換えてみたいと思います。三一節は先ほどお話をした通り、天から来られる主イエスと、地に属する洗礼者ヨハネのことが語られています。三二節、主イエスは天において見たこと、聞いたことを話されるわけですが、地上の誰一人として主イエスの話を受け入れません。誰も受け入れないと言っておきながら、三三節、主イエスを受け入れる者は、神を受け入れる者であると言われる。

三四節、「神がお遣わしになった方」とは主イエスのことです。主イエスは神の言葉を語る。なぜなら神が主イエスに「霊」を注いでくださるからである。三五節、父なる神は御子である主イエスを愛して、すべてをお委ねになられた。それゆえ、三六節、御子である主イエスを信じる者は、すべてが委ねられているのですから、永遠の命が与えられ、信じない者には怒りが及ぶ。そのように言い換えることができます。

それでもまだよく分からない、そうお考えの方もあると思います。一つ一つの語としては、意味は明確になっているわけです。それでも、どうもよく分からないと思うのは一体なぜか。確かに言葉は分かるのだけれども、どうも腑に落ちない。本当にそうだろうかと思ってしまう。心にすとんと落ちない。実感が沸かない。それゆえに、よく分からない。そういう心境になる場合があると思います。

信仰者ならば、誰もが通り抜けてきた道です。聖書の語句としては分かる、言っていることも分かるけれども、自分の実感として受け取ることができない。どうも通り過ぎてしまう。誰もが経験することです。

例えば、今日の箇所のどんな言葉に、実感が沸かないでしょうか。いろいろと挙げることができると思いますが、特に最後の言葉はそうだと思います。「神の怒りがその上にとどまる」(三六節)とある。神の怒りを真剣に、実感を持って考えることは難しいところがあるかもしれません。その反対に、なんとなく、何の根拠もなく、神は怒らないと私たちが思っているところがあります。そう思っているところに、「神の怒り」という聖書の言葉に出会ってしまう。

しかし聖書に出てくる人物や、教会の歴史の中に出てくる人物の中で、神の怒りを説かなければならない者は、案外多いと思います。なぜそんな人物が多いのかと言うと、人間が褒められるようなことをしていないからです。それは人間の責任です。神が怒るなんてとんでもない、そう思う前に、人間は自らを顧みなければなりません。人間は咎められ、戒められ、それこそ怒られるようなことをしている。だから神の怒りを忘れている人間に、神の怒りを説かなければならない人物たちが、登場をするわけです。

洗礼者ヨハネもまた、そのような人物の一人です。本日、私たちに与えられた聖書箇所は、第三章三一~三六節です。先週の聖書箇所である三〇節までは、洗礼者ヨハネの発言であることが明白です。しかし今日の箇所ははっきりとしません。洗礼者ヨハネの発言の続きなのか。それともヨハネによる福音書の著者の言葉なのか。よく分からないのです。しかしいずれにしても、洗礼者ヨハネとの関連の中で記されている言葉となっています。

三六節の「怒り」という言葉は、ヨハネによる福音書では、実はここだけにしか出てこない言葉です。しかしこの言葉は、洗礼者ヨハネらしい言葉であると言えます。なぜか。ルカによる福音書に、洗礼者ヨハネの言葉が記されています。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。…斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ三・七~九)。

間もなく救い主が来られることを、ヨハネは繰り返し言っていました。差し迫った、切迫した状況がある。ヨハネは斧が根元に置かれていると言うのです。間もなく切り倒されようとしている。神の怒りを免れると一体誰がそんなことを言ったのか、洗礼者ヨハネはそう問うています。これに答えられる人は誰もいません。実はそれこそ、人間の勝手な思い込みだったのです。

最近、私が読んでいる本の中に、イタリアのルネサンスに関する本があります。その中に、修道士サヴォナローラという人物が出てきます。サヴォナローラは、一四五二年から一四九八年まで、一五世紀後半のルネサンス期にイタリアに生きた人です。ドミニコ会というグループの修道士になりました。最初は医学の道を志したのですが、修道士として生きることを選んだ人です。

サヴォナローラが生きた、当時のフィレンツェの町は、ルネサンスの時代でした。ルネサンスとは、いわば人間中心主義的な生き方がなされる時代です。ルネサンスは、ラテン語の光「ルクス」から派生した語です。光があてられるわけです。ある人がルネサンスをこう定義しています。「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質でした。」(塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』、一五頁)。

見たい、知りたい、わかりたい、そのことに光があてられる。見るために、知るために、わかるために、いろいろなものが作られることにもなります。したがって、様々な優れた芸術が生まれていったのです。

それまでは、教会からの締め付けが強かった時代でした。絵画を描くにしても、聖書的なものに限る、人間中心的なものはいけない、そういう形で教会が許可を出すようなところがあったのです。しかしその締め付けから解放された。レオナルド・ダ・ヴィンチは、聖書の絵もたくさん描きましたが、モナリザなどの絵でもよく知られています。ボッティチェリという人は、ヴィーナス誕生、春(プリマヴェーラ)などという、これまでには考えられなかったような絵を描き、今までになかった芸術が次々と生まれていきました。

もちろん、芸術面で花開いたのがルネサンスです。よい面がたくさんあったわけですが、教会と人々は腐敗をしていきました。修道士のサヴォナローラはそのことを嘆いた。一四八二年に、フィレンツェのサン・マルコ修道院に入り、やがて院長になります。サヴォナローラは教会の腐敗をはっきりとはばかることなく言いました。神の怒りを説いたのです。

一四九二年、ロレンツォ・デ・メディチという資産家であり、芸術家たちの生活を支えていた人物がこの世を去りました。二年後の一四九四年には、メディチ銀行が破たんをしました。フィレンツェもルネサンスも、メディチ家によって支えられていたところがありましたので、フィレンツェの人たちは大変なショックを受けるわけです。そこへフランス王の大軍がイタリアへと流れ込んでくる。

すでにルネサンスは曲がり角を迎えていました。人間が築いたものでありますから、いつかは必ず破綻するわけです。そんな状況の中で、サヴォナローラは神の怒りを説いた。人々はサヴォナローラの言葉に耳を傾けないわけにはいかなかった。ルネサンスの花がしぼもうとしている人々の心の中に、訴えるものがあったのでしょう。人々はだんだんと慎ましい生活をするようになります。ここにルネサンスが終焉する。ボッティチェリも華やかな絵はもう描かなくなる。最後には筆を折ったのではないかとまで言う人もいます。

その後、サヴォナローラはフィレンツェの人だけではなく、ローマ・カトリック教会に対しても非難をします。非難せざるを得ないところがあったから、そのようにしたのですが、そのことが怒りを買ってしまい、最終的に一四九八年、火刑に処せられて殉教をすることになります。

このサヴォナローラについては、いろいろな評価があることは事実です。特にルネサンスの芸術面を重んじる人からすれば、サヴォナローラは低評価になります。ルネサンスの花をしぼめた側の人間だからです。その後の改革者のルターは、ローマ・カトリック教会を非難した点も評価したのでしょうが、このサヴォナローラを高く評価しています。

いずれにしても、サヴォナローラはこの時代にあって、神の怒りを説かざるを得なかった。それは人間の責任です。人間に光をあて、芸術が花開いた、それはよかったかもしれませんが、肝心なところに光をあてず、おろそかにしてしまったからです。サヴォナローラのような人は、教会のあるところ、いつの時代のどこにでもいるものです。洗礼者ヨハネがまさにそうでありました。

しかし、本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエスが天から降って来られたことが書かれています。主イエスは一体何を説かれたのでしょうか。神は怒っておられる、そのようなことを言うのが天から降ってきた目的なのでしょうか。そうではありません。主イエスが指し示し、私たちに伝えてくださったことは、神の怒りを越えるものです。それは赦しであり、愛であります。

まず、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所を考えてみたいと思います。先ほど朗読いたしましたのは、イザヤ書第一章一八~二〇節です。この箇所に入る前に、少し文脈を押さえておきたいと思います。一一節にこうあります。「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」(イザヤ一・一一)。

人間が罪を犯したら、自分の財産である家畜を献げることによって、罪が贖われる。それが旧約聖書の時代になされていたことです。しかしそれが形ばかりになっていた。さらに一五節にこうあります。「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を」(イザヤ一・一五)。形ばかりの献げものをして、ちっとも悔い改めないイスラエルの人たちに、厳しい言葉を預言者イザヤは語らなければならなかった。

そこで、今日の箇所です。「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」(イザヤ一・一八)。「緋」というのは真っ赤ということです。紅という言葉も出てきます。要するに形ばかりの献げものをして手を真っ赤に染めている。そんなあなたたちの赤い手を、白くきれいにすることができるか。神ならできる。イザヤはそう言うのです。

それでは、どのようにして白くなることができるのでしょうか。救い主であるイエス・キリストによる以外にはないのです。新約聖書のローマの信徒への手紙第五章八~一〇節をお読みします。ここに「神の怒り」という言葉が出てきます。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ五・八~一〇)。

イザヤ書の神と人とのやり取りを見ても分かりますが、神と人とは敵対していた。この手紙を書いたパウロはそう言います。人間はちっとも神の言うことを聞かなかったのです。その時代ごとに、神の怒りが説かれなければならなかった。預言者イザヤも、洗礼者ヨハネも、サヴォナローラもそうでした。しかし、イエス・キリストが来られ、ご自身が血を流してくださった。私たちが手をこれ以上、赤く染める必要はなくなりました。私たちの代わりに、主イエスが赤く、紅のように、緋のようになってくださった。それゆえに、私たちの罪が赦されて、私たちが白くなることができるようになったのです。

クリスマスおめでとうという挨拶を交わす季節になりました。先週、皆さまにも書いていただきました教会からのクリスマスカードを発送しました。私たちの教会とかかわりのある教会や関係者へ、カードを送ったのです。皆さまにまず書いていただき、最後に私が書いて、お送りしました。皆さまもそうですが、私もすべてのカードに、「クリスマスおめでとうございます」と書きました。

中にはご家族を亡くされた方、病の中にある方や、看取りの労を取っておられる方もあるわけです。年賀状では、家族を亡くされた場合に、新年の挨拶を遠慮するという場合があります。このような状況だからとても「おめでとう」とは言えないということになるのでしょう。しかしクリスマスカードはそうではない。むしろ、だからこそ「クリスマスおめでとう」なのです。私はある方のところに、このように書きました。「クリスマスおめでとうございます。このような状況だからこそ、クリスマスのご挨拶をしたいと思います」。

私たちの救い主、主イエス・キリストが天から降りて来てくださいました。山に登ることを始めることすらできずに、一合目のところにいる私たちのところに、主イエスが降りて来てくださった。そして私たちの重荷を、罪や病や死をすべて背負い、十字架にお架かりになり、私たちを白くしてくださった救い主です。信じる者すべてに、永遠の命が与えられたのです。「クリスマスおめでとう」、私たちが交し合う挨拶の中に、この祝福が込められているのです。