松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年12月7日(日)
説教題「神の栄光を現すために」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第3章22〜30節

その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。

旧約聖書: マラキ書 第3章1~12節

先月のことになりますが、教区の教職ゼミナールという集会が行われました。教区の教職たち、つまり牧師たちが集まって研修を行うわけですが、今年は「今、旧約聖書に聴き、旧約聖書を語る」というタイトルで行われました。サブタイトルも付けられていて、「預言者が説教者に指し示すもの」でありました。講師は国際基督教大学の並木浩一先生という方で、旧約聖書学者であり、特にヨブ記などの専門家として知られている先生です。今回は旧約聖書の預言者を主に取り上げてくださり、今の教会の説教者にどんなことが指し示されているのか、ということを学びました。

この教職ゼミナールに先立ち、担当の委員の方から、講演が終わったところで代表質問をして欲しいと言われていましたので、いろいろな問いを持ってこの研修会に臨みました。その中で、一つの素朴な問いがこういう問いでした。預言者たちは、どのようにして神の言葉を聴き取ったのだろうか。旧約聖書を読むと、神が預言者に直接語りかけておられる箇所も見られます。あるいは直接的にではなく間接的に語りかけておられると見受けられる箇所もあります。直接的にせよ、間接的にせよ、預言者たちは神からのメッセージを聴き取った。そしてそれを人々に伝えたわけです。どのようにして聴き取ったのでしょうか。

並木先生は講演の中で、いろいろな聖書箇所を取り上げてくださいましたが、特に印象深かったのは、旧約聖書のアモス書です。アモス書にはアモスという預言者が出てきます。アモスが五つの幻を示されます。

第三の幻は、こんな幻です。「主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる。」(アモス七・七)。下げ振りを見て、アモスは人々にこう預言しました。「見よ、わたしは、わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。イサクの塚は荒らされ、イスラエルの聖なる高台は廃虚になる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう。」(七・八~九)。下げ振りという言葉から、アモスは神が審判を下そうとしていることを聞き取ったのではないか、ということになります。

第四の幻はこうです。「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。」(八・一)。アモスは人々にこう預言をします。「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。その日には、必ず、宮殿の歌い女は泣きわめくと、主なる神は言われる。しかばねはおびただしく、至るところに投げ捨てられる。声を出すな。」(八・二~三)。言葉の語呂合わせのようでありますが、「果物」(カイツ)から「最後」(ケーツ)を聴き取った、ということになります。

預言者は神と人との間に立ちます。両者の間で板挟みです。そんな中で、神の言葉を聴き取り、人々に語ります。並木先生はアモスについて、こう言われる。「繁栄し、安定したヤロブアムの時代に数十年後の悲劇を見通した。人々の慢心に逆らって、ひとり「危機」を聞き取る能力と、それを語る勇気が預言者に求められる」。この預言者の姿が、今の説教者の姿にも重なり合うのではないかと言われるのです。

預言者には神の言葉を聴き取り、この先どのようなことが起こるのか、この先どのように私たちが行動すべきなのか、先を見通す目があったことになります。本日、私たちに与えられた聖書箇所に出てくる洗礼者ヨハネに関しても、同じことが言えます。洗礼者ヨハネもまた預言者です。聖書学によれば、洗礼者ヨハネは最後の預言者であると言われているのです。

洗礼者ヨハネは、主イエスよりもわずか半年前に生まれた人です。そして主イエスよりも先に活動をしていました。人々に悔い改めを求め、悔い改めの洗礼を授ける。そんな洗礼運動をしていた人です。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ三・八)と言っていました。

かなり具体的な悔い改めを求めたようです。群衆に対して、下着を二枚持っている者は持っていない者に分け与えてやれ、食べ物も同じようにせよと言います。徴税人に対して、規定以上のものは取り立てるなと言います。兵士に対して、金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな、自分の給料で満足せよと言います。間もなく救い主がやって来るから、悔い改めて、そのための道備えをせよと訴えるのです。

洗礼者ヨハネと主イエスはすでに出会っています。ヨハネによる福音書で言いますと、第一章にそのことが書かれている。他の福音書では主イエスご自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受ける、その場面も記されています。しかし今は別々にそれぞれが弟子を抱え、別グループとして活動をしています。今日の聖書箇所にもありますが、主イエスたちはユダヤ地方にて、洗礼者ヨハネたちはサリム、アイノンという場所にいます。聖書の後ろの地図六に、それらの地名が出てきます。離れてそれぞれが活動をしていたことが分かります。

そこに、一つの問題が起こります。清めに関する論争であります。二五節にこうあります。「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。」(二五節)。「ヨハネの弟子たち」は複数形です。「あるユダヤ人」は単数形です。つまり一人です。このユダヤ人とは一体誰なのか、はっきりとは書かれていません。

この人物像をめぐっては、いろいろな意見があります。しかしはっきりとは分かりません。推測の域を出ませんが、主イエスの弟子の誰かではないかと考えられる。これは有力な意見でありまして、比較的、多くの人がそう考えているのですが、なぜそう考えられるのか。それは、この文脈に最も合うからです。

二二~二三節にかけて、主イエスたちがどこにいたのか、洗礼者ヨハネたちがどこにいたのかということが記されています。そして二五節の後の二六節以下のところで、洗礼者ヨハネの弟子たちが、自分たちの師匠であるヨハネに質問をしています。質問の内容は、主イエスに関することです。ですから、二五節の「あるユダヤ人」というのは主イエスの弟子の誰かであり、この弟子との論争をきっかけにして、洗礼者ヨハネの弟子たちは、主イエスに関する質問をヨハネにぶつけていると考えられる。それが最も文脈に合う読み方だと思います。

今の話は推測の話で詳細は不明ですが、少なくとも二つのグループ間で、多少の不和があったのは事実のようです。二六節には、洗礼者ヨハネの弟子たちが多少の文句を言っている言葉が記されています。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」(二六節)。

ヨハネの弟子たちとしては、洗礼運動を始めたのは自分たちの方が最初だと知っています。しかも、もともとは自分たちの弟子だった者が、今や主イエス側に鞍替えをしてしまう。そんな出来事も第一章に記されています。面白くないという思いがあったのでしょう。みんながあっちへ行ってしまったと、自分たちの師匠へと訴えているのです。

このように二つのグループが生じると、些細なことで論争が起こり、それがいつの間にか大きくなってしまうということがよく起こります。そのようなときに、思い起こすべきことは、やはり最初のことです。そもそもこの論争のきっかけは何だったのか。それは清めに関する論争でした。それでは清めとは何か。どのようにしたら清められるのか。私たちもその原点に立ち返ってみたいと思います。

洗礼者ヨハネは、預言者としてそのことをよく知っていました。ヨハネがまず求めたのは悔い改めです。ごめんなさいと言うことです。しかし悔い改める、ごめんなさいと言う、それだけで済むかと言えば、答えは否です。なぜなら、本当に赦されるかどうか、まだ分からないからです。赦され、清められ、生まれ変わる、その道筋がはっきりしたところで、本当にこの清めの論争が決着するのです。預言者というのは、単純に批判をするだけでは済まないのです。あなたのこれが悪い、この時代のこんなところがおかしい。それだけではなく、本当に清められるために、どうすべきなのかを具体的に示し、人々をそこへ導く必要があるのです。

そこで、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書のマラキ書を考えたいと思います。マラキという預言者に関しては、あまりよく分かっていないところがあります。だいたいの時代は分かりますが、どんな人物だったのかなど、詳細は不明です。

本日の箇所のところで、社会批判を行っています。「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と、献納物においてである。」(マラキ三・八)。献げられるべきものが、きちんと献げられていないことが言われています。

旧約聖書の申命記を見ますと、献げられた十分の一を蓄えておき、割り当ての無い人、寄留者、孤児などに分配される決まりが定められています。マラキ書の第三章五節に「呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる」とあるように、きちんと富の再分配がなされていなかった。社会が歪んでいるではないかと預言者は痛烈に批判をしているのです。

しかし預言者は単に批判だけをして終わりなのではありません。マラキ書の第三章七節にこうあります。「立ち帰れ、わたしに。」(三・七)。社会の悪や人間の罪をはっきりと指摘する、それだけではないのです。きちんと立ち帰る先を示す。言い換えれば、どうすれば本当に清められるかを説いているのです。

マラキがそうであったように、預言者の役割は今も昔も変わらないところがあります。先ほど、洗礼者が最後の預言者であると申し上げました。確かに聖書学的な意味では最後の預言者です。主イエス以降、預言者と呼ばれている人は、少なくとも二千年も長きにわたって登場したことはありません。救い主の主イエスが来られて、もうこれ以上、何かを新たに付け加える必要はないからです。その意味で、二千年前の教会が始まった頃も、千年前も、今も、まったく状況は同じであります。

しかしそれでも、預言者的な働きは重要です。特に今の現代においてはそうだと思います。現代の社会を批判する、私たちも含め、そこに生きている人間を批判する。そしてそれだけではなくて、どうするべきなのかを説く。並木先生の講演もまさに私たち説教者にそのことを訴えている内容でありました。

現代の預言者とも言えるべき人に、ヴァイツゼッカーという人がいます。その人をご紹介したいと思います。今の時代からすると、一世代前ということになるかもしれませんが、生まれは一九二〇年、ドイツ人であります。第二次世界大戦もドイツの兵士として戦った人です。政治家になり、西ベルリン市長を経て、ドイツ連邦共和国の第六代の大統領になった人です。一九八四年から一〇年間、その職にありました。この人はもちろんキリスト者であり、信徒運動や慈善活動なども盛んに行った人であります。

このヴァイツゼッカーを有名にしたのが、一九八五年五月八日になされた演説です。第二次世界大戦にドイツが破れて、戦後四〇年になる。その節目に行われた演説です。いろいろな訳が出されていますが、加藤常昭先生が翻訳をなされて本を出版されています(『想起と和解』、教文館)。私は以前にもこの本を読んだことがありましたが、改めて先週、ヴァイツゼッカーの演説を読み、この人も現代の預言者であると思わされたところがあります。

この演説の中で、ヴァイツゼッカーは過去にドイツがなしたことを取りあげます。特にナチス・ドイツがユダヤ人に対してなしたことを挙げていきます。「罪責があろうがなかろうが、年を取っていようが若かろうが、われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。…この過去を精算することが大切なのではありません。それは、われわれには不可能であります。過去をあとから変更したり、なかったことにすることはできないのです。しかし、過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります。かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる罪の伝染力に負けてしまうものなのであります。」(『想起と和解』、一八~一九頁)。一般にも今お読みした箇所が、特に有名になっています。過去に目を閉ざす者は、現在に対しても目を閉ざしているとはっきり言うのです。

そしてこの演説の終わりの部分で、戦後四十年を迎えたこの日にちなんで、ヴァイツゼッカーは四十という数字に触れます。「聖書に目を留めることをお許し頂きたいと思います」と一言断った上で、旧約聖書の荒野での四十年のことに関して触れます。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活を抜け出し、自分たちの故郷に帰るまでに四十年の時を要しました。それは一世代、新たに分かる年月の長さを意味しています。また、旧約聖書の士師記にも四十年という数字が出てくることに触れます。神によって救われた、民族の中でその経験を共有したとしても、せいぜいそれが四十年しか続かなかった。そのことをヴァイツゼッカーは指摘します。

その上で、演説の最後をこのように締めくくる。「われわれは、自分たちの歴史から、人間には何が出来るかを学びました。従って、人間としてもっと別のもの、もっとよいものであり得たなどと幻想にふけることはゆるされません。決定的に獲得された道徳的な完全さなどは、存在しないのであります。…自分たちが人間である限り、常に危険にさらされ続けていることを。…ヒットラーが常にしていたこと、それは、偏見と敵意と憎悪を掻き立てるということでありました。若い諸君へのわれわれの願いはこうであります。どうぞ、敵意と憎悪の中へと駆り立てられないようにしていただきたい。他の人間に対する敵意と憎悪へ、…駆り立てられないで頂きたいのであります。対立して生きるのではなく、共に生きていくことを学んで頂きたいのであります。民主的に選ばれた政治家であるわれわれに、このことを常に繰り返して心に留めるように促し、またその模範を示して頂きたいのであります。自由を尊びたいと思います。平和のために働きたいと願います。法を守りたいと思います。正義を示す内的な規範に従いたいと願います。きょう、この五月八日に、なしうる限り、真理をしっかりと見つめようではありませんか」。

一昔前かもしれませんが、こんな演説をすることができる政治家がいたのです。こんな政治家がいて、加藤先生も羨ましい限りだと言われていますが、その通りだと思います。それに比べて、今の日本の政治家はどうか。そんなことを嘆きたくなりますが、それも教会の責任です。教会が社会に優れた政治家を送り出すことが出来ていないからです。

ヴァイツゼッカーのこの演説に触れて、この人もまた預言者であったと私は思います。戦後四十年経って、一世代が入れ替わって戦争を知らぬ者が現れ、戦争の記憶が薄れそうな時に、ヴァイツゼッカーは過去を見つめよとはっきりと言う。かつてのように、偏見と敵意と憎悪に駆り立てられないでほしいと訴える。預言者の言葉であると私は思います。

しかしヴァイツゼッカーは政治家でありました。ヴァイツゼッカーがこの演説の中で言えたのはここまででした。預言者はその先にもまだ務めが残されている。その務めとは、神と人とを結びつける務めです。

今日の聖書箇所の二九~三〇節にこうあります。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(二九~三〇節)。二九節のところには、結婚をする花婿と花嫁、それに介添人が出てきます。

あまり解説をする必要もないかもしれませんが、預言者が介添人に譬えられています。その介添人の働きによって、花婿と花嫁が結ばれる。要するに、預言者の働きによって、神と人とが結ばれるのです。マラキやアモス、その他の預言者たちの働きによって、人が神に立ち帰り、神と人が結ばれます。洗礼者ヨハネの働きによって、人が悔い改め、間もなく来られる主イエス・キリストとその人が結ばれます。

預言者はここまでの務めを終えて、お役御免になります。三〇節にこうあります。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(三〇節)。このように言って、本当にお役御免になるのです。この言葉は、普通では言い得ないような言葉です。普通なら「他の人が衰えてでも、私は栄えなければならない」となるでしょう。しかしそうではないのです。人や、人がつくり出す社会が、本当に清められるとすれば、それは大きな喜びになるのです。

預言者が最終的に目指すところ、それはイエス・キリストです。人々がイエス・キリストと結び合されることです。イエス・キリストが十字架にお架かりになり、そのことによって罪が赦され、清められる。そのイエス・キリストを信じ、しっかりと人々が結び合される。それが介添人である預言者のこの上ない喜びです。

私たちも預言者の言葉を聞くことができます。その言葉によってイエス・キリストと結び合されることができます。そしてまた、私たちも預言者になることができます。洗礼者ヨハネや、ヴァイツゼッカーのような大きな預言者ではないかもしれません。しかし「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と喜んで言うことができる、そのような預言者になるこができます。本当の清めを目の当たりにすることができます。そしてそれが本当の喜びになるのであります。