松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20141130

2014年11月30日(日)
説教題「神に近づくか、神を避けるか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第3章16〜21節

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

旧約聖書: 創世記 第2章15~17節

教会の暦では、今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントとは、クリスマス前の数週間のことを言います。今日の朝、こどもの教会ではアドヴェントカレンダー作りをしました。このカレンダーには、一~二五までの数字が印刷された窓があり、一日からクリスマスの二五日まで、毎日一つずつの窓を開けていきます。二五日のクリスマスが来ることを待ちわびながら、アドヴェントの期間を過ごすわけです。

また、今日は礼拝堂にアドヴェントクランツも飾られています。ろうそくが四つ立てられており、今日は一つの火が灯っています。今日が一つ、来週が二つ、再来週が三つ、そしてクリスマス礼拝を迎える三週間後に、すべてのろうそくに火が灯されることになります。このように目に見えるものを作ってクリスマスを待つ。アドヴェントは日本語では「待降節」と言います。文字通り、クリスマスが到来するのを待つわけです。

しかしアドヴェントという外国語のもともとの意味は、「待つ」というよりも「到来」を意味する言葉です。向こうから「来る」のです。私たちが待つというよりも、神が向こうからやって来られた、そこに強調点が置かれます。アドヴェントを日本語で「待降節」と訳す、いつからそうなったのかは分かりませんが、元の言葉の意味を考えると、「来降節」などと言った方がもしかしたらよいのかもしれません。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所も、まさにアドヴェントの意味そのものを表わしています。一六節には、「神は、その独り子をお与えになった」とあります。一七節にも、「神が御子を世に遣わされた」とあり、一九節にも「光が世に来た」と記されています。人間が待っていたとは語られていません。やはり向こうからやって来たのです。

今はクリスマスの祝いの時期がもうすでに定められています。私たちはその教会の暦に従ってクリスマスの祝いをします。祝いをするために、準備の期間も過ごすことができます。しかし最初のクリスマスは違いました。神の独り子が突如、向こうからやって来る。それが本当のクリスマスです。

世に救い主が現れる。クリスマスのときによく聴く言葉です。こどもたちのクリスマスの準備が進められています。今日はお昼をいただいた後、クリスマス劇のリハーサルを行う予定です。私たちが行っているクリスマスの劇はミュージカル風と言いますか、歌を歌いながら演じていきます。

劇の最初の方にみんなでこのように歌います。「世界中の人々のため、まもなくイエスが生まれてくる」。また、途中、ナレーターがこのように言います。「世界の救い主のために、部屋を使わせてくれる人は、誰もいなかったのです」。そして最後にみんなでこのように歌います。「この世界中を救うイエスが お生まれになった」。今日の聖書箇所に、世という言葉がたくさん出てきますが、こどもクリスマス劇の歌詞の根拠になっている聖書箇所が、まさに今日の箇所であるということができます。

世とは一体何でしょうか。すでにヨハネによる福音書の中で、世という言葉が何度か出てきました。今まで、それほど詳しく触れることができませんでしたので、今日、世とは何かをまず考えてみたいと思います。

この言葉はギリシア語ではコスモスと言います。新約聖書では全部で一八六回も用いられています。そのうち、ヨハネによる福音書が最多の七八回。この福音書ではたくさん出てくる重要な語と言えます。

ギリシア語のコスモスとはどのような意味なのか。ギリシア人たちはこのように考えました。もともとコスモスという言葉には「整える」、「順序立てる」という意味があったようです。つまり秩序ということです。世界を眺めていると秩序がある。それが世界だ、コスモスだとギリシア人たちは考えたのです。

ギリシア人たちはそのように世界を考えたわけですが、聖書ではさらなる意味が込められて使われることが多い。もちろん聖書のコスモスがすべてまったく同じ意味を表わしているわけではありません。同じコスモスでも微妙な意味の違いが込められている場合もある。新約聖書のギリシア語辞典に、このようなことが書かれていました。「人間の罪や不従順の結果、この「世」がその創造主から離れてしまった。」(『ギリシア語新約聖書釈義辞典』Ⅱ、三六九頁)。聖書の一つの用例として挙げられるのが、人間の罪によって、コスモスも歪んでしまった、そのような世を考えていることがあるのです。

ヨハネによる福音書の中で、世をそのように理解して、コスモスという言葉を使われています。もうすでに最初からそのことが言われていました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(一・九~一〇)。言、すなわちイエス・キリストによって造られた世界なのに、世界がイエス・キリストを認めない。主イエスもこのように言われています。

「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」(七・七)。世はわたしを、つまりイエス・キリストを憎んでいる。しかも世の行っていることは悪いと言われているのです。

罪に堕ちてしまった、それが聖書の世界理解であり、また今の世界に対する私たちの実感でもあると思います。ニュースを観ていても、新聞を読んでいても、救いようのない世界がある、それは紛れもない事実です。そこにいる人間もまた、自分自身も含めて救いようがないかもしれない。しかしそれでも神はこの世を救うのであります。

一七節にこう記されています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(一七節)。裁きとは、元の意味からすると選び分けることです。裁きのことは聖書にもよく出てきます。マタイによる福音書では、神が終わりのときに、右に羊を、左に山羊を分けるように、すべての人を裁くと言われます。

私たちも裁きは遠い未来のように思うかもしれません。一方ではそれは正しいことです。しかし他方ではそうではない。本日、私たちに与えられた聖書箇所には、もうすでに裁きがなされているではないか、もう選び分けられているではないかというのです。

一八節にはこうあります。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(一八節)。信じる者は「裁かれない」、この言葉は現在形で書かれています。現在の状態で、裁かれないのです。一八節後半の「信じない者は既に裁かれている」、これは完了形です。信じない者は、すでに裁きが完了しているというのです。今、現在、もうすでに選び分けられている。その違いがはっきりしていると言うのです。

裁きというと、私たちが裁かれる、神が私たちを裁くことであると、私たちは思っています。しかし本日、私たちに与えられた聖書の箇所や、他の聖書箇所では、これとは少し違ったことを言っています。四つの福音書で強調されていることは、もちろんイエス・キリストの十字架と復活ですが、イエス・キリストの裁判のことも、かなり強調されていることが分かります。人々が神の独り子、イエス・キリストを裁いた。詳細にその様子が記されています。事柄としては、イエスという男を人間が裁いたということです。人間がこの男を選び分けた。イエスという男がこの世にいる。こんな男は要らない、死刑に定めた。イエス・キリストを人間が選び分けたのです。

この人間によるイエス・キリストの裁きは、今なお続いていることです。十字架に架けられたイエスという男がいる。自分にとってその男が必要か、不要か。私たちが選び分ける。私たちが裁いている。その私たちの主イエスに対する態度に、すでに裁きが生じている。一方の側からすると、神が私たち人間を裁くわけですが、他方の側からすると、私たちがイエス・キリストを裁く。それが聖書の言う裁きです。裁きの責任は神にあると言うよりは、私たちの側にあるのです。

一九節のところでは、光と闇という言葉に結び付けられて、改めて裁きのことが語られています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(一九節)。人間は「光よりも闇の方を好んだ」と記されています。好むというのは、元の言葉では愛するという言葉です。光よりも闇を愛する。そう言われてどう思われるでしょうか。私はそれが人間の罪の本質であると思います。

闇の方を愛するとは具体的にどういうことでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。地震や災害が起こると、テレビや新聞で報道がなされます。そうするとたいてい義援金が集められます。それはそれでとても大切なことですが、報道されないような大変なこともあるはずです。なぜ報道されないのか、それが当たり前になってしまっているからです。そういうことの方が、問題がもっと深刻である場合も多い。

一つ例を挙げますと、日本は比較的、経済的には豊かです。しかしこの豊かさを喜んでばかりいられない面もあります。世界中からの搾取によって、豊かさが成り立っているところがあるからです。私たちは安いもの求めます。自分たちの生活の中で、たくさんのものを買うことができます。しかし安さの裏側で、私たちの便利さの裏側で、誰かが苦しい思いをしていることが多くあります。

世界の中でも飢えている人たちがいる。なぜ世界がそのようになってしまったのか。そう思っている私たちが、世界の食べ物を経済力にものを言わせて買い占めている。私たちが世界の子どもたちを飢えさせていると言ってもよいかもしれません。それが固定化された世界になってしまっているのです。

そのような世界的な問題だけでなく、日本国内でもまた同じような問題を抱えています。どうしても私たちは価格の安さを求めます。競うように値下げ競争をする。なぜ値下げをすることができるのか。それは安い労働力に頼るからです。そうなると労働者は生活が苦しくなります。経営者や企業は儲かるかもしれません。私たち消費者も安いものを買えるかもしれません。それはよいことでしょうか。立ち止まって考えないといけない。安い賃金で働かされている者がいる、そういう世の中に固定化されてしまっている。そのような世界の現状は、まさに今日の聖書箇所が言っているように、世が闇であることを象徴していると思います。

さあ、闇のままではいけないから、光の方へ行きましょう。聖書がはっきりと言っていることは、さあ、あなたはどうするかということです。闇のままに留まるのか、それとも光の方へ出てくるのか。その二者択一です。そのように呼びかけて、人間は光の方へ行くでしょうか。重い腰をなかなか上げない、それが人間です。

このままの世界ではいけないから、労働者がしっかりと給料を貰えるように、代金が高くなってもよいと思うでしょうか。経営者は労働者に高い賃金を払うために、商品の値上げをするでしょうか。二の足を踏んでしまうと思います。たとえ世の中が歪んでいたとしても、今の世の中に則って生き残っていかなければならないから、このままでよいと思ってしまう。それが闇に留まるということです。それが人間の罪の本質を表わしています。

この話をさらに深めるために、ロバート・レイクスという人を紹介したいと思います。英国の人で、一七三六年から一八一一年まで生きた人です。この人は日曜学校の創始者として知られている人です。創始者とまでは言わないでも、その礎を作った人です。

父は敬虔な信仰者でした。その父親から二一歳のときに印刷業の家業を受け継ぎました。当時は産業革命の真っ盛りでした。社会が揺れ動いていた時代です。産業の構造が機械化によって変わり、それまでのように生計を立てられない人がたくさん出てきます。そういう人たちがどうしたかというと、都市に赴き、労働者になったのです。そのようにして労働者階級が生まれた。

労働者を守る法律などまったくない時代ですから、当時の労働者は低賃金で長時間働かされました。今の時代もその時代へと逆戻りしているようなところがあるかもしれません。こどもも例外ではありませんでした。十歳に満たない子が働かされる。ロバート・レイクスは印刷会社の経営者でしたから、労働者を使う方でした。しかしこのような状況に心を痛めた。今の世の中はおかしいと考えたのです。

そこで、レイクスが住んでいたグロスターという町に、四つの日曜学校を開校しました。悲惨極まりない生活をしていた六歳から十二歳くらいの貧しい子どもたちを集め、読み書きと信仰を教えた。他の経営者たちからの反発も多少はあったようですが、レイクスの働きに共感をする者が多かったと言われます。

レイクスは一八一一年に死にました。しかしその二十年後の一八三一年には、一二五万人の子どもたちが、全国各地の日曜学校に通うようになる。全人口の子どものうち、二五パーセントの子どもが日曜学校に通うようになった計算になります。レイクスの最初の働きが土台となり、形を変えながら、今日の日曜学校、教会学校になっていきました。

レイクスは確かに偉い人です。偉大な働きをしました。しかしこの人も敬虔な信仰者でした。今の世の中が闇である、強くそのように思った。そして闇の中に留まるのではない。光の方にいたいと願った人です。

二一節にこうあります。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(二一節)。二〇節には「悪を行う者」という言葉があります。「悪を行う者」の反対は「善を行う者」のような気がしますが、聖書はそうは言いません。「真理を行う者」と言う。闇に留まらず、光の方へ出てくる者を「真理を行う者」と言うのです。

それでは真理を行うとは何か。二一節にありますように、神に導かれて行うということ、それが真理を行うことです。レイクスもそうでした。闇から光へ出て行った。善を行ったとも言えるかもしれませんが、しかしこの人もまた神に導かれて真理を行った。光に照らされながら生きた人です。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、主イエスとニコデモとの対話の中で生じてきた言葉です。ニコデモというファリサイ派のユダヤ人の議員は、夜に主イエスのところにやって来た人です。闇にまぎれて、人目を避けるように、主イエスのところにやって来ました。しかしこの人は真理を知りたいと願ってやって来た。闇から光へ出てきたということができます。

真理に生きるために、ニコデモのように、まず闇から出て来なければなりません。光のところに出てくると、私たちのすべてが明るみに出されます。それは恐ろしいことでしょうか。しかし神は信じる私たちを裁かれません。今も裁かれない、将来も裁かれない。なぜなら、独り子が世に遣わされ、その十字架によって、私たちの罪が赦されたからです。私たちは救われた、それゆえに裁かれない。だから光に照らし出されることを、びくびくするようにして生きる必要はない。安心して光に出て、生きることができるのです。