松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年11月23日(日)
説教題「世を救い、世を愛される神」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第3章1〜21節

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

旧約聖書: 創世記 第9章8~17節

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書第三章の一~二一節です。先に見通しを付けておきたいと思いますが、先週は一~一五節まででした。主イエスとユダヤ人の議員であったニコデモとの対話の中から、新たに生まれることについて御言葉を聴きました。来週は一六~二一節より、光と闇について、神に近づくか神を避けるかということについて、御言葉を聴きたいと思っています。今日は一六節を中心にして、一四節、一五節にも触れながら、御言葉を聴きたいと願っています。

新共同訳聖書をお開きになってお分かりになる通り、一六節から段落が変わっています。主イエスとニコデモが対話を続けてきましたが、主イエスの三回目の発言は、一〇節のところから始まります。その主イエスの言葉がどこまで続くのか。新共同訳聖書では、二一節まで続いています。二一節が終わってここで初めてかぎ括弧が閉じられることになります。

しかし、かつての口語訳聖書、新改訳聖書、その他にもいくつもあるのですが、一五節でかぎ括弧が閉じられている聖書も多くあります。主イエスの三回目の発言は一〇節に始まり一五節に終わる。そして一六節以降は、ヨハネによる福音書の著者が書いた文章。地の文であり、ナレーター的な文であると読むこともできるのです。

聖書の元の言葉には、かぎ括弧などは付けられていません。ですから読者がどこまでが会話文で、どこからが地の文なのかを判断しなければなりません。一六節から地の文が始まる。その一つの理解は、「人の子」という言葉です。この言葉は主イエスが会話文の中で、ご自分を指して使われた言葉です。「人の子」という言葉は、一三節にも一四節にも一五節にも出てきます。ところが一六節以降には出て来ない。そこで、主イエスの会話はひとまず一五節で終わったのだと理解するのです。

そう考えますと、ニコデモとの対話は、一五節を目指していたと考えることができます。ニコデモと主イエスは新しく生まれ変わる話をしていた。生まれ変わるには、霊を受けなければならない、主イエスはそう言われます。主イエスはそのことを風という言葉で説明をしてくださいました。そして人の子が「上げられねばならない」(一四節)と言われます。これは主イエスが十字架に上げられることが暗示されているわけですが、その十字架によって永遠の命を得るに至る。そういう流れがあり、主イエスがニコデモに一五節の言葉を最終的に言ってくださった。そう理解することができます。

主イエスの言葉が一五節で終わったと理解しても、ヨハネによる福音書の著者は、それで終わりにすることはできなかった。どうしても第三章一六節の言葉を書かないわけにはいかなかった。皆様の中で、この聖句を愛唱されている方も多いと思います。聖書を代表するような聖句を挙げてご覧なさいと言われたら、まずこの聖句を挙げる人が一番多いのではないかと思います。

なぜこの聖句はそれほど好まれるのでしょうか。前後の箇所、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(一五節)というのもなかなかよい言葉だと思いますし、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(一六節)というのもよい言葉だと思います。しかし最も好まれるのは一六節です。なぜでしょうか。

一つの理由は、ここに「愛」という言葉があるからだと思います。ヨハネによる福音書の中では初めて愛が出てきました。以降、何度も愛が出てくる。特にヨハネによる福音書の終盤は愛という言葉がたくさん出てきます。

例えば、最後の晩餐の席上で、ヨハネによる福音書には、パンと杯による聖餐の場面は書かれていないのですが、やはり同じ最後の晩餐の席上で、主イエスが弟子たちの足を洗ってくださいました。そして互いに足を洗い合いなさいと言われるわけですが、この出来事の最初のところに、こう書かれています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(一三・一)。

その後、主イエスはぶどうの木の譬えをお語りくださいます。その中でこう言われる。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(一五・九)。いずれも主イエスが私たちを愛してくださることが書かれている。愛という言葉から、主イエスの愛が伝わってくる。

同じように、今日の箇所である第三章一六節も、神の愛が伝わってくるのです。神が私たちをどう思っておられるかが分かる。私たちも、誰かから愛されていると分かったときに、心が動くものです。この聖書箇所が多くの人々の心を動かしている。だから多くの人が愛唱するのだと思います。

そこで、もう一度、私たちの愛唱聖句を読み直してみたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(一六節)。一つ一つの言葉をよく味わってみると、この聖句の深さがよく分かると思います。この聖句は愛唱聖句でありながら、もしかすると思い違いをしやすい聖句であるかもしれません。神の愛の対象は「世」です。神は独り子をお与えになったほどに「私を」でもなく「私たちを」でもなく、「世を愛された」のです。

一六節の言葉を、主イエスがお語りになったのか、それともヨハネによる福音書の著者が書いたのか、はっきりとは分かりませんが、いずれにしても非常に注意を払って言葉を使っていることが分かります。「世を愛された」。直後のところに「独り子を信じる者」という言葉や、「信じない者」という言葉もありますので、そういう言葉を「世」の代わりに入れてもよかったはずです。仮に入れてみますと、「神は、その独り子をお与えになったほどに、『信じる者を』愛された」というようになります。しかしそうではなく、ここで用いられたのは「世」です。私や私たちを含めて、世界全体を、すべてを愛されたのです。

このことからどんなことが分かるでしょうか。はっきりと分かることは、神の愛は無条件であるということです。自分のことを信じてくれる人だけを選んで愛したのではない。私たちはどうしても条件付きの愛を考えてしまいます。「あなたを愛している」と言われて、私たちは無条件の愛を感じるでしょうか。何らかのことを聞き返したくなると思います。「なぜ私を愛しているの」、と。「あなたは○○だから愛している」という答えを期待してしまうのです。

例えば、愛していると言われ、「なぜ私を愛している」と問い返し、あなたが高給取りだからと言われたとする。なぜ高給取りが好きなのか、お金がたくさん手に入るから、なぜお金がたくさん入るとよいのか、自分の欲しいものが買えるから。そんな問答が続いていってしまいます。

この例は極端な例にしても、問答を重ねるにつれて、どんどんと本物の愛から離れてしまっているのが分かります。「あなたは○○だから愛している」というのは条件付きの愛です。それは本物の愛ではありません。本物の愛は「あなたを愛している」、それで完結です。「神は、世を愛された」。○○だから愛されたのではないのです。

使徒パウロは、ローマの教会への手紙の中で、こう書きました。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(ローマ一三・八)。イエス・キリストに救われた者として、どのように生活すべきなのかということを書いている中で、パウロはこのように書いた。その直前のところで、パウロは「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」(一三・七)と書いています。

もう少し丁寧に説かなければならないのかもしれませんが、要するに自分のなすべきことをきちんとやりなさいとパウロは言います。その意味で、貸しはよいが、借りはあってはならない。けれどもパウロは愛だけは別だと言います。愛は貸し借りではない。条件付きの愛を考えるならば、貸し借りで考えられますが、本物の無条件の愛であるならば、貸し借りは考えられない、それは本物の愛ではなくなるとパウロは言うのです。

神の無条件の愛に応える、それは簡単な話しではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(一六節)。独り子とはイエス・キリストです。その独り子を私たちにあげると神は言われる。それほどの愛を神が無条件で注いでくださる。その愛を私たちは進んで受け入れるでしょうか。「神よ、あなたに愛されるほど、私は立派な人間でしょうか。私なんかのためにもったいない」、どうしてもそのように考えてしまうのが私たち人間です。

私たちはだんだんと年老いていきます。だんだんと肉体が衰えて、身の回りのことができなくなっていきます。人の世話になりたくない、できれば元気なうちに死んで、周りに迷惑をかけたくない、そう思っておられる方も多いと思います。それは確かに一つの配慮かもしれませんが、よく考えてみなければならない。せっかく老後の自分の世話を焼いてくれるという人がいるのに、その愛を受け入れない。一方的に世話になるのは申し訳ない。そのように愛を条件付きで考えてしまうところがある。

せっかくのその愛を受け入れないことは、もしかしたらわがままともさえ言えるかもしれません。私たちも神の愛に対して、わがままになっているのではないか。本当の愛が無条件であることを知っているならば、本物の神の愛を喜んで受け入れるはずです。

聖書に「神は愛なり」という有名な言葉があります。神は一体どんなお方か。神の性質、難しい言葉では属性、本質と言ったりしますが、神とはどのようなお方か。聖なるお方であり、全知全能、どこにでもおられ、永遠であり、偉大で、義なる方で、憐れみ深く、恵みに満ち、真実で、そして愛のお方である。そう神を言い表すことができます。

「神は愛」である。逆ではありません。「愛は神」ではない。愛という実体のないようなものを、神と呼んでいるわけではありません。逆は成り立たない。神が愛である。「なぜ神が私たちを愛してくださるのか」、そう私たちは問いますが、答えは「神は愛だから」(Ⅰヨハネ四・八)。それ以上の説明はありません。神は愛である、神は愛なのだから、それが答えです。

一六節の後半に、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。ここに「滅びる」という言葉が出てきました。滅びるという言葉から、どんなイメージを抱くでしょうか。私たちは言葉に対して抱いているイメージがあります。そのイメージのほとんどは、日本語が持っているイメージであります。しかし聖書の元の言葉とは、少しイメージの違いが生じる場合があります。その場合にはどうしたらよいのか。聖書でどのようにその言葉が使われているのか、よく読んで、そのニュアンスをつかむことです。

聖書の事典で滅びるという言葉を引いてみますと、こう書いてあります。「喪失や根絶一般の方向に向いており(例えば財産の)、時として死における人間の最終的破滅にまで及ぶこともある。」(『ギリシア語新約聖書釈義辞典』)。最初に書いてあることは、滅びるという意味は喪失、失うことであるということです。

この言葉は聖書の中で多く使われています。特にルカによる福音書が多い。特に第一五章がそうです。ルカによる福音書の第一五章には、三つの譬え話があります。いずれも共通の主題で、失われたものを再発見して喜ぶ譬え話です。一匹の羊を「見失う」。一枚の銀貨を「無くす」。父の家を飛び出し、放蕩の限りを尽くすような息子が「いなくなる」。「見失う」「無くす」「いなくなる」、これらはすべて「滅びる」と同じ言葉です。滅びるとは、神から失われる、神から離れるということです。

もう秋と言えないような、冬に差し掛かっています。冬に草取りをすることはありませんが、私たちは夏によく草取りをします。草を根こそぎ取ることができればよいのですが、なかなかそれができない。そうなると草を刈るわけです。ごみ袋に入れることも省略し、その辺りに刈った草を置いておくとどうなるでしょうか。すぐに草は涸れていきます。命の根源から失われれば枯れてしまう、滅ぶということです。

神は私たちをその草のように見ておられる。命の根源から切り離され、枯れ、やがては滅びていく。神は私たちをそう見ておられます。しかし神の思いはこうです。私たちをどうしても命の源であるご自分につなぎ留めておきたい。そうでないと、私たちは見失われ、滅びるのです。そして神がそうならないようにしてくださいます。

一四節のところに「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とあります。モーセの話は、旧約聖書の民数記第二一章にあります。

「彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」(民数記二一・四~九)。

旧約聖書のイスラエルの民は、蛇が上げられたことによって、命を得ました。主イエスは十字架に上げられた。そのことによって、私たちが得たのが永遠の命です。失われ、滅びることのない永遠の命です。

これらの出来事のすべての根拠が、神の愛です。無条件の神の愛です。この愛があるからこそ、イエス・キリストが十字架にお架かりになった。この愛があるからこそ、私たちは新たに生まれることができる。この愛があるからこそ、私たちが滅びないで永遠の命をいただくことができる。なぜ神が私のためにそこまでしてくださるのか。もうそれ問う必要はありません。神は愛だからです。