松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年11月16日(日)
説教題「新たに生まれ変わろう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第3章1〜15節

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

旧約聖書: エゼキエル書 第37章1~10節

教会の内と外で話が噛み合わないことがあります。日常生活の中で、どうも腹を割って話すことができず、もやもやした思いを抱えながら日曜日に教会にやってくる。教会の人たちとは腹を割って話しをすることができ、安らぎが得られる。そんな経験をされている方は多いと思います。なぜそうなるのでしょうか。それはいわば当然のことと言えるかもしれません。信仰を持っている者と持っていない者で、違いが生じてくるからです。考え方が違ったり、感じ方、感覚が違ったり、培ってきた経験もまた違ってくるからです。

先週の日曜日、主日礼拝が終わって、それからいろいろなことがあったのですが、ようやくお昼をいただくことができるようになり、あるテーブルに座りました。一緒にテーブルについた方々ととても楽しくお話をすることができたのですが、そこでなされた話の中に、創世記と進化論のことが話題になりました。最近のニュースで、ローマ教皇フランシスコが進化論を認めたというニュースがありました。「世界の始まりは混乱の産物ではない。創造主の手がビッグバンを必要とした」、「神は、自然の法則に従って進化するよう生物を造られた」。そんなローマ教皇の言葉が紹介され、さも進化論が初めて認められたかのようなニュースになっていました。

しかしこの発言は、今までのローマ教皇の発言からさらに一歩踏み込んだだけの発言と言えます。前の教皇はベネディクト一六世という方でした。保守的な考えを持つ人として知られています。このベネディクト一六世はこんなことを言っていました。「神の創造を信仰で理解することと科学による証明は対立しない」、「進化論はすべての問いに答えてはいない」。

私もベネディクト一六世と同じように考えます。信仰と科学は対立しない。いやそもそも、対立させようとしても、同じ土俵に乗せて議論を成り立たせようとするのが無理であると思います。「進化論はすべての問いに答えてはいない」と言っていますが、科学の世界では答えることができない問いに、創世記は答えているのです。

一番のネックとなるのは、時間をどう理解するかということだと思います。聖書には一日一日の記述として、一週間の記述になっている。科学の世界では、ビックバンと呼ばれる現象が一三八億年前くらいに起こったとされ、地球が四六億年前に誕生したとされています。時間が大幅に食い違うわけです。

しかし創世記が私たちに教えてくれることは、すべてが神によって造られたことです。天も地も、私たち人間も、そして時間も、神によって造られました。神は時間を造られ、時間を支配され、時間の主です。時間の主であるというのはどういうことでしょうか。神は最初の人間であるアダムとエバを造られました。アダムとエバはどうやら最初から大人として造られたようです。

アダムとエバの子どもであるカインとアベルは、赤ん坊として生まれ、成長し、大人になったようです。私たちは赤ん坊を大人に育てるまでに、二十年とか、どうしてもある程度の時間が必要です。しかし神はそうではない。大人の人間をいきなり造り出すことができる。神は時間を支配されているため、時間を超えることができる。神は時間の主である、その一つの例がこのことに表れていると思います。

私たちは時間に支配されている。時間の流れを変えることはできません。その私たちの時間の流れに、神が一週間の刻みを入れてくださった。神が世界を造られた一週間をモデルにして、その一週間の同じリズムで、私たちも生活のリズムを刻むことができる。神が一日、また一週間と言われれば、それは一日、一週間になる。神が時間の主だからこそ言えることなのです。

この教会のかつての牧師であります及川信先生が『天地創造物語』という本をお書きになりました。私にもそれを送ってくださり、読むことができましたが、東海教区の教区通信に、この本の書評を書くことになりました。この本が売れるような文章を書くわけですが、私は書評の中にこのように書きました。

「創世記第一章から第二章四節にかけて書かれているいわゆる「天地創造物語」をどのように受け止めるのか、信仰者にとってとても大事なことになってきます。キリスト者は七日間での創造という「現象」を信じているわけではありません。そうではなく、及川先生は「世界がなぜあるのか」「自分とは誰なのか」という根本的な問いを持つことが大事だと言われます。そのような問いをもって「天地創造物語」に触れると、何を信じるのかが見えてくるのです。聖書と本書を手にし、皆さまもこの根本的な問いの答えを見つけてみてはいかがでしょうか」。

及川先生は、七日間での創造という「現象」を信じるのではないと言われます。現象がどうこうというのは科学の話です。そうではなく、むしろ根本的な問いをもって創世記を読む。「世界がなぜあるのか」「自分とは誰なのか」という問いです。そうすると信仰が生まれると言うのです。科学の話は二の次になります。信仰と科学、この二つを同じ舞台に乗せて戦わせることなどできません。もしもそうなったとすれば、話が噛み合わないのは当然のことなのです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所には、ニコデモという人が登場します。ニコデモと主イエスが対話をしますが、この二人の対話もまた噛み合わない。ニコデモはどういう人だったのでしょうか。一節のところに「ファリサイ派」「ユダヤ人」「議員」という紹介があります。ファリサイ派は、自分に対して、そして人に対してはより一倍、律法に生きることに厳格な人です。このファリサイ派に属し、生活も整っている人であり、しかも社会的な地位がある議員でもあった。

それではこのニコデモが満たされていた人かというと、そんなことはなかったのです。ニコデモは夜に主イエスのところにやって来ました。なぜ夜なのか。二週間後の説教で、光と闇の話をしますので、そのところで詳しく語る時間があると思います。今は一つだけの理解に留めておきたいと思いますが、夜にやってきたということは、人目を避ける意味があったはずです。夜にこっそりと訪ねてきた。ファリサイ派として、また議員としての手前、昼間に堂々と訪ねるわけにはいかない。しかしどうしても訪ねたかった。ニコデモは求道者でした。何らかの希望を抱いてやってきたのです。主イエスと対話をする。しかし話が合わないのです。

ニコデモと主イエスの対話に注目をしたいと思います。ニコデモの言葉が三度、記されています。それに応えるようにして、主イエスも三度、語られています。いずれもその最初のところで、「はっきり言っておく」と言われています。新共同訳聖書ではこのように訳されていますが、元の言葉では「アーメン、アーメン」という言葉です。ヨハネによる福音書で、主イエスが何度もこのように言われ、大事なことを教えてくださっています。

ニコデモの一度目の言葉は、社交的な挨拶のような言葉です。しかし大事な言葉であり、主イエスの可能性を信じていた言葉です。この最初のニコデモの言葉に対して、主イエスはお答えになられます。三節にこうあります。「イエスは答えて言われた」(三節)。考えてみますと、ニコデモはこのときまだ何も質問をしていないのです。それでも主イエスはニコデモの疑問に答えた。主イエスはニコデモにとって本当の必要を言い当てた。答えてくださったのです。それは、新たに生まれ変わること、それがあなたに必要なことだと主イエスは言われるのです。

そのように言われて、二度目のニコデモの言葉が記されています。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(四節)。ニコデモは主イエスのお答えに「そうですか…」と言って引き下がることはありませんでした。主イエスは霊によって新たに生まれる話をなさいます。ニコデモは肉にこだわっているのです。信仰と科学の話以上に、ここでの話が噛み合っていないのは当然のことです。

ニコデモは四節のところで、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」と言っています。ニコデモに関する絵画や彫刻は意外と少ないのですが、そこに描かれているニコデモの姿は老人の場合が多い。最近のニコデモのイラストを見ても、やはり老人として描かれています。

四節のニコデモの言葉を、少しおかしなことを言っているとお感じになるでしょうか。老人が母親の胎内に入れるか、と言っているのです。しかし母の胎内に戻るというのは、老人も不可能ですけれども、一・二歳児だって不可能なわけです。ニコデモは主イエスの揚げ足取りをしているのでしょうか。滑稽なことを言っているのでしょうか。そのようにも考えられますが、もっと切実なことを言っているのだと思います。それは主イエスが言われたように、生まれ変わること、生まれ変わって人生をやり直すことです。老人が母親の胎内に戻るなどと言っていますが、ニコデモは本当は新たに人生をやり直したかったのです。

私たちは一体何歳であるならば、人生をやり直すことができると思っているでしょうか。子どもはまだこれから人生が始まっていきます。二十代もまだまだこれからが人生です。三十代、四十代はどうでしょうか。まだやり直しがきくと考えている人も多いと思います。私が学んでいました神学校では、会社を定年退職した六十代の方も同級生にいました。六十代でも場合によって新たな人生が始まる。しかしだんだん年を取るとどうでしょうか。人生やり直す、考えただけでも心が萎えてしまうという方もあるかもしれません。

ニコデモはこのとき何歳だったかは不明です。しかしおそらく老人であったと思います。地位もあり、生活も整っている者。しかしニコデモは、人生やり直せないか、新たに生まれることができないか、そう考えて主イエスに可能性を感じ、夜、主イエスのところを訪ねた。

ニコデモばかりではありません。主イエスのところに、いろいろな人がやって来ましたが、中には満たされていると思われた人たちもやって来たのです。金持ちの男、金持ちの議員、金持ちの青年、福音書によって伝え方は様々ですが、満たされているはずの老いも若きも、主イエスのところを訪ねたのです。

主イエスの二回目の発言に注目してみたいと思います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(五~八節)。主イエスは霊によって新たに生まれることを、風でもって説明をされています。

風という言葉と、霊という言葉、息という言葉もそうですが、元のギリシア語では同じ言葉です。「風は思いのままに吹く」と主イエスが言われていますが、「霊は思いのままに吹く」と訳してもよいわけです。しかし「吹く」という言葉や「音」という言葉から、「風」とここでは訳しているのです。

今日も礼拝の中で「使徒信条」を告白しました。「われは聖霊を信ず」と告白します。この「使徒信条」を解説している『正しい信仰』という本があります。かつての吉祥寺教会の牧師であった竹森満佐一先生がお書きになられた本です。洗礼を志す方といつも一緒に読んでいる本です。使徒信条の言葉を少しずつ区切って、解説をしてくれる本ですが、「われは聖霊を信ず」の項目のところに、こんな文章が書かれています。

「神を、父、子、聖霊として信じることを、教会は三位一体と申しています。こういう言い方は、いかにも難しくて、どう考えていいか、わからないような気がするものです。しかし、実際には、別に難しいことではない、のです。…父なる神を信じ、主イエス・キリストの救いがわかり、聖霊によって生きることができれば、それ以上の解説がなくても、別に困らないのです。」(七八頁)。竹森先生が言われているのは、聖霊を頭で理解するのではないということです。そうではなくて、聖霊によって生きること、体験することが大事だと言われるのです。

三位一体という言葉も出てきましたが、聖霊や三位一体に関して、どう理解すべきなのか。教会の歴史の中で、かつて四世紀頃に盛んに論じられました。たくさんの論文や手紙が書かれた。その文章を書いた人たちは、一方で、聖霊や三位一体を頭で理解しようとしました。聖書にこう書いてあるではないか、論理的に考えてこうではないかと盛んに論じたのです。しかし他方で、論じた人たちは教会の牧師であり、礼拝者たちでありました。頭だけで理解するのではなく、教会生活の中で私たちが体験していることではないかと論じたのです。頭で論じると共に体験でも論じる。説得力のありそうな、なさそうな、そんな論じ方だと思います。

主イエスは風で説明をしてくださいました。もしも風をまったく知らない人に、風を説明しなければならないとすれば、何と説明するでしょうか。いくら言葉を尽くして説明したとしても、その人は風のことが分からないと思います。しかし逆に言葉による説明がなかったとしても、風に吹かれる体験をすれば、風が分かる。主イエスの説明の仕方はそうでした。私たちは風を操ることができません。しかし風に吹かれること、風を感じることならばできます。それが霊を受けることです。主イエスはそうしてご覧なさいと言われる。そのことによって新たに生まれることができるというのです。

ここに、老人ニコデモを新たにする道があります。ニコデモだけではない。人生のどの段階にあったとしても、新たに生まれ変わる道を主イエスが備えてくださるのです。

先ほど、ニコデモの絵画や彫刻はほとんどないと申し上げました。しかしニコデモが彫られている有名な彫刻があります。ミケランジェロの「フィレンツェのピエタ」という作品です。ミケランジェロは一四七五年に生まれ、一五六四年まで生きた人で、芸術家として、また様々な優れた彫刻を残した人です。

そのミケランジェロがいくつかのピエタという作品を残しました。ピエタというのは、イエス・キリストと母マリアの聖母子が描かれたもので、しかも十字架の死から降ろされたキリストを母マリアが抱いているものをピエタと言います。ミケランジェロは若い頃にもピエタの作品を彫ったようですが、その後はずっとピエタの制作はしていなかった。半世紀ぶりに晩年になって「フィレンツェのピエタ」という作品の制作に取り組んだ。「フィレンツェの」というのは、フィレンツェにあることにちなんで付けられた名です。

この「フィレンツェのピエタ」に彫られているのは四人の人たちです。真ん中にキリスト、両脇に母マリアとマグダラのマリアがいて、主イエスの死んだ体を支えている。ただし二人は小さな女性です。比較的大柄な男性として彫られているのが、主イエスの後ろから支えているニコデモです。やはり老人の姿です。

ミケランジェロは自分自身の姿をニコデモの姿に重ね合わせたと言われています。自分の姿をそこに彫った。ミケランジェロが「フィレンツェのピエタ」を彫ったのは、七十歳代の頃です。ミケランジェロは八十代後半まで生きた人であり、当時としてはかなり長生きをしたと言えます。ミケランジェロはこのとき、七十歳を超え、親しい友人たちを次々と失うという孤独感の中にあったようです。自分自身も肉体の衰えを感じていた。自分の死を意識するようになり、このピエタを半世紀ぶりに彫った。自分の墓の上にこのピエタを立て、その足元に埋葬されることを願ったのだそうです。しかしどういうわけか、未完成のままに終わってしまった。理由は諸説ありますが、不明のままです。

私たちもミケランジェロの思いが分かると思います。老人になる。肉によって新たに生まれる、人生やり直すことなどできなくなるのです。そんな中で、ミケランジェロは自分の姿をニコデモに重ね合わせた。ニコデモはこのとき主イエスと出会い、話がまったくかみ合わなかったのですが、ニコデモはここで終わるわけではありません。ヨハネによる福音書の中に、これからも何度か出てくる。

最後は主イエスが十字架で死なれた、その埋葬の手伝いをする者として登場します。ミケランジェロがピエタで彫ったように、本当にその手で主イエスの体の重みを感じ取った。かつて新たに生まれ変わる話をしてくださったそのお方を、自分の手で抱きとめた。いろいろと感じることがあったでしょう。このお方はなぜ死ななければならなかったのか。人間を救うためか。そしてこの私を救うためではないか。私が新たに生まれるために、このお方は十字架で死んでくださったのではないか、その重みの手ごたえを感じたのです。

この後で讃美歌三五五番を歌います。私たちが用いているこの讃美歌には、どちらかというと外国で生まれた讃美歌が多く収められていますが、この讃美歌は日本人が作詞・作曲をしたものです。作詞をしたのは、宮川勇という方です。長野県に生まれ、牧師として、全国各地を回った方です。文学や絵画、和歌や俳句に親しんだ方で、キリスト者になられてからは讃美歌も多く使ったようです。

九州の教会で牧師をしていた頃に、聖書を読んでいた。読んでいたのはヨハネの黙示録第二一章、第二二章。すべてが神によって新たにされることが書かれている。この聖書の言葉に心を動かされて、この讃美歌の歌詞を作った。一番はこのように歌います。「主を仰ぎ見れば古きわれは、現世(うつしよ)と共に速(と)く去りゆき、われならぬわれのあらわれきて、見ずや天地(あめつち)ぞあらたまれる」。主イエスを仰ぎ見ることによって、古い自分が今のこの世の中とともに去っていく。私ではない私が現れてくる。天地が新しくなるのを見ないのか。そんな意味の歌詞です。

特に三段目の歌詞、「われならぬわれのあらわれきて」と歌います。私ではない私が現れたと歌う。イエス・キリストを仰ぎ見ていると、実は自分の中に新しい自分がいたことを発見します。イエス・キリストの十字架によって罪赦されて、古い自分に死んで、新たに生まれ変わった自分です。霊によって新たにされた自分です。過去にいろいろなことに悩み苦しみ、今も悩み苦しみ、これからも悩み苦しむ自分であるかもしれません。しかしその自分がイエス・キリストによって支えられ、新たに生かされているではないか。宮川勇はそんな自分を発見しました。

ニコデモもそうでした。年老いて、それでもあきらめずに主イエスのところに飛び込み、少しずつ変えられ、最後は主イエスの十字架で死なれたお体をその手で支えた。ミケランジェロもその十字架のもとに自分が葬られることを願った。私たちもその信仰者の仲間に加わることができます。神からの風、霊に吹かれることによって、私たちは新たに生まれ変わることができるのです。