松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年3月12日(日)
説教題「世界はキリストを収めきれない」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第21章25節

イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

旧約聖書: 詩編19:2~7

ヨハネによる福音書の説教としては、本日の説教を持ちまして、最後になります。二〇一四年八月に説教を始めて、二年九カ月が経ったということになります。説教の終わりにあたり、私もいろいろと思うところがあります。

ヨハネによる福音書を説いていく中で、毎週毎週、先へ先へと進んでいくわけですが、いつも私は語り尽くせないままで、次のところへ行かなければならない、そういう思いを抱いてきました。もちろん、これはヨハネによる福音書に限った話ではありません。どの聖書箇所を説いたとしても、同じ思いを抱くでしょう。しかしヨハネによる福音書は、より強く、その思いを抱いてきたところがあります。語り残したことがいっぱいある、それが今の正直な思いです。

ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中でも、とりわけ難解であると言われています。他の三つの福音書に比べて、独特なところも多いわけです。そういう福音書を説いてきて、先日、ある教会員の方から、このように言っていただきました。「ヨハネ伝はこれまでよく分からなかったけれども、少し分かるようになって嬉しい」、そういう声がありました。

説教を説いてきた私にとってもそうです。ヨハネによる福音書のことを、より身近に感じるようになった。少しは分かるようになった。でもまだ深みに達していない、そういう思いを抱いています。

でも、それでもよいと思います。今日の説教の説教題を、「世界はキリストを収めきれない」と付けました。実は今日の説教題を付けるにあたって、かなり迷いました。今日の聖書箇所には、「世界もその書かれた書物をおさめきれないであろう」(二五節)とあります。「世界はキリストの書物を収めきれない」と付けた方が正確なわけですが、このような説教題にしました。

世界とキリスト。不可能なことですが、天秤にかけるとするならば、どちらが大きいでしょうか。どちらが偉大でしょうか。この福音書を書いてきた著者もそうですし、私たちもまた同じですが、キリストの方が大きい、偉大だと信じています。そう考えると、世界がキリストを収めてしまうなどということはあり得ない。世界はキリストを収めきれず、この世界にはいまだになお、キリストを証言する説教が次々と生み出されています。

世界はキリストの説教を生み出すことを止めないのです。今でもなお、数多くの説教が生まれて来ています。ヨハネによる福音書の説教も、これまでも無数に生まれてきましたし、これからも無数に生まれるでしょう。数多くの説教や証しが生まれ続けている、この事実からも、決して一回の説教ですべてを語り尽くすことができない理由が分かってくるでしょう。一つの聖書箇所から、無数の豊かな説教が生まれてくるのです。

ヨハネによる福音書の終わりにあたり、最後の二五節はこのように記されています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(二五節)。

ヨハネによる福音書の終わりのところに関しては、いろいろなことが言われていますが、第二〇章の終わりのところでも、もうこのままこの福音書が閉じられてもよいのではないかと思えるような言葉があります。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(二〇・三〇~三一)。

両者を比べてみると、非常に似ている表現もあることが分かります。今日の聖書箇所の二五節のような表現というのは、古代の文書の中にもよく見られる表現であるようです。たとえば、主イエスとほぼ同じ時代を、エジプトのアレクサンドリアという町で生きたユダヤ人のフィロンという人がいます。この人が書いた書物の中で、このような表現があります。「神の満ちあふれる豊かさを、筆を執って表現しようとするなら、たとえ海の水がすべてインクに変わったとしても足りないだろう」。

自分はたくさんのことを書いてきた。けれどもそのすべてを書き切ることができなかった。他にもまだたくさんあるのだ。ある意味では自分の力量不足を弁解するようにして、本当はもっとすごいことなのだということを訴えている、古代の書物によく見られた表現でもあるようです。

古代末期に、教会のリーダーとして活躍した人に、アウグスティヌスという人がいます。この人は、ヨハネによる福音書の優れた注解を書きました。今日の聖書箇所に関して、アウグスティヌスはこのように言っています。「世界が収めきれないというのは、空間的な広がりという意味で信じられるべきではない。…そうではなくて、おそらくは読者の能力によって捉えることができないのである」。

アウグスティヌスがここで言っていることで、とても興味深いのは、捉えることができないのは、「読者の能力によって」であるということです。著者の能力ということももちろんあるかもしれませんが、いくら著者が優れた完璧なものを書いたとしても、読者はキリストを完全に捉えきることができないのです。

ヨハネによる福音書の著者が、実際にどう思っていたのか。もちろん、分からないところがありますが、主イエスのことを自分の筆では書き切れない。そして読者もそれを完全に受けとめきれない。主イエスはもっとすごいお方だ。間違いなくそう思っていたでしょう。そして、主イエスのなさったことを書き尽くそうとするならば、世界は狭すぎる。主イエスが今もなお、生きて働いておられる方なので、これからも無数の説教や証しや書物が生み出される。本気でそう思っているのだと思います。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第一九編です。この詩編は、世界に関することから始まっていきます。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩編一九・二~五)。

神によって造られた世界が、世界よりも大きな存在である神のことを証ししている。そのような興味深い表現からこの詩編が始まっていきます。そして五節の後半から、さらに興味深い表現が出て来ます。「そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。」(詩編一九・五~七)。

ここでは神が造られた被造物の中で、特に太陽のことが言われています。新約聖書の主イエスのお言葉の中に、このようなものがあります。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ五・四四~四五)。

主イエスも詩編の詩人も言っているように、すべての者に陽の光が降り注がれています。そのように、世界のすべてに神が表現されている、そのような世界に生きている人間にとって、大事なことがある。詩編の詩人が本当に言いたいことが、次のところから始まります。先ほどは七節までしかお読みしませんでしたけれども、続く八節以下です。

「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(詩編一九・八~一二)。

世界をこのように造られ、世界の中に神の道しるべがある。では具体的にどの道しるべにしたがって生きていったらよいのか。神が「律法」「定め」「命令」「戒め」を与えてくださったではないか。これにしたがって生きることが、私たちにとって大事だと詩人は言うのです。

ある説教者が、今日のヨハネによる福音書の箇所の説教の中で、「神を小さな偶像の中に閉じ込めてはならない」と言っています。世界を造られ、世界よりも大きな神であります。世界の一部の中に、まして小さな偶像の中に、神を閉じ込めるわけにはいきません。まるで偶像の中に押し込めるようにして、神のことを分かったつもりになってしまう。私たちはそういう過ちを犯します。神とは所詮、この程度のものだ、私たちはそういう間違いも犯します。

そうではなくて、詩編第一九編は、私たちの狭い思いを広げてくれます。世界よりも神の方が大きい。世界の中には、神が満ちあふれている。そういう世界において、次々と説教が生まれ、証しが生まれていく。キリストの働きは今もなお、続けられていくのです。

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の最後の箇所と、大いに関連があるのが、その直前は二四節です。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(二四節)。ここには「わたしたち」という言葉が使われています。二五節では、「わたしたち」ではなく「わたし」になっています。

この二四節の「わたしたち」とは、いったい誰のことでしょうか。ヨハネによる福音書を書いた著者のことをよく知っていて、彼が書いた証しが真実であると知っている「わたしたち」。つまり、ヨハネによる福音書の著者が生きていた教会の「わたしたち」のことです。

ヨハネによる福音書の最初のところを、振り返ってみたいと思います。最初の説教は、二〇一四年八月一七日でした。それから五回目の説教は、二〇一四年九月一四日に行われました。「我らの間に宿る言」という説教題が付けられた説教であり、教会設立九〇周年の記念礼拝でもありました。

「我らの間に宿る言」、この説教題が表している「我ら」とは誰のことでしょうか。この日に与えられていた聖書箇所は、第一章一四節以下のところでありました。第一章一四節にこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(一・一四)。また、一六節にもこうあります。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(一・一六)。

これらの「わたしたち」という言葉から「我ら」という説教題を付けました。ヨハネによる福音書の教会の「わたしたち」が言われているのでしょうけれども、その時の私の説教の中で、「わたしたち」という言葉をめぐって、このように語りました。

「ここに出てくる「わたしたち」とは一体誰でしょうか。実際に「その栄光を見た」人でしょうか。実際に主イエスにお会いした弟子たちでしょうか。ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会の人たちでしょうか。それとも、実際に見ていない人たちを含めた教会の信仰者たちのことでしょうか。聖書学者たちもいろいろな「わたしたち」を考えています。しかし、あまり特定の「わたしたち」に限定する必要はないと、私は思います。「わたしたち」の範囲がどんどんと広げられているからです。三番目の箇所である一六節には「わたしたちは皆」と書かれています。皆が、例外なく「わたしたちは皆」、恵みの上にさらに恵みを受けたのです」。

二年半前に、九十周年の記念の礼拝を行いました。今年は教会設立九三周年です。百周年に向けての歩みを、私たちの教会は送っています。九十周年から今に至るまで、神は様々なことを「わたしたち」の間にしてくださいました。そしてそれがもうこれで終わりというわけではありません。百周年に向けても、神が様々なことをしてくださいます。主イエスの働きはなおも続いていく。主イエスがしてくださることが、次々と生み出されていくのです。

今日の聖書箇所の二五節、ヨハネによる福音書の最後の言葉でありますが、その最後の最後のところに、「アーメン」という言葉を付けている、そういう聖書の写本が少なからずあります。

聖書は二千年前に書かれたわけですが、当時は印刷機などないわけですから、筆とインクで書かれるわけです。そのように書かれたものが、書き写されて、多くの写本が出きていきます。写本をする人にとって、忠実に書き写さなければなりません。もちろん忠実に、正確に、書き写すわけですが、最後のところに、思わずアーメンと付けてしまった。そういう写本が少なからずあるのです。

もちろん、最初の著者が最後にアーメンと書いたわけではないのは明らかです。新共同訳聖書でも、アーメンなどとは付けていない。けれども思わずアーメンと書きたくなる気持ちはよく分かります。アーメンとは、「本当に、その通り」という意味です。讃美歌の最後でもだいたい「アーメン」と付けますし、祈りの最後ももちろん「アーメン」です。本当に、その通りにしてくださるという信仰が込められています。

二五節は、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」という言葉です。このことに強く同意するのであれば、「アーメン」と言いたくなる。思わずアーメンと書いてしまった人たちの気持ちがよく分かります。

ヨハネによる福音書の説教を終え、来週から、コリントの信徒への手紙二の説教に入ります。一年くらいかけて、この手紙から御言葉を聴くわけですが、来年の今頃、コリントの信徒への手紙二の最後の部分に到達する予定です。この手紙の最後は、こういう言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(Ⅱコリント一三・一三)。

この言葉は、私たちにとっても馴染の言葉です。礼拝の終わりの祝祷の言葉です。礼拝の時には、この祝祷の言葉に「アーメン」とやはり付けます。これは司式者の私だけではなく、皆さんにも言っていただく言葉です。最後に「アーメン」を付ける。コリントの信徒への手紙二を書いたパウロは、この手紙の最後にアーメンとは実際に書かなかったわけですが、それでも写本をした人によっては、最後に「アーメン」という言葉を思わず付け加えてしまった。そういう写本もやはりあるのです。パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の最後は、本当にパウロ自身がアーメンと書いている、そういう手紙もあります。

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(二五節)。ヨハネによる福音書から御言葉を聴き終わるにあたり、私たちもまた「アーメン」と言って終わりたいと思います。「わたしは思う」と書かれています。この人はそう思った。そしてこの「わたし」もそう思う。「アーメン」と同意する。そういう者たちが教会の「わたしたち」に加わっていく。主イエスの働きが今もなお続いていることを信じる者たちが、力強く「アーメン」と言っている群れ、それが教会なのです。