松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年3月5日(日)
説教題「行く道を知らずとも」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第21章20〜24節

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

旧約聖書: 詩編119:105

「わたしに従いなさい」(一九節)。復活の主イエスが、ペトロに対して言われた言葉です。本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、再度、同じ言葉が出て来ます。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(二二節)。今日の聖書箇所で再び同じことを言われましたが、「あなたは」という言葉がさらに強調されています。

主イエスの十字架の際には、主イエスのことを知らないと三度も言い、関係を切ってしまったペトロでしたが、復活の主イエスがペトロに出会ってくださいました。主イエスと再び関係を結び直してくださり、主イエスに従うペトロとなっていきました。主イエスが先頭を歩いておられます。ペトロはその後をついて行くのです。

今日の聖書箇所の最初に、「ペトロが振り向くと」(二〇節)とあります。振り向くと、主イエスの愛しておられた弟子がついて来た。匿名の弟子です。ペトロとよくセットになって出てくる弟子です。主イエスが先頭、続いてペトロ、そしてその後に主の愛する弟子。こういう順番で、ちょうど一直線に並んでいました。

ところが、ペトロは振り向いてしまう。主イエスに従う。主イエスに従う使命に生きる。その一筋の心に生きればよかったのかもしれませんが、後ろを振り向く。あれこれと気になる。心が一筋ではなく、あんなことも気になり、こんなことも気がかりになる。心がバラバラになり、落ち着かない状況になってしまうのです。

今日の聖書箇所の主イエスのお言葉は、厳しいものがあります。そういう気がかりな心を絶ち切って、私に従えというものだからです。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(二二節)。ペトロがこのときに疑問に思ったこと、そんなことはあなたとは関係ない、とにかく前を向いて従いなさい、と主イエスは言われているのです。

主イエスのこの二二節のお言葉が、そっくりそのまま二三節にも記されています。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」(二三節)。

この主イエスのお言葉の中に出てくる、「わたしの来るときまで」というのは、いったい何のことでしょうか。他の聖書の箇所を読みますと、この時というのは、主イエスが再び来られる時のことであり、主イエスの再臨、終末の時のことが言われています。私たちの救いが完成をする時のことです。

私たちは主イエスの再臨とか、終末ということを聞くと、なんだか遠い話のように思うかもしれません。しかし教会の最初期の頃というのは、主イエスの再臨や終末は、本当に切迫していたものでした。主イエスがもう一度、自分たちのところに来てくださる。

ヨハネによる福音書の主イエスの復活のところで、主イエスが三度にわたって弟子たちに姿を現されたということが記されています。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(二一・一四)。

主イエスが復活されて、四十日にわたって弟子たちに姿を現されたことが、使徒言行録の最初に記されています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒言行録一・三)。

こういう記述を読みますと、主イエスが四十日間、ずっと弟子たちと一緒に過ごされたような印象を受けます。しかしヨハネによる福音書では、断片的に三度、現れたと言われる。実際にどうだったのかはよく分かりません。

しかし主イエスが断片的に現れてくださったことから考えると、次はいつなのか、弟子たちにとって、そのことがもっと切実としたものだったということが分かってきます。使徒言行録の続きの箇所では、こう記されています。

「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」(使徒言行録一・九~一一)。

今度はいつ来られるのか。すぐに来られるのか。すぐに来られて、迫害などで苦しんでいる自分たちの救いを完成してくださる。今の私たちからはその真剣さは失われてしまっていますが、最初期の教会の人たちは、真剣にそう思っていました。

しかしながら、終末がすぐに来るとなると、私たちは過ちを犯してしまうことになるかもしれません。極端な話、あと一か月先に終末が来る、それが分かっていたとしたら、私たちは普通に生きていられるでしょうか。仕事をし、家庭を整え、そういう自分に与えられている務めを、忠実に果たしていくことができるでしょうか。残念ながら、最初期の教会でも、日毎の務めがおろそかになってしまうような、そういう出来事が起こっていました。

今から五百年ほど前の教会を改革したマルティン・ルターという人の言葉として、こんな言葉が知られています。「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう」。この言葉は、実はルターの言葉ではないと言われています。ルターが書いた本のどこを開いても、この言葉は出てこない。でも、とてもルター的であるとも言われています。

いずれにしても、この言葉は、本日、私たちに与えられた聖書箇所の内容を、よく表しているところがあると思います。「明日世界が滅びる」、終末の時、あるいは自分の死の時、決定的な時などと置き換えて考えてもよいわけです。そういう日を明日に控え、私たちはいろいろなことを考え、心を騒がせてしまいます。

終末が迫っているのであれば、その日までぜひ生きていたいとか、逆にその日までには死んでいたいとか、その日までにこれをしたい、あれをしておきたいなど、いろいろなことを思うわけです。

それゆえに、日毎の自分に与えられている務めがおろそかになる。日毎の務めとは、自分に与えられた使命ということです。使命を果たすことに、心を注ぐことができなくなる。主イエスはペトロに対して、「あなたは、わたしに従いなさい」(二二節)と言われました。先を歩いておられる主イエスだけを見つめて、他のことに心を騒がすことなく、あなたはあなたの使命を果たしなさい。主イエスはそう言われているのです。

今日の聖書箇所の最初に、「ペトロが振り向くと」(二〇節)と記されています。ヨハネによる福音書の優れた注解を書いた人に、カルヴァンという人がいます。この人も改革者の一人で、スイスのジュネーブの教会を改革した人です。

カルヴァンはペトロが振り向いたことに関して、このように言っています。「わたしたちはペテロのうちに、わたしたちの好奇心のよい例を見る。その好奇心は、単に余計なものであるばかりでなく、また、有害なものであり、わたしたちは、他のひとたちを気にかけるあまり、自分のつとめをはたすことから遠ざかってしまう。それというのも、それはわたしたちには、ほとんど生まれつきのものであり、自分の生きかたを考えるより、むしろ他人の生きかたを詮議立てしようとするからである」。

カルヴァンがここで問題にしているのは、比較の問題です。私たち人間が、自分と人を、あるいは人と人とを比較してしまう。どうしてもそのことを免れないということです。自分の使命はこれ。その使命だけを思い、主イエスに従っていればよいのですが、残念ながら、私たち人間はそうはいきません。他の人の使命がいったい何なのか。その使命が分かれば、今度は自分の使命と人の使命とを比較してしまいます。そしてあれこれと考え、主イエスに従うという一筋の心が崩れてしまうことになるのです。

私たちにもこういうことはよく思い当たると思います。自分と他人を比較し、比較してしまったがゆえに、自分の使命がおろそかになる。牧師もまたそうです。自分と他の牧師を比べる。前の牧師と今の牧師を比べる。そういう場合に、あまりよい実りは生まれてきません。不幸な結果になる場合がほとんどです。なぜか。今日の聖書箇所によれば、主イエスに従うという心が崩れるからです。

先ほどのカルヴァンの注解には続きがあります。「神は、すべてのひとたちをおなじやりかたで扱うことはなく、各人をよいと思うところにしたがって試みるのである。だから、クリスチャンとしての生活状況には、さまざまな条件や種類があり、各人は、自分の秩序内にとどまっているように、学び知らなければならない。そして、天の隊長がわたしたちのそれぞれを呼び出している時に、まるで暇なひとたちのように、あれこれのひとたちについて詮議立てないようにしよう。その隊長の命令にひたすら注意深く、他の一切のことを忘れるようにしなければならない」。

ここで、ペトロと愛する弟子が、それぞれどのような使命を与えられたのか、考えてみることにしましょう。ペトロの使命は、先週の聖書箇所から分かりますが、主イエスの羊を飼うことであり、教会の伝道者としての使命に生き、最後は殉教します。

「「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」(一八~一九節)。

ペトロはこういう使命に生きました。それでは、主イエスの愛する弟子どうだったのか。今日の聖書箇所の二四節にこうあります。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(二四節)。この主の愛する弟子は、この福音書を書きました。ペトロの死に方を知っていますので、ペトロよりも生き永らえたということになります。死なない、などと噂されましたが、この著者もまた、やがては死にました。

さて、ペトロと主の愛する弟子、それぞれの使命について考えてきましたが、どちらが優れた使命に生きたでしょうか。比較することができない、と思われるのでしたら幸いです。ペトロは、伝道者として教会を建て、指導者となり、そして最後は殉教しました。主の愛する弟子はどうか。ペトロよりも生き永らえた。自分は殉教し損なったという思いも、もしかしたらあったかもしれません。しかし、この人はこの福音書を書いた。そういう使命を果たした。それぞれが、それぞれに与えられている使命を果たした。それで結構なのです。比較する必要はありません。どちらも、「わたしに従いなさい」、主イエスにそう言われた生き方を貫いたのです。

この後で、讃美歌四九四番を歌います。一番の歌詞はこのようになっています。「わが行く道、いついかに、なるべきかは、つゆ知らねど、主はみこころ、なしたまわん。そなえたもう、主の道を、踏みて行かん、ひとすじに」。

この讃美歌は、想い出の讃美歌でもあります。私が松本東教会に赴任して一年目、葬儀が相次ぎました。死の間際に病室で歌った讃美歌でもあり、実際に多くの葬儀でも、皆で心を合わせて歌ってきた讃美歌です。

どのような道を歩くことになるのか、ペトロにとっても、主イエスの愛する弟子にとっても、私たちにとっても、それは分からないことです。しかしたとえ先が見えなかったとしても、主イエスがその道を備えてくださる。その信仰を歌っている讃美歌です。あれこれと心を騒がせることがあるかもしれません。一筋の心に生きられないような時があるかもしれません。しかし主イエスは、そんな私たちのために「あなたは、わたしに従いなさい」(二二節)と言われます。主イエスのお言葉に従って、私たちもそれぞれの使命に生き、主イエスに従う歩みをしていきたいと思います。