松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年2月26日(日)
説教題「使命に生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第21章15〜19節

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

旧約聖書: 出エジプト記6:2~13

今日の説教の説教題を、「使命に生きる」としました。本日、私たちに与えられた聖書箇所の前半は、主イエスとペトロの愛の対話が記されています。三度も同じような対話が繰り返されていますが、いずれにおいても、主イエスが「わたしの羊を飼いなさい」(一七節)と言われています。これがペトロのこれからの使命ということになります。

そもそも、牧師というのは、羊飼いという意味です。牧師の務めとして、どのような務めがあるか。礼拝を司り、そこで御言葉を語る。教会の長老会などの会議を行い、教会の様々なことを整え、いろいろな方を訪問する。それ以外にもたくさん挙げることができますが、どれも牧師の大事な務めです。しかしその根本的なところにあるのは、羊を養うということです。何によって養うか。神の御言葉を語ることによって、そのような糧によって羊を養うのです。

ペトロにも、そして牧師にも、このような使命が与えられているということになります。それではその使命をどのように行っていくのでしょうか。どのような心構えで行っていけばよいのでしょうか。今日の聖書箇所の一八節に、「行きたいところ」「行きたくないところ」という言葉があります。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(一八節)。

ここでの「行きたいところ」「行きたくないところ」というのは、元の言葉の意味としては、「望むところ」「望まないところ」という意味合いがあります。意志に関する言葉です。つまり、自分の意志通りにできるか、それとも意志通りにできないかということです。

意志ということに関してですが、先週の木曜日のオリーブの会で、このことが話題になりました。オリーブの会は、信仰の初歩的なことを分かりやすく学ぶことができる会ですが、毎週テーマがあります。先週のテーマは「善悪について」です。善と悪。分かっているようで、案外分からないことかもしれません。参加者たちで、あまりよく分からないと言いながらも、いろいろな話題が出て、大変盛り上がりました。

オリーブの会の中で、創世記第二章から第三章にかけての箇所を読みました。神が天地万物をお造りになり、人間を造られます。楽園がそこにあるわけですが、神が善悪の知識の木を造られます。園のどの木から取って食べてもよいが、善悪の知識の木からだけは取ってはならないと命じられます。

話題にあがったのは、そもそもなぜ神がこのような木をお造りになられたのか、ということです。アダムとエバは食べてしまい、失敗してしまいました。しかしそもそも神がこのような木を造らなければよかったではないか。いったいなぜ造られたのか、ということが話題になったのです。

その話し合いの中で、人間の自由意志についての話になりました。もし神が善悪の知識の木を造らず、園のすべての木から自由に取って食べてよいと言われただけだったら、私たちは神の言うことに聞き従うだけしか選択肢がないことになります。しかしこの善悪の知識の木があることによって、神のご命令に従って食べないか、それともご命令に逆らって食べてしまうか、その選択肢が出てくることになります。神に従うか、神に従わないか、その究極の二者択一です。アダムとエバもこの二者択一の中にあった。今の私たちも同じです。

しかしアダムとエバも失敗してしまった。聖書のその後のところに書かれていることも、人間がこのような自由意志を与えられながらも、神に聞き従うことに失敗してしまった、そのことの連続です。今の私たちも自由意志がありながらも、失敗続きでしょう。

ペトロもまたそうです。ペトロも自由な意志によって主イエスに従いました。十字架を前にして、死んでもあなたに従います、胸を張って、そう言い張ったペトロでした。しかし自分の自由意志に敗れてしまって、失敗をしてしまいました。三度も主イエスとの関係を否定してしまったのです。「自分の意志に生きる」こともできませんでしたし、「自己実現に生きる」ことには失敗してしまったのです。

しかしそういうペトロに対して、復活された主イエスが再び出会ってくださり、ここで主イエスへの愛を問うてくださり、そしてペトロの自由意志についても問うてくださった。行きたいところに今までは行っていたかもしれないが、今後は行きたくないところへ連れて行かれる。自分の望みどおりには生きられないかもしれない。しかしペトロは「使命に生きる」のです。自分の意志通りではないかもしれないけれども、神に与えられた「使命に生きる」です。

今日の聖書箇所の一八節のところに、帯を締めるとか、帯を締められるということが記されています。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(一八節)。

ここではどういうことが言われているのでしょうか。案外、単純なことが言われているのかもしれません。自分が出掛けたい時に、自分で身支度をして、帯を締めます。しかし自分が出掛けたくない時に、人に身支度をさせられて、帯を締められることになります。

ある説教者が、このことをめぐって、こんなことを言っています。ペトロがここで他人に帯を締められるとは、日本の戦国時代の武将が出陣をする時に似ているかもしれない、と。私たちがテレビの時代劇を観ますと、お殿様が立って両手を開いて、家来に鎧をつけてもらっているシーンを観ることがあります。これから戦があり、出陣するわけです。戦いのリーダーとして、出陣し、味方を引っ張っていくことが求められます。そういう象徴として、家来に武具をつけてもらっているのです。

その説教者は、ペトロがこれから教会のリーダーとして、戦いの最前線に立つ姿を重ね合わせています。その姿が、帯を締められて、行きたくないところに連れて行かれるということを表しているのではないか、と言うのです。

なるほど、と思います。確かにそうかもしれません。ペトロは確かに今後、そのように「生き方」をしました。しかし、続く一九節を読みますと、ここで記されているのは、ペトロの「死に方」のことです。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(一九節)。

死に方というのは、生き方の一部と言えると思います。生きている最後に、死ぬわけですから、死に方というのは生き方の一番最後の部分だからです。どのように死ぬかは、どのように生きてきたかが問われることになります。ですから、ここで言われているのも、ペトロの生き方を含む、ペトロの死に方でしょう。

聖書学者たちが教えてくれることですが、一八節で言われていることの一部は、昔のことわざでもあったようです。つまり、若い時には自由になんでも行動することができたけれども、しかし年をとると体が不自由になり、他人に手を取られるようにして、他人の世話にならなければならない。そういう格言があったようです。

しかしこの箇所の意味が、そのような格言と同じ意味であるかどうかは、はなはだ疑問です。おそらく違うと思います。むしろ、「両手を伸ばして」という言葉に注目すべきだと思います。年をとって他人に手を取ってもらうならば、何も両手を伸ばす必要はないわけです。片手を曲げての方がよいとさえ思うくらいです。

この「両手を伸ばして」というのは、古くから、十字架の姿が示唆されていると解釈されてきました。主イエスが十字架にお架かりになったのと同じお姿です。ある聖書学者が指摘しているのは、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」というのは、ちょうど十字架につけられるときのプロセスと同じだ、ということです。ペトロの「死に方」が本当によく表されていると言えます。

ペトロはいったいどのような「死に方」をしたのでしょうか。聖書にはペトロの死に方が示唆されているだけ、はっきりしたことは書かれていませんが、ペトロは殉教の死を遂げました。

こんな伝説の話があります。「クォ・ヴァディス・ドミネ」(Quo vadis, Domine?)というタイトルが付けられたお話しです。語り聞かせるお話しとしても、絵画としても、映画としても、描かれている話です。「クォ・ヴァディス・ドミネ」というのは、教会が大事にしてきたラテン語の言葉で、「主よ、どこへ行かれるのですか」という意味です。

二千年前のローマ帝国の時代のことです。ペトロがローマで伝道をしている頃、だんだんと教会に対する迫害が日に日に厳しさを増してきます。皇帝ネロによる迫害と言われています。多くの教会の人たちが国外への脱出を余儀なくされます。ペトロも最後までローマに留まるつもりでしたが、教会の人たちからの強い要請を受けて、しぶしぶ、ローマを後にすることになります。

夜中に出発をし、アッピア街道というところを歩いていた時のことです。夜明けの光の中に、こちらに歩いてくる人が見えます。ペトロはローマの外へ、その人はローマへ向かって歩いてくる。ちょうどすれ違うわけです。よく見ると、それは主イエスのお姿だった。ペトロは驚き、ひざまずいて尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか」。主イエスはお答えになります。「あなたが私の民を見捨てるならば、私がローマへ行き、もう一度、十字架に架かろう」。

ペトロはしばらく気を失ってしまいます。起き上がってみると、もう主イエスのお姿は見えない。ペトロは迷わずにローマに引き返す。そしてローマで捕えられ、十字架に架けられて、殉教したのです。

もちろん、この話は伝説です。史実ではない部分が含まれていることも明らかです。主イエスがアッピア街道にもう一度、現れたことになっています。しかし聖書によれば、主イエスが再び来られるのは、終わりの時、再臨の時ですから、そんな時に現れてしまっては困ります。「もう一度、十字架に架かろう」と主イエスが言われたことになっていますが、聖書によれば、主イエスの十字架は一度限り、しかも完全な救いがそこで成し遂げられたわけですから、もう一度、十字架に架かられては困ったことになってしまうのです。

しかしそれらは史実ではないとしても、ペトロが殉教をしたというのは事実です。その後、ペトロの殉教した場所に、今のサン・ピエトロ大聖堂という呼ばれるものが建てられました。カトリック教会の中心となる教会です。ペトロは本当に両手を伸ばした「死に方」をした。そしてその「死に方」に表す「生き方」をしたのです。

「主よ、どこへ行かれるのですか」、実はペトロがこの言葉を口にするのは、二度目のことです。もっとも二度目は伝説上の話なので、実際には口にしていないわけですが、しかしペトロは以前にも、「主よ、どこへ行かれるのですか」と口にしたことがありました。

「シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」(一三・三六~三八)。

ペトロがこのように「主よ、どこへ行かれるのですか」と言った時は、明らかに失敗してしまいました。自分の行きたいところへ、自分の意志通りに生きている時には、失敗をしてしまった。主イエスを三度、知らないと言ってしまった。しかし今後は違う、と主イエスは言われます。自分の意志通りにいかなかったとしても、しかし使命を与えられて「使命に生きる」生き方をするようになると言われるのです。

今年は、宗教改革五百年の記念の年です。今から五百年前の一五一七年、マルティン・ルターの問題提起をきっかけに、教会の改革運動が起こり、プロテスタント教会が生まれていきました。当時の改革者たちは、いろいろなことを主張しましたけれども、その中の一つの大きなこととして、神さまからの使命は、誰にでもあるということを言いました。

当たり前と言えば当たり前かもしれません。しかし当時のカトリック教会は、教会の聖職者にだけ特別な使命が与えられていて、他の人たちとは違うと主張していたのです。改革者たちは、そうではなくて、すべての人に、すべての職業の人たちに、神の召しがある、使命があると考えたのです。

その点から考えて、私はあまり「社会人」という言葉を好んで使っていないところがあります。学生から社会人になる、一般的にはそう考えられているかもしれません。社会に出ている人たちがいる一方で、社会に出ていない人たち、社会にこれから出ようとしている人たちがいる、そういう分け方です。

しかし社会全体を考えた時に、学生だって社会の大事な構成メンバーです。それだけではありません。子どもだった、赤ん坊だってそうです。主婦だってそうです。家族の看取りをしている人だってそうです。いわゆる社会人として、この世の富に仕えている生き方をしているよりも、たった一人の子どもの世話や、たった一人の死にゆく親の介護をしている人の方が、よっぽど尊い使命に生きていると思います。それもまた神さまから召されたことです。使命に生きる生き方です。自分の意志通りではもちろんないかもしれません。他人に帯を締められて、行きたくないところに連れて行かれることかもしれません。しかし神の「使命に生きる」生き方です。

ペトロの生き方も、そして死に方も、主イエスと似たものになっていきました。私たちも同じです。主イエスが命を懸けて生き、そして死んでくださった。その主イエスの命を帯びた歩みを、私たちもすることができます。生きる時も、そして死ぬ時も、私たちは主イエス・キリストのものなのです。